[ 宗教書評 ]
合掌 おはようございます。
『幻視する近代空間』 川村邦光 青弓社
狐憑き、という言葉がありますね。現代でも一部の宗教・霊能の世界ではこの概念が通用していますが、多くの人は「狐が人に取り憑くなんて昔の迷信だ。昔の人は精神病を知らなかったからそう考えたのだ」と合理的な判断をしているでしょう。そこには典型的な「啓蒙」の視点があります。蒙を啓く、つまり正確な知識とそれに基づく論理的判断力を培うことによって人は誤った考え方を捨て正しい考え方に至るのだとする一種の進歩史観です。
近代化とは、まさにこうした啓蒙の歴史であったといえるかも知れません。事柄の仕組みを分析し、見極め、再現可能な理論を構築して、技術化し、人を物質的に(そして物質的充足が導く範囲で精神的に)豊かにする。ヨーロッパで発展した科学と合理は確かな力で世界を席巻しました。その過程で、前近代が「蒙」であるが故に培ってきた様々な意味づけ(例えば狐憑き)が、根拠を剥ぎ取られ奪われていったことも確かです。そのこと自体は善でも悪でもありません、異なる文化が出会ったときに強者が弱者を飲み込むという歴史の必然なのでしょう。むしろ正見・正思惟を基礎とする仏教的な視点からすれば、合理主義的思考が広がるのは望ましいことであるともいえます。ただし、それが真に正しい物の見方であり考え方である限りは、です。
実際は、近代化もまた一つの意味と価値の体系です。前近代の思考方法を蒙=知に暗いことと貶め、例えば「20世紀には合理主義の発展に伴い宗教は衰退するだろう」と予言した19世紀の社会学者のように、自らの真理性とそれが故の進歩史観を信じて疑わぬ脳天気ともいえる立場です。現実には20世紀を経て21世紀に至った現代でもなお、宗教は広く私たちの世界に存在します。それは何故でしょう? 近代化至上主義の立場からいえば「啓蒙が足りないから」ということになりますが、なんだかこういう物言い自体が宗教じみていますね。真の理由は、人が常に意味を抱えて生きる存在だからです。意味は感情を導く水路であると同時に、逆に感情によって意味の流れが速められたり掘り下げられたりもします。それは必ずしも合理主義で制御しきれぬ生の論理なのです。近代化と前近代という問いの立て方そのものに問題もありますが、少なくともこの二項対比は決して「真理と欺瞞」とか「知と蒙」の対立ではなく、意味Aと意味Bの差異であるということは意識しておくべきでしょう(ただし単なる価値相対主義に陥ってはなりませんが、それはまた別の機会に)。
本書は、明治・大正の近代化の中で日本人の心中にある様々な「意味」がどのように変容したかを丹念に読み解き、近代化からこぼれ落ちる民衆の意味世界とそれを統御しようとする国家機構の姿を浮き彫りにしようとする労作評論集です。取り上げられるモチーフは狐憑きや血取り・膏取りの流言、座敷牢、先祖崇拝などと、それに関連する近代医学知見・衛生行政・宗教行政の展開です。民俗学に立脚して鮮やかに近代日本民衆の意味世界を読み解いてゆく手際は見事で、たっぷり知的刺激を堪能しました。また、いずれも明治時代に島根県内の「狐憑き」をフィールドワークした島村俊一『島根県下狐憑病取調報告』と門脇間枝『狐憑病新論』などを知ったことは、丁度明治時代を舞台にして松江城山稲荷の祭神を主人公格に据えた幻想小説を書いている私にとって、良い収穫でした(原著をどこで探すかは難しいところですが、いざとなったら国会図書館でコピーしてもらう手ですね)。
一点気になることを書き留めておくならば、国家と民衆の対立軸をいささか強調し過ぎているような印象を受けました。例えば著者は、靖国神社の春の例大祭がもともと端午の節句と重なっていたことに「民衆の生活感覚と一体になった民間歴を再編して、靖国教を浸透させようとした意図」(191頁)を読み取っていますが、少なくとも本書中に国家のそうした意図を実証する資料は示されていません。実証資料とは、例えば議会議事録とか公文書資料などで国家が行政施策の目的を直接的に記したものです。なるほど確かに著者の提示する理解枠にはそれなりの説得力があるのですが、「そのような効果があった」という結果論と「そのような意図をもって行われた」という原因論とは問題が異なります。意図を実証することと効果(意味)を読み取ることとが曖昧に混同されたまま、国家の陰謀的施策とそこからこぼれ落ちる民衆の心情という分かりやすい構図が提示されているところに、いささか危ういものを感じました。本書全体としては丁寧に論じられているので、こうした細かなところが惜しいです。
