[ 時事随想 ]

 合掌 おはようございます。

 昨日(30日)、東京医科歯科大学で行われた「宗教的輸血拒否に関する公開シンポジウム」(日本輸血・細胞治療学会主催)を聴講しました。今月に入って、輸血拒否により妊婦が死亡した事件や医学界が輸血拒否についての対応指針策定を検討しているというニュースが相次ぎ、どのような事が語られているか是非聞きたいと考えて上京したものです。

妊婦死亡に関する河北新報社の記事
http://www.kahoku.co.jp/news/2007/06/2007061901000781.htm

学会の指針案についての読売新聞社の記事
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20070624i101.htm

日本輸血・細胞治療学会主催「シンポジウムのお知らせ」
http://www.yuketsu.gr.jp/information/2007/yuketukyohi.pdf

 シンポジウムには、臨床医など医療関係者3名、教団職員、倫理学者、民法学者と6人の演者が様々な立場から輸血拒否問題に関する思いを語られました。この大問題をわずか3時間半で質疑応答まで含めて語り尽くすことは到底できず、せめて丸一日あればと思いましたが、逆にいえばそれだけ濃密な内容であったことは確かです。

 エホバの証人の事例ではありませんが、やはり宗教的信念に基づいて親が手術拒否をしている場合に児童相談所が親権剥奪して手術を実施した事例について、昨秋の電子説法で取り上げたのをご記憶でしょうか。

平成18年10月25日〜11月5日「個人の信仰と社会権力」1〜4+補遺
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 この時のシリーズの(3)において、ひとまず最高裁判例が示した人格権としての自己決定権の尊重を前提にした上で、自己決定能力の問題──つまり自己決定権が何歳から認められるのか、そもそも自己決定とは何かが問題となってくると記しました。今回の指針は、臨床医学としてその問題に踏み込む試みであるととらえています。

 少し驚いたことは(そして喜ばしいことには)、登壇した医師の方々が「エホバの証人は聖書に則り輸血を拒否しているが、子供のことを愛し治癒を願って輸血以外の最善の医療を受ける意志をもっていることはよく分かる。これを児童虐待の医療ネグレクトと同一視することには強い抵抗があるし、世間が評価するようにカルトと呼ぶべきかどうかも問題ではない」と異口同音に口にしておられたことです。この問題は私も上記シリーズの「補遺」で取り上げましたが、実際に医療現場で患者・家族と向き合いコミュニケーションを取った人からそのような実感を直接聞くことができただけでも、今回の収穫だったといえます。ただ、世間一般のカルト批判の言説がシンポジウムに持ち込まれなかったこと自体について、この場が必ずしも日本社会全般の縮図ではなくある種の倫理的エリート(このような言葉が適切かどうかは分かりませんが)の集まりであったことも確かなのでしょう。民法の先生が「私は輸血拒否をもって児童虐待と呼ばれても仕方ないと思う」とおっしゃっていたのが、その点のバランスをかろうじて保つものであったかもしれません(バランスを取ることが絶対に必要ということではなく、多様な意見を戦わせることがシンポジウムというものの価値だろうという意味です)。

 興味深かったのは、患者・家族に輸血を行わないことのリスクを十分に説明した上で、「患者が納得しなかったら転院を進める」という医師と「その時には輸血をすると宣言し、同意は求めない。起きたことの責任は自分が取る」という医師がおられたことです。これは医師というものの立場を巡る考え方につながります。単純化していうならば、医師はひたすら患者(=顧客)の意向を聞き入れるサービスマンに徹するべきなのか、専門職たる医師としての自負と信念に基づいて時に患者の意向を踏み越えるべきなのか。これは医療関係者ではない私には軽々しく判断が下せない領域ですが(ただし仕事として医療の周辺領域に身を置いています)、一方を重視し他方を無視することができないことは分かります。「黙って俺についてこい!」式の医師に今時の患者はほとんどついて行かないでしょう、誰もが自分の治療方針を理解し納得して治療に臨みたいと考えている筈です。といって「情報の非対称性」の問題、つまり患者はほとんど医学知識をもっておらず医療行為は医師の指揮によって行われざるを得ないことも確かなのです。医師が自分の知見と技術に自信をもっていなかったら、患者の感情論に簡単になびいてしまうようなら、患者である私たちは彼を信用できないでしょう。

