[ 宗教書評 ]
 合掌 こんにちは。

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『ブッダをめぐる人びと』 里中満智子 佼成出版社

 少女漫画界の巨匠・里中満智子が描いた仏伝コミックです。

 私は実はこの作家の絵柄があまり好きではありませんでした。古典的な少女漫画の文法に則った描線で、登場人物が同種の美形ばかりに見えてしまうからです。だから本書を書店店頭で見つけた時も「うっ、どうしようかな……」と躊躇したことをまず告白しなくてはなりません。けれども、読み進めるうちにすぐにそんなことは気にならなくなりました。内容がとても丁寧で充実しているからです。

 本書は、人ごとに焦点を当てた短編集形式で、お釈迦様の周囲にいた弟子・信者・家族・敵の姿を描いています。彼らが何を思い悩み苦しんでいるか、お釈迦様は彼らに何を説かれたか、彼らはお釈迦様に触れることでどのように心を整えたのか。「説法」ということが常に人と人との交わりの具体性の中で行われるものだということがよく分かります。しっかりと資料に当たって描かれていますので、私が中途半端に知っていた出来事について「全体の流れはそうだったのか」とあらためて目を開かれたものもありました。

 現代日本仏教には多くの宗派があり、教義の内容も信仰のスタイルも様々です。けれども、その根っこに二千数百年前のお釈迦様の教えがあることは共通する筈。その根本的なテーマが「人の心の安定」にある、本書はそうした事実を人間の物語として見事に活写しています。振り返れば私自身がいかに心の安定から遠い所にいることか。僧侶を名乗り電子説法を執筆する時こそ「理想の仏教徒」的人格を演じていますが、一度日常生活に身を置けば緊張・嫉妬・不満・怒り・怠惰・執着など絶えず心を掻き乱しているのが現実です。ふと立ち止まってお釈迦様の教えの原点を振り返り我が身を反省する契機を、本書は生み出してくれたように思います。

 一点、具体的な内容で触れておきたいのは、デーヴァダッタ(提婆達多)の章です。提婆はお釈迦様のいとこで弟子となりましたが、教団運営方針などでお釈迦様と対立、幾度かお釈迦様の暗殺を企て失敗した挙げ句に死んでしまいます。彼の事績について書かれているのは当然仏教教団側が作成した文献のみですから、提婆は「仏敵」の象徴として極めてネガティブな存在として伝承されてきました。本書においても悪巧みを企てる辺りから以降は、超能力妄想に取り憑かれ憎しみに我を忘れて最後には自業自得の死に至る愚かしい存在として描かれています。けれどもそれ以前、お釈迦様の教えに対して芽生えた彼の疑問は、現代でもなお仏教そのものに対して突きつけられる根源的な問いともなりうるものです(382〜384ページ)。彼は超能力を求めて苦行に励む理由をお釈迦様に問われ、例えば「どんな刀でも傷つかなければ賊から身を守れる」と答えます。それに対してお釈迦様は「賊の刀から身を守るより賊の心を救うにはどう諭せばいいのかを考えなさい」とお応えになり、提婆は(確かにそのとおりなのだろう、だが……)と煩悶します。お釈迦様の言葉には説得力があって安らぎを得られる、けれどもただそれだけのことで、現実を直截的に変えていく力を持たない──。この疑問は本来、人を仏教に導くか反発させるかの分水嶺に位置するものです。例えば北朝鮮の核開発に関連して日本の核武装が議論されていますが、「北朝鮮から身を守るより北朝鮮の心を救うにはどう諭し行動するかを考えよ」との主張には様々な──論理的なものから感情的なものまで──反論・反発があるでしょう。そしてそれは構造的に、そのままお釈迦様の言葉への反論として機能します。もちろん現代仏教諸宗派の中には教義や行動においてこの疑問を積極的に解消しようとするものもありますが(日蓮聖人門下はそのひとつです)、決してお釈迦様の教えを捨て去るものではありません。人の心を整えるというお釈迦様の根本テーマをどこまで徹底できるのか。仏教が一見安易な理想主義に見えながら、実は究極的に「身命への執着を捨てる」ところにまで辿り着くことを要請される厳しい思想信条なのだということを、この提婆のエピソードは私たちに教えてくれるのです。

 今日も良い一日でありますように。再拝