合掌 あけましておめでとうございます。
前回の発行以来、丸々半年間の休刊状態をまずはお詫び申し上げます。現在修士論文の執筆が佳境となり、一月中旬の締切に向けて追い込みをかけている真っ最中。それが終われば一息つくので、あらためて電子説法の定期発行体制を取れるよう考えたいと思っています。
例年ですとお正月には家族で自坊に里帰りし元旦法要にも御出仕させていただくのですが、そのような状況で今年は帰れませんでした。その代わり、自宅のお仏壇で子供たちと一緒にお勤めをした様子が、上の写真です。十歳の長男が木鉦を、七歳の次男が鐘を担当。二歳の三男は私にくっついてただにこにこしていました。
思えば私も子供の頃、親である師僧の信仰の振る舞いを間近に見て育ちました。教義を識ることも科学的批判精神で分別することもなく、幼心に見よう見まねで手を合わせお題目をお唱えする。それは祈りという心の働きを、心の底から信頼する親の振る舞いに接することで、自分自身の振る舞いとして身に染み込ませる経験であったのだろうと思います。思春期から青年期にかけて私が自分自身の信仰を受け入れられずに苦慮したことについては、初期の電子説法で記しています。その果てに私が信仰を──排他的妄信とは異なるものとして──受け入れることができたのは、そのような子供の頃の経験が私にとって抜き差しならない価値を持っているのだと気づいたからでした。そして今度は私が子供たちに見られる番が来たというわけです。
昔の年齢の数え方(数え年)では、元日には誰もが一斉にひとつ歳を重ねます。母の胎から生まれた赤子はその全身に家族の慈しみを受けて育てられ、正月を迎えるごとに幼児、少年、青年と成長して、やがて子宝に恵まれたならば親の立場で人の誕生と成長の過程に関わることとなります。子育てだけでなく、地域の子供に接すること、教員として生徒・学生を教えること、職場で部下を指揮することなど、人生の後輩に関わる場面は社会生活の中で様々に存在します。元日を迎えた数の違いだけ、人は誰かの人生の先輩になるのです。人はその時、いわば螺旋のように、かつて自らが辿った道を後輩が歩こうとしている事に気づきます。かつて自分は先輩から何を学ばせてもらったろう、今自分は後輩に何を示してやることができるだろう。そのような真摯な自問が先輩には求められるのだということを、我が子らの綺麗な目に見つめられながら日々思い知らされています。
この一年が皆様とその周囲の人達の「螺旋の人生」にとって実り多きものでありますように。再拝。
合掌 おはようございます。
昨日(30日)、東京医科歯科大学で行われた「宗教的輸血拒否に関する公開シンポジウム」(日本輸血・細胞治療学会主催)を聴講しました。今月に入って、輸血拒否により妊婦が死亡した事件や医学界が輸血拒否についての対応指針策定を検討しているというニュースが相次ぎ、どのような事が語られているか是非聞きたいと考えて上京したものです。
妊婦死亡に関する河北新報社の記事
http://www.kahoku.co.jp/news/2007/06/2007061901000781.htm
学会の指針案についての読売新聞社の記事
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20070624i101.htm
日本輸血・細胞治療学会主催「シンポジウムのお知らせ」
http://www.yuketsu.gr.jp/information/2007/yuketukyohi.pdf
シンポジウムには、臨床医など医療関係者3名、教団職員、倫理学者、民法学者と6人の演者が様々な立場から輸血拒否問題に関する思いを語られました。この大問題をわずか3時間半で質疑応答まで含めて語り尽くすことは到底できず、せめて丸一日あればと思いましたが、逆にいえばそれだけ濃密な内容であったことは確かです。
エホバの証人の事例ではありませんが、やはり宗教的信念に基づいて親が手術拒否をしている場合に児童相談所が親権剥奪して手術を実施した事例について、昨秋の電子説法で取り上げたのをご記憶でしょうか。
平成18年10月25日〜11月5日「個人の信仰と社会権力」1〜4+補遺
※何故かバックナンバーへの直接リンクがうまく機能していません。メールログをお持ちの方はそちらを、お持ちでない方はお手数ですが→の「マガジン内検索」から「個人の信仰と社会権力」で検索してご参照ください。
