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2008年1月27日(日)

ホクレア号
写真:ホクレア号( http://www3.tvk-yokohama.com/hamarancho/cat46/cat58/ より)

先ほど終わった北京五輪代表選考会を兼ねた大阪国際女子マラソンは、2時間24分33秒が自己ベストを3秒更新した森本友(天満屋)が二位に入る健闘だった。 中継画面は38kmまでTOP独走だった福士加代子選手のゴール前の姿だった。 長居公園に入ってから二度の転倒、スタジアムでもゴール直前数10mで転倒しながら立ち上がり、足をひきずる姿を追っていた。 更に、正視できずにタオルに顔をうずめるお母さんの姿を映していた。

ゴールまでは・・と必死に動かない足を引きずるように頑張る姿は、何より感動的で、スタンドから悲鳴が混ざった歓声がわきあがった。 42.195kmという長距離を競うマラソンのトップランナーの難しさを痛感させられたが、トラックの覇者福士加代子選手の捲土重来を期したい。

さて、今週取りあげたのは「オーストリアン諸語」と言われる言語を話す人々の、過去数千年に及ぶ、海の人類大移動である。 このきっかけは、現代の環境問題のモデルが、「ラパヌイ(イースター島)」と聞いた事であった。 モアイの石像が示す意味は何か・・。 歴史とは何か。 それは「くり返し」だと、いう田坂広志氏の言葉が、適切である。

先日、金田一秀穂氏が、言語のルーツは研究の対象ではないと断りつつ、「ハワイやワイキキ、ホノルルなど如く、オーストリアン諸語は、音としてカタカナ表音が多く、日本語に近い。 言語的には日本人のルーツであるといえる」という話をうかがった。

オーストロネシアンは、我々にとって身近な存在である事を再確認しながら、最終の今回は、「現代に生きる伝統、ホクレア号の航跡と未来」を、取り上げて、締めとしたい。

細い一筋の線で、数千年の航海術は維持され、2007年6月9日、このホクレア号は、横浜に寄港している。 この時点では残念ながら「オーストロネシアンの大移動」を、知らなかったのが残念だった。(註:原文はハワイイとあるが、本稿では一般的な「ハワイ」を使用)

引用資料

国立民族学博物館(編) オセアニア 海の人類大移動


■187 南方系日本人のルーツ オーストロネシアンの大移動

▼187−3 現代に生きる伝統、ホクレア号の航跡と未来(FIN)

ホクレア号は1973年にハワイのオアフ島で建造がはじめられ、1975年に完成した古代ポリネシア式の帆走カヌー。 双胴の船体をもち、全長は19メートルほどで、オアフ島のクアロア公園で進水した。 当初はパドルで漕げると思われたが、テストの結果、帆走でしか動かせないことがわかった。 

双胴のためダブル・カヌーとも呼ばれるが、ハワイではボヤージング・カヌー(航海カヌー)と呼ぶ。 ハワイはポリネシアの北端にあたり、その南西端にはニュージーランド(アオテアロア)、東端にはイースター島(ラパヌイ)がある。 広大な海の三角圏がポリネシアである。 ポリネシアとは多くの島々を意味するギリシア語から派生した言葉である。

ホクレア号の船体は、FRPで造られたが、他の部材は木製。 全ての部材を縄で縛る事でカヌーという構造体になり、これまで10万海里以上を航海したが、今までにトラブルはほとんどない。 縛る技術がいかに海に対応しているかを証明しているようなものだ。 

ホクレア号の建造にあたり、ポリネシアのカヌーの姿は西洋人が残した絵によって想像するしかなかった。 ところが完成の4年後にタヒチのフアヒネ島から1000年ほど前のカヌーが出土した。 その出土によってホクレア号のサイズは殆ど寸分たがわぬものだと証明された。  

発掘したのはハワイ、ビショップ博物館の篠遠喜彦氏だった。 ホクレア号を建造した目的は、人類拡散の最終章である太平洋への拡散、その航跡と方法を探るためだった。

第2次世界大戦後すぐに、あの有名なコンティキ号のトール・ハイエルダール氏によってポリネシア人の移動経路は、南米大陸から南東貿易風と海流によってなされたものだという仮説が大勢となっていた。 ところがそれを反証する意見があった。 ポリネシアヘはアジア方面から、風に逆らって西から東へ航海が行われ、それがポリネシア人の移動経路だという考えが今では定説である。

ホクレア号は、その実証のために生みだされたものといっていい。 合衆国建国200年祭のハワイ州の事業でもあった。 とくにタヒチ、ハワイ間の航海、それも近代の航海計器を一切使わない方法が求められた。 

ところが当時のハワイには、古代の航海術を継承する者は誰一人残っていなかった。 ところが、同じ様に大洋を航海する術をもった人びとが、ミクロネシアの中央カロリン諸島に住んでいた。 サタワル島、プルワット環礁、プルスク環礁、ポンナップ環礁といった島々である。 当時それらの島々にも航海士はわずか6人しかいなかったといわれている。 その中にサタワル島の航海士ピウス・マウ・ピアイルク氏がいた。

