[ 時事随想 ]
合掌 おはようございます。
アメリカでおもしろい研究が発表されたことを朝日新聞の記事で知りました。祈りは病気治療に効果があるのか――心臓手術を受けるおよそ1800人の患者を「第三者が手術成功を祈り、その事を知っている人」「第三者が手術成功を祈るが、その事を知らない人」「第三者が手術成功を祈らない人」の三グループに分類し、手術の成否や予後経過を観察・比較したものです。その結果、祈りによって特に手術の成功率が上がることはなく、むしろ祈られていることを知っていた人の方が合併症の発生率が若干高い「マイナス効果」がみられたと報道されています。
古来宗教は病気治療と密接に結びついていました。現代でもなお、少なからぬ宗教・宗教者が信仰と祈りによって病気は治ると主張しています。そうした信念に反するデータが出てきたわけですね。調査をバックアップしたジョン・テンプルトン財団について少し調べてみると、科学と宗教の関係をテーマにした「テンプルトン賞」を主催しており、決して反宗教の立場ではありません。どうやら過去の調査からはむしろ祈りのプラス効果が予想されていたのが逆の結果になったということのようです。
宗教的なものを信じない人は「あったりまえじゃん」と感じるでしょう。逆に宗教的治療を真正面から信じている人が「信仰心の裏付けのない作為的な祈りに効果などない」などの理屈をつけて調査結果を一笑に付すこともあるでしょう。もしかしたら、これまで宗教的治療を信じていた人が、調査結果にショックを受けて宗教不信に陥ることもあるかもしれません。
科学と宗教の問題、信仰で病気が治るかという問題については、電子説法でも繰り返し触れてきました。科学と宗教は取り扱う領域が違うから、一方の立場から他方を絶対的に批判することはできない、というのが私の基本的なスタンスです。たとえば心臓病の外科手術が成功するか失敗するか、予後経過がどうかは、ある意味で純粋に科学(医学)の領域の問題です。でも科学は、患者が抱く病気の不安や治癒への願いを直接的には取り扱うことができません(心的ストレスが免疫系に作用する機序の研究、抗不安薬による精神コントロールなど近接領域はありますが)。それは宗教的な領域です。医学の発達していなかった古代も、相当な発達を遂げた現代でも、病気が極めて重大な人間的経験であることに変わりありません。その経験をどのようにすくい取り手当をするか、優れた医療スタッフならば「(教団・教義という意味での)宗教」の手を借りずとも十分なサポートを行いますが、宗教を通して初めて病という経験を受け入れることのできる人も少なくないでしょう。
この考えは、決して科学と宗教が互いに相手の領域を侵犯するなと主張するものではありません。宗教的信念を持つ者は、その信念がいつかこうした科学的検証に晒されることを覚悟すべきです。逆に信仰を持たない無宗教者は、人が誰もが意味を抱えて生きる存在であることを理解し、そのひとつの顕れとして宗教・信仰が存在することを(つまりは生の多様性を)認めるべきです。科学と宗教が互いに批判検証しあいながら、総体としての「人が生きることの智慧」を培うことこそが大切なのだと思うのです。
今日も良い一日でありますように。再拝
アメリカでおもしろい研究が発表されたことを朝日新聞の記事で知りました。祈りは病気治療に効果があるのか――心臓手術を受けるおよそ1800人の患者を「第三者が手術成功を祈り、その事を知っている人」「第三者が手術成功を祈るが、その事を知らない人」「第三者が手術成功を祈らない人」の三グループに分類し、手術の成否や予後経過を観察・比較したものです。その結果、祈りによって特に手術の成功率が上がることはなく、むしろ祈られていることを知っていた人の方が合併症の発生率が若干高い「マイナス効果」がみられたと報道されています。
古来宗教は病気治療と密接に結びついていました。現代でもなお、少なからぬ宗教・宗教者が信仰と祈りによって病気は治ると主張しています。そうした信念に反するデータが出てきたわけですね。調査をバックアップしたジョン・テンプルトン財団について少し調べてみると、科学と宗教の関係をテーマにした「テンプルトン賞」を主催しており、決して反宗教の立場ではありません。どうやら過去の調査からはむしろ祈りのプラス効果が予想されていたのが逆の結果になったということのようです。
宗教的なものを信じない人は「あったりまえじゃん」と感じるでしょう。逆に宗教的治療を真正面から信じている人が「信仰心の裏付けのない作為的な祈りに効果などない」などの理屈をつけて調査結果を一笑に付すこともあるでしょう。もしかしたら、これまで宗教的治療を信じていた人が、調査結果にショックを受けて宗教不信に陥ることもあるかもしれません。
科学と宗教の問題、信仰で病気が治るかという問題については、電子説法でも繰り返し触れてきました。科学と宗教は取り扱う領域が違うから、一方の立場から他方を絶対的に批判することはできない、というのが私の基本的なスタンスです。たとえば心臓病の外科手術が成功するか失敗するか、予後経過がどうかは、ある意味で純粋に科学(医学)の領域の問題です。でも科学は、患者が抱く病気の不安や治癒への願いを直接的には取り扱うことができません(心的ストレスが免疫系に作用する機序の研究、抗不安薬による精神コントロールなど近接領域はありますが)。それは宗教的な領域です。医学の発達していなかった古代も、相当な発達を遂げた現代でも、病気が極めて重大な人間的経験であることに変わりありません。その経験をどのようにすくい取り手当をするか、優れた医療スタッフならば「(教団・教義という意味での)宗教」の手を借りずとも十分なサポートを行いますが、宗教を通して初めて病という経験を受け入れることのできる人も少なくないでしょう。
この考えは、決して科学と宗教が互いに相手の領域を侵犯するなと主張するものではありません。宗教的信念を持つ者は、その信念がいつかこうした科学的検証に晒されることを覚悟すべきです。逆に信仰を持たない無宗教者は、人が誰もが意味を抱えて生きる存在であることを理解し、そのひとつの顕れとして宗教・信仰が存在することを(つまりは生の多様性を)認めるべきです。科学と宗教が互いに批判検証しあいながら、総体としての「人が生きることの智慧」を培うことこそが大切なのだと思うのです。
今日も良い一日でありますように。再拝