この時のシリーズの(3)において、ひとまず最高裁判例が示した人格権としての自己決定権の尊重を前提にした上で、自己決定能力の問題──つまり自己決定権が何歳から認められるのか、そもそも自己決定とは何かが問題となってくると記しました。今回の指針は、臨床医学としてその問題に踏み込む試みであるととらえています。
少し驚いたことは(そして喜ばしいことには)、登壇した医師の方々が「エホバの証人は聖書に則り輸血を拒否しているが、子供のことを愛し治癒を願って輸血以外の最善の医療を受ける意志をもっていることはよく分かる。これを児童虐待の医療ネグレクトと同一視することには強い抵抗があるし、世間が評価するようにカルトと呼ぶべきかどうかも問題ではない」と異口同音に口にしておられたことです。この問題は私も上記シリーズの「補遺」で取り上げましたが、実際に医療現場で患者・家族と向き合いコミュニケーションを取った人からそのような実感を直接聞くことができただけでも、今回の収穫だったといえます。ただ、世間一般のカルト批判の言説がシンポジウムに持ち込まれなかったこと自体について、この場が必ずしも日本社会全般の縮図ではなくある種の倫理的エリート(このような言葉が適切かどうかは分かりませんが)の集まりであったことも確かなのでしょう。民法の先生が「私は輸血拒否をもって児童虐待と呼ばれても仕方ないと思う」とおっしゃっていたのが、その点のバランスをかろうじて保つものであったかもしれません(バランスを取ることが絶対に必要ということではなく、多様な意見を戦わせることがシンポジウムというものの価値だろうという意味です)。
興味深かったのは、患者・家族に輸血を行わないことのリスクを十分に説明した上で、「患者が納得しなかったら転院を進める」という医師と「その時には輸血をすると宣言し、同意は求めない。起きたことの責任は自分が取る」という医師がおられたことです。これは医師というものの立場を巡る考え方につながります。単純化していうならば、医師はひたすら患者(=顧客)の意向を聞き入れるサービスマンに徹するべきなのか、専門職たる医師としての自負と信念に基づいて時に患者の意向を踏み越えるべきなのか。これは医療関係者ではない私には軽々しく判断が下せない領域ですが(ただし仕事として医療の周辺領域に身を置いています)、一方を重視し他方を無視することができないことは分かります。「黙って俺についてこい!」式の医師に今時の患者はほとんどついて行かないでしょう、誰もが自分の治療方針を理解し納得して治療に臨みたいと考えている筈です。といって「情報の非対称性」の問題、つまり患者はほとんど医学知識をもっておらず医療行為は医師の指揮によって行われざるを得ないことも確かなのです。医師が自分の知見と技術に自信をもっていなかったら、患者の感情論に簡単になびいてしまうようなら、患者である私たちは彼を信用できないでしょう。
エホバの証人に限らず輸血拒否をする患者もいる筈だ、という意見もちらりと出ましたが、そこも重要な論点です。言い換えるなら、今回の指針について、宗教的理由に基づく輸血拒否だけではなく、インフォームドコンセント下での治療法選択全般について同じ基準を適用できるものか、ということです。たとえば「本人・保護者が輸血拒否をしても15歳以下なら医師の判断で輸血する」ということが「本人・保護者がある治療法を拒否しても15歳以下なら医師の判断でその治療法を行う」という一般基準にまで拡大するのかどうか。医師は自らの医学的信念で「この治療法しかない!」と考える、しかし患者や家族は嫌がっている、その時にどうするのか。一般化しないのであれば、何故輸血拒否問題だけ特別扱いするのかを論理立てる必要がありますし、一般化するのであれば、これは「カルト」宗教についての限定的な議論ではなく、医療行為を巡る医師と患者の関係全体に関わる議論となるわけです。
また、シンポジウムで明確に論じられなかったことで重要なものもひとつ残されています。それは「自己決定とは何か」を巡る問題です。そこに迫る可能性を持った論を展開していたのは倫理学者の方(さすが)でしたが、残念ながら時間に追われて足早な内容で終わってしまいました。信仰に基づいて輸血を拒否する人を、信仰の外にいる私たちは奇妙に思います。口の悪い人なら「邪教に洗脳されてるんだ」とまでいうでしょう。仮に洗脳だとしたら、15歳未満も以上も同じことで、最高裁のいう「人格権としての自己決定権」は永遠に成立しません。逆に、宗教を信じていない人なら、一切の洗脳から自由なのでしょうか。そうではない、ということを少なくとも仏教徒なら知っている筈です──諸行無常・諸法無我の真理から遠いところに生きているのが人間という存在なのですから。私たちは生まれ落ちてから今日までに至る人生経験に縛られています。見知らぬ信念・慣習には拒絶反応を起こし、それを否定する理屈をどこからでも探してきます。他人から自分の抱く信念・慣習に対して攻撃を受けた時には、必死に守ろうと足掻きます。もちろんこうした信念・慣習は、異文化接触を通じて変化し得るものです。その変化は、可能性としては死ぬまで起こりうるものです。