今日も良い一日でありますように。再拝
『幻視する近代空間』 川村邦光 青弓社
狐憑き、という言葉がありますね。現代でも一部の宗教・霊能の世界ではこの概念が通用していますが、多くの人は「狐が人に取り憑くなんて昔の迷信だ。昔の人は精神病を知らなかったからそう考えたのだ」と合理的な判断をしているでしょう。そこには典型的な「啓蒙」の視点があります。蒙を啓く、つまり正確な知識とそれに基づく論理的判断力を培うことによって人は誤った考え方を捨て正しい考え方に至るのだとする一種の進歩史観です。
近代化とは、まさにこうした啓蒙の歴史であったといえるかも知れません。事柄の仕組みを分析し、見極め、再現可能な理論を構築して、技術化し、人を物質的に(そして物質的充足が導く範囲で精神的に)豊かにする。ヨーロッパで発展した科学と合理は確かな力で世界を席巻しました。その過程で、前近代が「蒙」であるが故に培ってきた様々な意味づけ(例えば狐憑き)が、根拠を剥ぎ取られ奪われていったことも確かです。そのこと自体は善でも悪でもありません、異なる文化が出会ったときに強者が弱者を飲み込むという歴史の必然なのでしょう。むしろ正見・正思惟を基礎とする仏教的な視点からすれば、合理主義的思考が広がるのは望ましいことであるともいえます。ただし、それが真に正しい物の見方であり考え方である限りは、です。
実際は、近代化もまた一つの意味と価値の体系です。前近代の思考方法を蒙=知に暗いことと貶め、例えば「20世紀には合理主義の発展に伴い宗教は衰退するだろう」と予言した19世紀の社会学者のように、自らの真理性とそれが故の進歩史観を信じて疑わぬ脳天気ともいえる立場です。現実には20世紀を経て21世紀に至った現代でもなお、宗教は広く私たちの世界に存在します。それは何故でしょう? 近代化至上主義の立場からいえば「啓蒙が足りないから」ということになりますが、なんだかこういう物言い自体が宗教じみていますね。真の理由は、人が常に意味を抱えて生きる存在だからです。意味は感情を導く水路であると同時に、逆に感情によって意味の流れが速められたり掘り下げられたりもします。それは必ずしも合理主義で制御しきれぬ生の論理なのです。近代化と前近代という問いの立て方そのものに問題もありますが、少なくともこの二項対比は決して「真理と欺瞞」とか「知と蒙」の対立ではなく、意味Aと意味Bの差異であるということは意識しておくべきでしょう(ただし単なる価値相対主義に陥ってはなりませんが、それはまた別の機会に)。
本書は、明治・大正の近代化の中で日本人の心中にある様々な「意味」がどのように変容したかを丹念に読み解き、近代化からこぼれ落ちる民衆の意味世界とそれを統御しようとする国家機構の姿を浮き彫りにしようとする労作評論集です。取り上げられるモチーフは狐憑きや血取り・膏取りの流言、座敷牢、先祖崇拝などと、それに関連する近代医学知見・衛生行政・宗教行政の展開です。民俗学に立脚して鮮やかに近代日本民衆の意味世界を読み解いてゆく手際は見事で、たっぷり知的刺激を堪能しました。また、いずれも明治時代に島根県内の「狐憑き」をフィールドワークした島村俊一『島根県下狐憑病取調報告』と門脇間枝『狐憑病新論』などを知ったことは、丁度明治時代を舞台にして松江城山稲荷の祭神を主人公格に据えた幻想小説を書いている私にとって、良い収穫でした(原著をどこで探すかは難しいところですが、いざとなったら国会図書館でコピーしてもらう手ですね)。
一点気になることを書き留めておくならば、国家と民衆の対立軸をいささか強調し過ぎているような印象を受けました。例えば著者は、靖国神社の春の例大祭がもともと端午の節句と重なっていたことに「民衆の生活感覚と一体になった民間歴を再編して、靖国教を浸透させようとした意図」(191頁)を読み取っていますが、少なくとも本書中に国家のそうした意図を実証する資料は示されていません。実証資料とは、例えば議会議事録とか公文書資料などで国家が行政施策の目的を直接的に記したものです。なるほど確かに著者の提示する理解枠にはそれなりの説得力があるのですが、「そのような効果があった」という結果論と「そのような意図をもって行われた」という原因論とは問題が異なります。意図を実証することと効果(意味)を読み取ることとが曖昧に混同されたまま、国家の陰謀的施策とそこからこぼれ落ちる民衆の心情という分かりやすい構図が提示されているところに、いささか危ういものを感じました。本書全体としては丁寧に論じられているので、こうした細かなところが惜しいです。
今日も良い一日でありますように。再拝