[ 時事随想 ]
合掌 おはようございます。
以前のアンケートによれば、電子説法の読者層には無宗教(特定の宗教に対する信仰を持たない人)の方が多数おられます。私自身は日蓮聖人門下に連なる者ですが、それ以外の宗教の信仰者も読者には少なくありません。つまり、電子説法の筆者−読者をひとつのゆるやかなコミュニティと考えるならば、それは様々な宗教・思想・信条を持つ人々の集まりであるといえます。この事はもちろん少しも奇妙なことではありません。むしろ、私たちの生きているこの社会が、そもそもそうしたものなのです。
信仰を持っているか否かに拘わらず、日常生活の中で宗教・信仰の話をすることはどこか憚られる、そんな人は多いでしょう。ですから友人知人の顔を思い浮かべても宗教・信仰の有無をはっきりと知っている相手は少ない筈です。それでも、じっくり考えるとちらほら思い浮かぶもので、私の場合、まず妻が浄土真宗寺院の娘です。大学時代の恩師は金光教徒ですし、友人の奥さんは天理教徒、息子の友達の家は創価学会、他にもテーラヴァーダを修行している友人とか神主・住職を兼務している同僚・仕事関係者も複数います。
けれどももちろん、誰が何を信仰しているからどうだ、なんてことはまずありません。人間関係というのは属性(人種・国籍・宗教etc.)ではなく性格に左右されるものなのですから。それは至極当たり前の話です。そして、幸せな話です。世界を見渡せば、属性が人間関係を規定する状況は枚挙に暇がありません。共に平穏に暮らしていたセルビア人とクロアチア人が、ある時期を境に隣人同士殺し合う状況となったボスニア紛争は、近年における最も悲劇的な事例のひとつです。人種・国籍・宗教などの属性が、本人の人格に拘わらず、蔑視を招き迫害の原因になってしまう。それはとても不幸なことです。
トルコを訪問しているローマ法王が、モスクの中でイスラーム法学者と共に祈りを捧げたというニュースは、世界を駆けめぐりました。
読売新聞の当該記事
異なる宗教の指導者が共に祈りを捧げる。それはあり得ることでしょうか。信仰というものを極めてファンダメンタルに捉える立場からすれば、そのような振る舞いが欺瞞に思えることもあるでしょう。私はそのような立場に立ちません。「人々が平和であれ」という願いは普遍的なものです。私が求めるものもそうした普遍的な祈りです。「人々が我が神の下で平和であれ」といった途端に、祈りは普遍性を失います。それが行き過ぎれば、属性が善悪の判断基準となり、他の神と共に在ることは不可能になります。
もちろん祈りとは常に固有のものです。人は誰もが他の誰の者でもない自分自身の祈りを抱えています。私の祈りのスタイルは南無妙法蓮華経であり、他の何かではありません。けれども、私の祈りと、他の諸宗教の祈り、無宗教の祈りは、必ず通底するものがあると確信もしているのです。愛する人と共に過ごす喜び。良き道へ進みたいという願い。子を喪う親の悲しみ。不正への怒り。不幸を厭い幸福を求める祈り。人の数だけ異なるシチュエーションで発生するそれらの祈りは、人々の違いを越えて普遍なものです。ならば、私は、私と違う人々と共に祈れるのではないか。私が私のスタイルで祈りにアクセスするように、誰もが自分自身のスタイルで祈りにアクセスする、その時に私と彼らとは共に祈っているのではないか。私はそう思うのです。
私は私と違う人たちと共に生きているのだという諦念。「自分とは異なる存在」に対して開かれた祈り。今回のニュースは、あらためてそんな事を考えるきっかけとなりました。
今日も良い一日でありますように。再拝
以前のアンケートによれば、電子説法の読者層には無宗教(特定の宗教に対する信仰を持たない人)の方が多数おられます。私自身は日蓮聖人門下に連なる者ですが、それ以外の宗教の信仰者も読者には少なくありません。つまり、電子説法の筆者−読者をひとつのゆるやかなコミュニティと考えるならば、それは様々な宗教・思想・信条を持つ人々の集まりであるといえます。この事はもちろん少しも奇妙なことではありません。むしろ、私たちの生きているこの社会が、そもそもそうしたものなのです。
信仰を持っているか否かに拘わらず、日常生活の中で宗教・信仰の話をすることはどこか憚られる、そんな人は多いでしょう。ですから友人知人の顔を思い浮かべても宗教・信仰の有無をはっきりと知っている相手は少ない筈です。それでも、じっくり考えるとちらほら思い浮かぶもので、私の場合、まず妻が浄土真宗寺院の娘です。大学時代の恩師は金光教徒ですし、友人の奥さんは天理教徒、息子の友達の家は創価学会、他にもテーラヴァーダを修行している友人とか神主・住職を兼務している同僚・仕事関係者も複数います。
けれどももちろん、誰が何を信仰しているからどうだ、なんてことはまずありません。人間関係というのは属性(人種・国籍・宗教etc.)ではなく性格に左右されるものなのですから。それは至極当たり前の話です。そして、幸せな話です。世界を見渡せば、属性が人間関係を規定する状況は枚挙に暇がありません。共に平穏に暮らしていたセルビア人とクロアチア人が、ある時期を境に隣人同士殺し合う状況となったボスニア紛争は、近年における最も悲劇的な事例のひとつです。人種・国籍・宗教などの属性が、本人の人格に拘わらず、蔑視を招き迫害の原因になってしまう。それはとても不幸なことです。
トルコを訪問しているローマ法王が、モスクの中でイスラーム法学者と共に祈りを捧げたというニュースは、世界を駆けめぐりました。
読売新聞の当該記事
異なる宗教の指導者が共に祈りを捧げる。それはあり得ることでしょうか。信仰というものを極めてファンダメンタルに捉える立場からすれば、そのような振る舞いが欺瞞に思えることもあるでしょう。私はそのような立場に立ちません。「人々が平和であれ」という願いは普遍的なものです。私が求めるものもそうした普遍的な祈りです。「人々が我が神の下で平和であれ」といった途端に、祈りは普遍性を失います。それが行き過ぎれば、属性が善悪の判断基準となり、他の神と共に在ることは不可能になります。
もちろん祈りとは常に固有のものです。人は誰もが他の誰の者でもない自分自身の祈りを抱えています。私の祈りのスタイルは南無妙法蓮華経であり、他の何かではありません。けれども、私の祈りと、他の諸宗教の祈り、無宗教の祈りは、必ず通底するものがあると確信もしているのです。愛する人と共に過ごす喜び。良き道へ進みたいという願い。子を喪う親の悲しみ。不正への怒り。不幸を厭い幸福を求める祈り。人の数だけ異なるシチュエーションで発生するそれらの祈りは、人々の違いを越えて普遍なものです。ならば、私は、私と違う人々と共に祈れるのではないか。私が私のスタイルで祈りにアクセスするように、誰もが自分自身のスタイルで祈りにアクセスする、その時に私と彼らとは共に祈っているのではないか。私はそう思うのです。
私は私と違う人たちと共に生きているのだという諦念。「自分とは異なる存在」に対して開かれた祈り。今回のニュースは、あらためてそんな事を考えるきっかけとなりました。
今日も良い一日でありますように。再拝