ならば、ある時点での「自己決定」とはなんでしょう。完全に相対的で取るに足らないもの? どうにでもなるものだからこそその都度「我が儘」を押し通すことが人生のあるべき姿? どちらの極端も違います。中道を説く仏教ならば、その中間に私たちの生きる道を見つけるでしょう。でもその「中道」はくっきりと目に見えるものではありません。とても曖昧で、誰もが手探りをしながら自分自身の道を探す他はありません。
今回のシンポジウムの最大の収穫は、医療と宗教の二つの領域の間でそのような手探りが行われていると確認できたことでした。最初に学会で指針案が策定されているという記事を目にした時、医療側のある種の自己防衛策(法的防衛であると同時に専門職の尊厳の防衛)として一方的な議論が行われているような印象を受けました。しかし、そうではなかったのです。医療と宗教、医師と患者、非信仰者と信仰者が、病気という深刻な出来事を巡って出会った。その時に、関係者全員が互いに「どうすれば一番いい状況に至るだろう」と真摯に考え、相手とコミュニケーションを取りながら、自分の進むべき道を模索している。それは異文化間対話の創造的作用の現場なのだと嬉しく思いながら、私は会場を後にしました。
合掌 こんにちは。
メールマガジン「電子説法一日一話」の創刊号を発行したのは今から七年前の今日、平成十二年五月十六日のことでした。
当時の私は、僧侶養成学校卒業以来十五年ほど還俗同様の生活を送っており、ようやく「法華宗僧侶として生きること」に得心した時期でした。つまり法華コムの設置とメールマガジンの創刊は、私にとって一種リハビリ的なものであったというのが正直なところです。もちろん還俗生活の中でも宗教的人間として日々様々なことを感じ考えていましたので、ネット上の活動を通じてそれを言葉にまとめておきたいという思いもありました。幸い読者の支持を得て、ほぼ日刊ペースで1000号まで到達したのが3年後。しかしそれから更に4年、今回が1342号であることからもその後の発行ペースの低下が分かります。
創刊とほぼ時を同じくして誕生した次男は、この春小学校に入学しました。つまり七年とは、小さくて弱々しい生命が一人前の少年に育つだけの時間。僧侶を名乗る者として電子説法を十分に育てることができたかといえば、このところの体たらくを恥じ入るばかりです。
私は現在大学院で法学の勉強をしています。なかなかに忙しい日々で、例えば昨夜は午前四時半まで資料作りに追われていましたし、今夜も同じような状況です。今年は修士論文執筆の年で、来年一月の締切までますます時間的余裕がなくなるでしょう。学生生活を生かして僧侶としても役立つ知見を少しずつ培ってはいますが(今年前半は文化人類学[構造主義等]と哲学[解釈学]のゼミを受講しています)、インプットばかりでアウトプットを行わなければ、自分の中で知識を十分に咀嚼できないことも確かです。
当面の発行ペースがどこまで回復できるかは分かりませんが、電子説法はゆっくりと末永く育てていくつもりです。読者の皆様には今後ともよろしく叱咤とご教導をお願いいたします。
今日も良い一日でありますように。再拝
合掌 おはようございます。
先の土曜日に、島根在住のSF作家・飛浩隆さんとご一緒する機会に恵まれました。
電子説法の読者層にとって飛さんの知名度がどのくらいか判断がつきかねるのですが、SFファンなら知らぬ者のない、斯界の最高峰に位置する作家です。単行本は『グラン・ヴァカンス』『象られた力』『ラギッド・ガール』の3冊しか出ていないけれどいずれも非常に高い水準の作品で、ここ数年の間に日本SF大賞をはじめ様々な賞を受賞しています。私なりに一言でいうならば、「人間の経験」の問題に対する感受性の確かさ、そしてそれを表現する手法の巧みさ・緻密さにおいて、文学全体の中でも希有なる高みに達した作品群です。その多面的な魅力については、私が言葉足らずにご紹介するよりも、ネットで検索していただいた方が適切でしょう。
