合掌 おはようございます。
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個人の信仰と社会権力の関係を見るに当たって、まず日本国憲法第20条における「信教の自由」を振り返ってみましょう(ちょっと堅い話ですがご容赦を)。
ここから直接・具体的に読み取れるのは次の項目です。
現行の日本国憲法はGHQ草案の流れを汲むもので、その事実が今も憲法改正論議を後押ししています(個人的には「経緯よりも中身」と考えていますが)。信教の自由については戦前でも大日本帝国憲法第二十八條「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」として条件付きで認められていましたが、国家神道が別格で戦前の国家体制を支え、国民の宗教行為の有様に深く介入していました。GHQ草案はその体制の解体のために、条件抜きの「信教の自由」と宗教−国家相互の不関与を規定したといわれています。
日本国憲法の政教分離規定は決して先進諸国における「常識」ではありません。例えばイギリスは英国国教会を国教としていますし、アメリカのブッシュ大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓した場面を記憶している方も多いでしょう。厳格な政教分離体制を敷いているのは、革命を経たフランスなど一部の国に限られるようです。日本の場合は敗戦を経ていわば「民主主義の実験場」として外部から政教分離が導入されたわけです。その事の是非はさておき、政教分離は決してそれ自体が目的なのではなく、「信教の自由」を実現するためのひとつの手段だということを、押さえておく必要があるでしょう。
では「信教の自由」とは一体なんでしょう。日本国憲法にはその定義が明示されていません(憲法学において様々な議論があるところだと思いますが、不勉強で皆様にご説明することができません、後日の宿題とさせてください)。自分なりに考えを巡らせるならば、次のような要素が挙げられるでしょうか。
もちろんこの「自由」は無制限なものではありません。まず、第三者が宗教・信仰を批判する自由も(偏見・差別とは違うという前提で)認められるべきものです。それから、「他人の自由を侵す自由」が含まれないことも当然です。要は、他の人の自由・権利とのバランスの中で認められた自由・権利である、ということです。
極端な例としてオウム真理教事件を考えてみましょう。信仰に基づく行動であった様々な事件は、多くの人々の生命・権利を侵害し、一般社会として許容できるものではありませんでした。ですからそれは当然に裁かれています。けれども、破壊活動防止法による監視下にあるとはいえ後継教団が存続し、信者は今も信仰生活を続けています。信仰を持つ内面的自由、そして、信仰に基づき教団に所属して修行する行動の自由が、憲法で保証されているからです。統一教会のいわゆる「青春を返せ裁判」のように、「信仰」を抱くに至る経緯の正当性(いわゆる洗脳問題)が問われる場面はありますが、それも「信仰」を捨てた後の本人の意志が大前提にあります。
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個人の信仰と社会権力の関係を見るに当たって、まず日本国憲法第20条における「信教の自由」を振り返ってみましょう(ちょっと堅い話ですがご容赦を)。
- 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
- 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
- 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
ここから直接・具体的に読み取れるのは次の項目です。
- 信教の自由の保障
- 宗教団体の平等と政治不関与
- 宗教行為の強制の否定
- 国(自治体を含む)の宗教活動の否定
現行の日本国憲法はGHQ草案の流れを汲むもので、その事実が今も憲法改正論議を後押ししています(個人的には「経緯よりも中身」と考えていますが)。信教の自由については戦前でも大日本帝国憲法第二十八條「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」として条件付きで認められていましたが、国家神道が別格で戦前の国家体制を支え、国民の宗教行為の有様に深く介入していました。GHQ草案はその体制の解体のために、条件抜きの「信教の自由」と宗教−国家相互の不関与を規定したといわれています。
日本国憲法の政教分離規定は決して先進諸国における「常識」ではありません。例えばイギリスは英国国教会を国教としていますし、アメリカのブッシュ大統領が就任式で聖書に手を置いて宣誓した場面を記憶している方も多いでしょう。厳格な政教分離体制を敷いているのは、革命を経たフランスなど一部の国に限られるようです。日本の場合は敗戦を経ていわば「民主主義の実験場」として外部から政教分離が導入されたわけです。その事の是非はさておき、政教分離は決してそれ自体が目的なのではなく、「信教の自由」を実現するためのひとつの手段だということを、押さえておく必要があるでしょう。
では「信教の自由」とは一体なんでしょう。日本国憲法にはその定義が明示されていません(憲法学において様々な議論があるところだと思いますが、不勉強で皆様にご説明することができません、後日の宿題とさせてください)。自分なりに考えを巡らせるならば、次のような要素が挙げられるでしょうか。
- 内面に信仰を持つ自由、持たない自由
- 自分の信仰を表明する自由、隠す自由
- 信仰に基づき行動する(または行動しない)自由
もちろんこの「自由」は無制限なものではありません。まず、第三者が宗教・信仰を批判する自由も(偏見・差別とは違うという前提で)認められるべきものです。それから、「他人の自由を侵す自由」が含まれないことも当然です。要は、他の人の自由・権利とのバランスの中で認められた自由・権利である、ということです。
極端な例としてオウム真理教事件を考えてみましょう。信仰に基づく行動であった様々な事件は、多くの人々の生命・権利を侵害し、一般社会として許容できるものではありませんでした。ですからそれは当然に裁かれています。けれども、破壊活動防止法による監視下にあるとはいえ後継教団が存続し、信者は今も信仰生活を続けています。信仰を持つ内面的自由、そして、信仰に基づき教団に所属して修行する行動の自由が、憲法で保証されているからです。統一教会のいわゆる「青春を返せ裁判」のように、「信仰」を抱くに至る経緯の正当性(いわゆる洗脳問題)が問われる場面はありますが、それも「信仰」を捨てた後の本人の意志が大前提にあります。
(続く)
今日も良い一日でありますように。再拝