 エホバの証人に限らず輸血拒否をする患者もいる筈だ、という意見もちらりと出ましたが、そこも重要な論点です。言い換えるなら、今回の指針について、宗教的理由に基づく輸血拒否だけではなく、インフォームドコンセント下での治療法選択全般について同じ基準を適用できるものか、ということです。たとえば「本人・保護者が輸血拒否をしても15歳以下なら医師の判断で輸血する」ということが「本人・保護者がある治療法を拒否しても15歳以下なら医師の判断でその治療法を行う」という一般基準にまで拡大するのかどうか。医師は自らの医学的信念で「この治療法しかない!」と考える、しかし患者や家族は嫌がっている、その時にどうするのか。一般化しないのであれば、何故輸血拒否問題だけ特別扱いするのかを論理立てる必要がありますし、一般化するのであれば、これは「カルト」宗教についての限定的な議論ではなく、医療行為を巡る医師と患者の関係全体に関わる議論となるわけです。

 また、シンポジウムで明確に論じられなかったことで重要なものもひとつ残されています。それは「自己決定とは何か」を巡る問題です。そこに迫る可能性を持った論を展開していたのは倫理学者の方(さすが)でしたが、残念ながら時間に追われて足早な内容で終わってしまいました。信仰に基づいて輸血を拒否する人を、信仰の外にいる私たちは奇妙に思います。口の悪い人なら「邪教に洗脳されてるんだ」とまでいうでしょう。仮に洗脳だとしたら、15歳未満も以上も同じことで、最高裁のいう「人格権としての自己決定権」は永遠に成立しません。逆に、宗教を信じていない人なら、一切の洗脳から自由なのでしょうか。そうではない、ということを少なくとも仏教徒なら知っている筈です──諸行無常・諸法無我の真理から遠いところに生きているのが人間という存在なのですから。私たちは生まれ落ちてから今日までに至る人生経験に縛られています。見知らぬ信念・慣習には拒絶反応を起こし、それを否定する理屈をどこからでも探してきます。他人から自分の抱く信念・慣習に対して攻撃を受けた時には、必死に守ろうと足掻きます。もちろんこうした信念・慣習は、異文化接触を通じて変化し得るものです。その変化は、可能性としては死ぬまで起こりうるものです。

 ならば、ある時点での「自己決定」とはなんでしょう。完全に相対的で取るに足らないもの? どうにでもなるものだからこそその都度「我が儘」を押し通すことが人生のあるべき姿? どちらの極端も違います。中道を説く仏教ならば、その中間に私たちの生きる道を見つけるでしょう。でもその「中道」はくっきりと目に見えるものではありません。とても曖昧で、誰もが手探りをしながら自分自身の道を探す他はありません。

 今回のシンポジウムの最大の収穫は、医療と宗教の二つの領域の間でそのような手探りが行われていると確認できたことでした。最初に学会で指針案が策定されているという記事を目にした時、医療側のある種の自己防衛策(法的防衛であると同時に専門職の尊厳の防衛)として一方的な議論が行われているような印象を受けました。しかし、そうではなかったのです。医療と宗教、医師と患者、非信仰者と信仰者が、病気という深刻な出来事を巡って出会った。その時に、関係者全員が互いに「どうすれば一番いい状況に至るだろう」と真摯に考え、相手とコミュニケーションを取りながら、自分の進むべき道を模索している。それは異文化間対話の創造的作用の現場なのだと嬉しく思いながら、私は会場を後にしました。