実は飛さんとはとある関係で以前からの知り合いでした。今回は、私が受講している大学院の文学ゼミで飛さんの作品を取り上げることとなり、せっかくだからとご本人をお招きしたところ快く参加していただいたものです。
2時間弱のゼミと深夜に及んだ飲み会には、十人ほどの学部生も参加していました。彼らは大学の文芸部員で、同人誌を制作して自ら小説を書いている人たちです。私自身もアマチュアとして二十年以上小説を書き続けています。そうした表現者たちの熱気の中で、トッププロである飛さんから色々なお話を聞くことできました。特に強く感じたのは、飛さんの作品に対する自負と、それを裏付ける執筆態度です。「俺の文章をこれ以上磨き上げることの出来る奴は俺しかいない、そういえるだけの努力をした」そんな彼の言葉が偽りでないことは作品そのものが示しています。ブログLaterna Magika SF作家 飛浩隆のweb録でも時折り編集者とのシビアなやりとりが紹介されていますが、ひとつの作品を創り上げるのにこれほどの集中力を維持できるかどうかが、プロとアマを決定的に隔てるのでしょう。
優れた作品を創るにはそれだけの努力をしなければならない。当たり前のことです。でも、その当たり前のことを行うためには、意志の力が必要です。自分自身の創作態度を振り返れば、「仕事や子育てが忙しい」「もう締切だから」「枚数オーバーしてるし」「次の話を書きたいな」と色々な言い訳を用意して、作品を磨き上げることを怠っていると認めざるを得ません。電子説法でもそうですね。日刊ペースで発行していた頃はまだしも、月に数度しか発行しない現在ですら文章や論旨のチェックが万全ではなく、後になってブログをちょこちょこ修正することがあります。しかし考えるまでもなく、七百数十人の登録読者に配信されたメールは修正のしようがないのです。それを思えば、常に怠ることなく文章を磨き上げるべきなのです。
止暇断眠。暇を止め眠りを断って何事かに取り組む真剣さ、そして誠実さ。小説を書くことにせよ仏様の教えを説くことにせよ、「表現」にはそれが欠かせないものであることを思い知った一日でした。
今日も良い一日でありますように。再拝
合掌 おはようございます。
先日、長男の隣のクラスの子が登校中に交通事故に遭いました。現場は長男がいつも通学時に渡る交差点、被害者は幼稚園の時の同級生です。一時は意識不明と伝えられ最悪の事態にならないことを祈っていましたが、幸い(といっていいものか……)両足骨折のみで生命に別状はありませんでした。
風見しんごさんの娘・えみるちゃんの事故報道も他人事でない思いがありましたが、これだけ身近に事故があると、子を持つ親は誰でも不安になるでしょう。こんな気持ちは久しぶりです。
そういえば長男が産まれてしばらくの間、理由もなく「いつかこの子を喪うかも知れない」という不安を抱えていました。子を得るというそれまでにない幸福な経験が、その幸福を失うことの不安と恐怖を反比例のように育てていたように思います。その頃、過失により我が子を喪った父親が幻想世界で贖罪を求める短編小説「知事決裁」を執筆しました。県芸術文化祭で入賞し、幼い長男をベビーカーに乗せて授賞式に出席したのを覚えています。子を得る幸福の只中にいる筈なのにこのような暗い小説を書くなんて自分はどこかおかしいのではないか、とも当時は考えましたが、その時期の私にとって書かなければならない作品だったのだと今は分かります。以前に電子説法でご紹介した作品「ピエタ」が、父の死を受け入れるために必要な文学的営為であったのと同じです。
平成十五年九月一日「ピエタ」
平成十五年九月四日「ピエタ 解説」
時が経ち、子と共に在る幸福が当たり前になるにつれて、不安は萎んでいきました。けれどもそれは、仏教のいう愛別離苦の真理を、いつかは必ず愛する者と別れねばならないという現実を、一刻忘れているだけのことだとも分かっています。
初期仏教は「だから愛する者を作るな」として出家修行の道を説きました。大乗仏教は、諸行無常の理を踏まえた上でなお愛する気持ちを大切にする道を選びましたが、それは愛別離苦を受け入れる覚悟を必然的に伴うものでした。更に日本では、明治政府の太政官布告を機に僧侶の妻帯が解禁され、私自身を含め多くの僧侶が家族を得ています。その事の是非は人により判断が異なるでしょう。ただ少なくとも、諸行無常を知る仏教僧であるならばこそ、精一杯家族を愛して日々を過ごさなければと思うのです。
今日も良い一日でありますように。再拝
