合掌 あけましておめでとうございます。
前回の発行以来、丸々半年間の休刊状態をまずはお詫び申し上げます。現在修士論文の執筆が佳境となり、一月中旬の締切に向けて追い込みをかけている真っ最中。それが終われば一息つくので、あらためて電子説法の定期発行体制を取れるよう考えたいと思っています。
例年ですとお正月には家族で自坊に里帰りし元旦法要にも御出仕させていただくのですが、そのような状況で今年は帰れませんでした。その代わり、自宅のお仏壇で子供たちと一緒にお勤めをした様子が、上の写真です。十歳の長男が木鉦を、七歳の次男が鐘を担当。二歳の三男は私にくっついてただにこにこしていました。
思えば私も子供の頃、親である師僧の信仰の振る舞いを間近に見て育ちました。教義を識ることも科学的批判精神で分別することもなく、幼心に見よう見まねで手を合わせお題目をお唱えする。それは祈りという心の働きを、心の底から信頼する親の振る舞いに接することで、自分自身の振る舞いとして身に染み込ませる経験であったのだろうと思います。思春期から青年期にかけて私が自分自身の信仰を受け入れられずに苦慮したことについては、初期の電子説法で記しています。その果てに私が信仰を──排他的妄信とは異なるものとして──受け入れることができたのは、そのような子供の頃の経験が私にとって抜き差しならない価値を持っているのだと気づいたからでした。そして今度は私が子供たちに見られる番が来たというわけです。
昔の年齢の数え方(数え年)では、元日には誰もが一斉にひとつ歳を重ねます。母の胎から生まれた赤子はその全身に家族の慈しみを受けて育てられ、正月を迎えるごとに幼児、少年、青年と成長して、やがて子宝に恵まれたならば親の立場で人の誕生と成長の過程に関わることとなります。子育てだけでなく、地域の子供に接すること、教員として生徒・学生を教えること、職場で部下を指揮することなど、人生の後輩に関わる場面は社会生活の中で様々に存在します。元日を迎えた数の違いだけ、人は誰かの人生の先輩になるのです。人はその時、いわば螺旋のように、かつて自らが辿った道を後輩が歩こうとしている事に気づきます。かつて自分は先輩から何を学ばせてもらったろう、今自分は後輩に何を示してやることができるだろう。そのような真摯な自問が先輩には求められるのだということを、我が子らの綺麗な目に見つめられながら日々思い知らされています。
この一年が皆様とその周囲の人達の「螺旋の人生」にとって実り多きものでありますように。再拝。
