[ 気合いの入ったロングエッセイ ]
みなさま方、そろそろ鰻の季節でございます。ワタクシも先日、コンビニで“鰻重のようなもの”を買ったのでございます。いそいそと暖めて、ワクワクしながら一口食べてアラビックリ。「なぜに餅米?」「なぜに鰻のタレの炊き込みご飯なの?」。確かに鰻の蒲焼きは乗っておりますが、どうやら、“鰻飯(うなぎめし)”という類のものだったようでございます。コンビニの新商品開発の人も大変だとは思いますが、う〜ん、ワタクシは、やはり、鰻はオーソドックスがいいのでございます。

さて、同じ食べものつながりではございますが、みなさま方、“昔ながらのお肉屋さん”というのをご存じでございますか? お肉をバネばかりで量り、緑色の薄紙で包んでくれる、あの昔ながらのお肉屋さんでございます。今時のスーパーでは重さと料金を瞬時に計算してデジタル表示する自動計量器が主流でございますが、そんな便利なものが無い頃のお肉屋さんでございます。そして、昔ながらのお肉屋さんは、トッテモ“アバウト”だったのでございます。

昔ながらのお肉屋さんは“量り売り”でございますから、買う側が「豚バラ200グラム、下さい」なんてお願いするわけでございます。お願いされたほうは、お肉をバネばかりに乗せるわけでございますが、よほどの“職人”でもない限り、200グラムカッキリになるなんてことはございません。そこで、はかりの誤差なども考慮いたしまして、ちょっと多めに包んでくれたりしたものでございます。この“ちょっと多め”なんていうアバウトな要素が含まれてくると、俄然“商売のポリシー”というものが個性的に表れてくるのでございます。商売のポリシーは“商売の底意地”なんて言ったりもするのでございます。

商売には、常に“臨機応変”というものが必要でございます。しかし、たとえ臨機応変とはいっても、その対処が“気分”でコロコロ変わってはいけないのでございます。やはり何らかの“筋”が通っていなければいけないのでございます。この筋が商売のポリシーでございます。サービス業をしておりますと、様々な“アバウトな”状況に遭遇いたします。もし気分で対応がコロコロ変わったら、その時は善処したように見えても、長い目で見るとお客様に不信感を与える結果に結びつくのでございます。ですから、時としてお客様を“区別”(差別とはまた違います)、あるいは、厳しい(冷たい)対処をしなければならない場合もございます。そんなときは“顔は仏、心は鬼”なのでございます。

つまり、毅然としたポリシーでお客様に接する、これはお客様への愛情なのでございます。今ひとたびお客様に辛い思いをさせても、いつの日か厚い信頼関係を結びたいと願う愛情の気持ち、その愛情がポリシーの筋金として存在すれば、そのポリシーはいつの日か理解されるのでございます。毅然とした態度が信頼を生み、その毅然と信頼の下地には、愛情という裏打ちがある。毅然と信頼と愛情、これらは三位一体の関係で存在しているのでございます。言い換えれば、毅然も信頼も愛情も、本質においてはみんな同じものなのでございます。

さてさて、商売のお話しばかりしてまいりましたが、この三位一体の関係、商売だけではございません。教育の現場、会社の上司と部下、親と子、夫と妻...、み〜んな、この三位一体の原理が存在いたします。究極な例を申しあげますと、SM(エスエム・サドマゾ)だって、この三位一体の例にもれないのでございます。愛情に裏打ちされた絶対的な信頼関係があるからこそ、相手をより強く打ったり縛ったり、あるいはすべてを任せて相手に身をゆだねる、なんてことができちゃうのでございます。SMは、究極の愛情表現なのでございます。