「納豆がダイエットに効く」としたテレビ番組の内容にデータねつ造があったと報道されていますね。
朝日新聞社の当該記事
我が家では妻が納豆好きで以前から食べているのですが、最近急に店頭で売り切れが続くようになったといいます。調べてみると、上記テレビ番組が原因で全国的に納豆ブームが起きていると分かり、妻はぶつくさぼやいていました。そこにこの報道というわけで、妻は「ほら、やっぱり」という顔をしています。納豆産業にはこの数週間の消費動向の激変は打撃だったと思いますが、本当の納豆ファンはこれで一安心かも知れません。
健康産業というものがあれだけの規模で成立するほど、健康は私たちにとって重大な関心事です。ですから、テレビや本で「これが効く!」とアナウンスされた時に、雪崩を打つように誰もがそれに飛びつくことを、安易に笑うことはできません。真正でない報道をした制作側が一方的に責められるべきことは当然です。けれど、それでもなお、私たちはこの出来事を教訓として私たち自身の心の動きに目を配るべきだと思うのです。
椰子の実が落ちた音を地面が壊れる音と勘違いした兎が森の動物たちをパニックに巻き込んだ仏教説話は、以前にご紹介したことがありますね(平成十七年三月二十五日「心穏やかに真実を見つめる」)。何が事実か、何がそうでないのか。心を強く揺り動かす演出によってデコレートされた情報の、真実の姿はどこにあるのか。仏教の基本は正見と正思惟、事実を正しく観察し正しく思考することです。それは決して容易なことではありません。繰り返しますが、私たちは誰もが情報に右往左往してしまう性質を持っているのです。今は他人を笑っても、別の瞬間には誰かに笑われているかも知れない。その事実を理解するならばこそ、身の回りの「情報」を冷静に検証し、自分自身の中に沸き起こる感情を見つめ、言動への配慮を行うことを少しでも心がけたいものです。
今日も良い一日でありますように。再拝
今夜から五夜連続で「五木寛之 21世紀・仏教への旅」が放映されます。一般の人々に向けて仏教を分かりやすく語ってきた五木氏が、アジア・欧米そして日本の仏教の現場を旅するドキュメンタリーです。
NHKハイビジョン特集
(本号発行時点で当該番組の案内が掲載されています)
http://www.nhk.or.jp/bs/hvsp/
残念ながら今回はNHK-hiでの放映ですので地上波放映は後日を待たねばなりませんが、視聴環境のある方はハイビジョンでインドやアジア各地の仏跡を観る良い機会となるでしょう。私もこのところ宗教間対話について色々調べ物をしており、この番組が良い参考になるかも知れないと期待しています。
今日も良い一日でありますように。再拝
昔、人は不死であった。
年老いると、古びた皮を脱ぎ捨てて、若返ることができた。
ある時、幼子を抱えた母親がいた。
年老いた彼女は外で皮膚を脱ぎ、若い姿で戻ってきた。
幼子は、それが母である事に気づかず、母を求めて泣いた。
仕方なく、母は再び古い皮を着て、老婆に戻った。
幼子は母を認めて心安らいだ。
それ以来、人間は年老いて死ぬこととなった。
これはメラネシアに伝わる古い神話で、学生時代に本で読みとても心に残っているものです。
神話は古代の人々が世界の有様を理解した物語です。これは「死の起源神話」つまり人に死が訪れるのは何故かを説明するもので、脱皮型と呼ばれる類型に属します。人は昔、蛇が皮を脱ぎ捨てるように生命力の再生を果たしていたが、ある出来事によりその力を失ってしまう──それがどのような出来事かは神話によって様々に異なります。
人が何故死ぬこととなったか。神話が語るその理由には、災難や謀略、またはタブーにまつわる過ちが関係しているものが多いようです。けれども、このメラネシアの神話はそうではありません。子が母を求め、母が子を想う、その気持ちから母親は自ら運命を選び取ったのです。若き日の私は、そこに深く感動しました。
この神話は、法華経の良医治子の譬喩に通じるものがあります。私たちの誰もが経験する日常的な親子の情愛が、神話や信仰の中で、人の有様の根幹を言い当てるものとなるのです。
今日から新しい年が始まります。私たちは不死ではありません、年老いていつかは死ぬ定めです。けれども人生は単純な一直線ではないのです。かつて子供として親に愛された者が、いつしか親となり、または社会の一員として、子供たちを慈しむ立場に変わる──ぐるぐる回りながら上昇する螺旋のように、人は同じ「人の世」にあって少しずつ成長し世代を交代しています。一年のサイクルはいわば螺旋のとある一回転、死へと近づきながらも上を憧れ下を慈しむ人生は、とても幸福なことです。