ただ、三位一体のうちの毅然ばかりが突出し、愛情や信頼の裏打ちのない人間関係というものも、存在するのでございます。例えば、チョット前に話題になった某ヨットスクールなんて例がございます。校長さんが崇高な理念を持っていたとしても、その下で働くコーチ陣までがその理念を会得しているという保証はございません。ましてや、閉鎖的な環境であればあるほど、そこには「囚人と看守の心理」(例:スタンフォード監獄実験)が働き、管理する側はより横暴に、管理される側はより卑屈になり、愛情や信頼を再確認する機会を失ってしまうのでございます。「組織として高い理念を浸透させる難しさ」、これをあの校長さんは気づいていらっしゃらないのでございます。たとえ校長さんが高い理念を持っていたとしても、その下で動くコーチ陣が、愛情の裏打ちを持たない厳しさばかりで生徒に接していたことは、何となく想像できるのでございます。

また、愛情ばかりが突出した例もございます。例えば、一時期小学校などで流行った(ひょっとしたら今でも?)、「順列なしの平等かけっこ」なんてのが一例でございます。子供の将来を考えたならば、あえて幼少期に様々な体験をさせておくべきでございます。しかし、その場かぎりの愛情に固執し、結果としてあえて子供に辛い体験をさせられないというのは、本当は自分の子供を信用していないということなのでございます。信用の裏打ちのない愛情は、一時は子供を伸びやかに教育したように思えても、実はその子供に“不信感の爆弾”をコッソリ植えつけてしまうのでございます。そして、子供が物心ついたときにその爆弾が爆発して……なんていう事件が最近多いような気がするのでございます。

では、信頼ばかりが突出すると……信頼が突出すると物事に“溺れます”。溺れると貢(みつ)いじゃったりいたします。「愛しているから貢ぐ」なんて自分に言い訳しそうでございますが、毅然とした態度がとれなくなるほど相手を信頼しすぎてしまうのは、実は、愛情に飢えている証拠でございます。つまり、他人ばかりを信頼し、自分を信頼できなくなっている状態でございます。この“溺れるスパイラル”から抜け出すには、毅然さを取り戻し、自分自身を愛することでございます。“愛”は外界にあるのではなく、自身の心の中にあるのでございます。これを忘れてしまうと、人は何かに溺れてしまうのでございます。「愛されたい」ではなく「愛することができる喜び」、これが清く正しい人の愛し方でございます。

お肉屋さんの話から、どんどん話題が大きくなっちゃったのでございます。思いつくままとりとめもなく書き進めると、こんな文章になっちゃうのでございます。よい子のみなさんはマネをしちゃいけないのでございます。でも、愛情と信頼と毅然が本質的には同じもので、三位一体の関係ということは間違いないのでございます。「愛とは信じること」「愛するがゆえに強くなれる」なんてことを言ったりするのも、この三者の関係があるからこそでございます。訳が分からなくなったらSMプレイを思い出していただければよろしいのでございます。SM=究極の愛なのでございますから。

そして、すでに申しあげましたように、この三位一体の原理は、商売・職場・教育など、人と人との交わる“アバウト”な関係では、必ず存在するのでございます。ところがところが、世の中にはアバウトじゃないものが増えつつあるのでございます。冒頭の“昔ながらのお肉屋さん”は少なくなり、すでに計量されたパック商品を選んでレジに持って行くだけという買い物が主流になっております。そして今では、インターネットを利用すればマウスクリックだけで何でも買える時代になっております。人との交わりが少なくなり、アバウトな関係を処理する機会はますます少なくなる一方でございます。その結果「人の愛し方が分からない」という人が増えているような気がするのでございます。

というわけで、みなさま方、「愛に迷ったときにはSMに走れ」というのが今回の結論でございました。ムチとローソクで頑張ってくださいませなのでございます。みなさまが頑張っている間に、ワタクシは究極のコンビニ鰻重を探すのでございます。おいしい鰻重の情報などございましたら、お知らせ下さいませ。ではでは失礼いたします。次回をお楽しみに。名古屋薫でございました。

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(2006/1/24以前のバックナンバーはこちらからどうぞ)

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