今日も良い一日でありますように、そして、本年が皆様にとって良い一年となりますように。再拝
今年もいよいよ大晦日となりました。皆様今年一年はどのような年だったでしょうか。
私はといえば、一旦仕事を離れて十数年ぶりに学問の世界に戻る僥倖に恵まれた年であり、また生まれて初めて監督としてアマチュア映画制作に取り組む経験もしました。家族も皆健やかで、総じて良い一年だったと思います。
ただし、僧侶としての所作を振り返れば反省することばかり。何より電子説法を一年間で十八号しか発行できなかったことは、平成十二年の発刊以来例のない状況です。十二月も発行準備の執筆は進めていたのですけれど結局今号を合わせて二号のみという体たらく。一月も何かと厳しいスケジュールですが少しずつ体勢の立て直しを図りたいと思います。
それでは皆様、良いお年を。今日も良い一日でありますように。再拝
以前のアンケートによれば、電子説法の読者層には無宗教(特定の宗教に対する信仰を持たない人)の方が多数おられます。私自身は日蓮聖人門下に連なる者ですが、それ以外の宗教の信仰者も読者には少なくありません。つまり、電子説法の筆者−読者をひとつのゆるやかなコミュニティと考えるならば、それは様々な宗教・思想・信条を持つ人々の集まりであるといえます。この事はもちろん少しも奇妙なことではありません。むしろ、私たちの生きているこの社会が、そもそもそうしたものなのです。
信仰を持っているか否かに拘わらず、日常生活の中で宗教・信仰の話をすることはどこか憚られる、そんな人は多いでしょう。ですから友人知人の顔を思い浮かべても宗教・信仰の有無をはっきりと知っている相手は少ない筈です。それでも、じっくり考えるとちらほら思い浮かぶもので、私の場合、まず妻が浄土真宗寺院の娘です。大学時代の恩師は金光教徒ですし、友人の奥さんは天理教徒、息子の友達の家は創価学会、他にもテーラヴァーダを修行している友人とか神主・住職を兼務している同僚・仕事関係者も複数います。
けれどももちろん、誰が何を信仰しているからどうだ、なんてことはまずありません。人間関係というのは属性(人種・国籍・宗教etc.)ではなく性格に左右されるものなのですから。それは至極当たり前の話です。そして、幸せな話です。世界を見渡せば、属性が人間関係を規定する状況は枚挙に暇がありません。共に平穏に暮らしていたセルビア人とクロアチア人が、ある時期を境に隣人同士殺し合う状況となったボスニア紛争は、近年における最も悲劇的な事例のひとつです。人種・国籍・宗教などの属性が、本人の人格に拘わらず、蔑視を招き迫害の原因になってしまう。それはとても不幸なことです。
トルコを訪問しているローマ法王が、モスクの中でイスラーム法学者と共に祈りを捧げたというニュースは、世界を駆けめぐりました。
読売新聞の当該記事
異なる宗教の指導者が共に祈りを捧げる。それはあり得ることでしょうか。信仰というものを極めてファンダメンタルに捉える立場からすれば、そのような振る舞いが欺瞞に思えることもあるでしょう。私はそのような立場に立ちません。「人々が平和であれ」という願いは普遍的なものです。私が求めるものもそうした普遍的な祈りです。「人々が我が神の下で平和であれ」といった途端に、祈りは普遍性を失います。それが行き過ぎれば、属性が善悪の判断基準となり、他の神と共に在ることは不可能になります。
もちろん祈りとは常に固有のものです。人は誰もが他の誰の者でもない自分自身の祈りを抱えています。私の祈りのスタイルは南無妙法蓮華経であり、他の何かではありません。けれども、私の祈りと、他の諸宗教の祈り、無宗教の祈りは、必ず通底するものがあると確信もしているのです。愛する人と共に過ごす喜び。良き道へ進みたいという願い。子を喪う親の悲しみ。不正への怒り。不幸を厭い幸福を求める祈り。人の数だけ異なるシチュエーションで発生するそれらの祈りは、人々の違いを越えて普遍なものです。ならば、私は、私と違う人々と共に祈れるのではないか。私が私のスタイルで祈りにアクセスするように、誰もが自分自身のスタイルで祈りにアクセスする、その時に私と彼らとは共に祈っているのではないか。私はそう思うのです。
私は私と違う人たちと共に生きているのだという諦念。「自分とは異なる存在」に対して開かれた祈り。今回のニュースは、あらためてそんな事を考えるきっかけとなりました。
今日も良い一日でありますように。再拝