マウ氏が、偶々ハワイに来ていた事で、偶然ホクレア号関係者と出会う。 それがきっかけになり、ホクレア号の航海は、サタワル島の航海士ピウス・マウ・ピアイルク氏に託されたのである。 マウ氏は、ビショップ博物館のプラネタリウムを使い、ハワイからタヒチまでの星の動きを確認し出帆したのは、1976年5月1日の事だった。

ところが、同乗していた航法だけを求める学者と、ポリネシア文化に目覚めはじめた若者たちの問には、みえない壁があった。 マウ氏は、その壁が有る限り伝統航海術は継承されないと考え、タヒチで、マウ氏は帰ってしまった。

マウ氏が下船したタヒチからの帰路は、通常の天文航法でハワイに戻った。 その帰路の航海に乗っていた若者がナイノア・トンプソン氏。 ナイノア氏は建造前からホクレア号にかかわり、自分たちポリネシアの伝統航海への並々ならぬ思いがあった。 彼は航海者の家系に生まれていた。

ナイノア氏は、マウ氏の航法を思い出し、星を観察しながら自分で航法を考え出そうと努力していた。 関係者は彼の才能を見抜き彼を航海士に育てるべく動きはじめていた。 今度は先住ハワイイ人の血を引く者だけでタヒチヘの航海を計画した。

ハワイ人の誇りと希望を賭けての再出発である。 2年後の1978年3月16日、ホクレア号はふたたびタヒチヘ向け出航。 ところが出航したその夜、オアフ島とモロカイ島の海峡で転覆、大切なクルーであるエディ・アイカウ氏というライフガードにして巨大な波に乗るサーファーが亡くなるという悲惨な結果が残った。

ホクレア号は、存続の危機に陥った。 その窮地を救ったのが、ナイノアの父親マイロン・ピンキー・トンプソン氏。 彼はホクレア号の航海を続けるべきだと提言した。 それがハワイイ人の誇りを取り戻すから、と。 航海は、これから生まれてくる子供達の為に行うもの。 子供達にとってホクレア号の成功が必要だ、と語った。 それが強さの象徴になり、希望になる。 そう説いたのだった。

そういう心の持ち方によって、ホクレア号は次のステップヘと導かれていく。 もちろん、出来得る全ての訓練を重ねた上で出航すべきだと、マイロン・ピンキー・トンプソン氏は訓練の段階を考え実行させた。

訓練は、ハワイ〜タヒチ間の距離に匹敵する2500海里にも及んだ。 航海術を学んでいたナイノア氏は、父親にいわれサイパン島にいたサタワル島の航海士ピウス・マウ・ピアイルク氏に会いにいく。 航海術を教えてほしいと必死で頼み込んだ。 実際に必死だった。 ついにピウス・マウ・ピアイルク氏はハワイヘやって来た。 2年半マウ氏はナイノア氏の両親の家に住み、持てる英知を注ぎ込んだ。

こうして1980年、ホクレア号は2度目のタヒチ往復航海を成し遂げた。 更に1985年には、ニュージーランドヘの往復航海に出発した。 この航海こそがポリネシア人の太平洋拡散の謎を明らかにしたものだ。 航海は2年にも及んだ。

ホクレア号は、ポリネシア人の祖先が1000年ほど足踏みしていたサモア周辺から東へ向かう航海を再現した。 いわゆるラピタ人からポリネシア人へと変容したとされる時代の航海である。 時は今から約2000年前。 日本列島では、弥生時代の頃である。

その海域には、ほとんどいつも東風が吹いているが、ときおり西風に変わる。 夏にその変化が多いというデータもあった。 しかし夏はハリケーンシーズンであり、航海士ナイノア氏はそのリスクを避け、冬まで風待ちをしていた。

それは航海の実証というより、航海士の心のもち方の実証である。 針路は真東ではなく、南下しつつ反時計回りに回り込み、再び南下して回り込むという戦略。 東風を横に受けながら回り込み、再び針路を南に取り横風を受けて回り込む。 ホクレア号は、ある程度風上に遡る事ができるのだが、風に逆らわず風をうまく活用する。 伝統航海術が教える自然との融合である。

1999年からは、1年間かけてラパヌイ(イースター島)への往復航海がおこなわれた。 2000年にホクレア号はポリネシア圏の航海に区切りをつけた。 それは実証航海をすべて終えたという事でもあった。

現在ホクレア号は、新たな使命を帯びて航海を続けている。 2007年前半にミクロネシアを経て今回の航海の最終目的地、横浜港に到着したのは2007年6月9日の事だった。 日本へと航海してきたのも、その新しい使命のためである。 その使命とはいったい何だろう。 もはや学術的な実証は一応終わったわけで、ホクレア号が航海する意義は違う次元のものになっている。

ホクレア号の航海によって、ポリネシア中に文化復興の運動が起こり、現実にポリネシア文化が甦った。 それはカヌールネッサンスともいえるもので、環太平洋中で同じ動きがある。

西洋人からみるとカヌーという言葉には、モンゴロイドの船という含みをもつ。 過って太平洋やアメリカ大陸沿岸には、モンゴロイドしかいなかったし、カヌーの語源はコロンブスがカリブの言葉を西洋に伝えたものである。

日本列島以外のほとんどの地域では、西洋人による文化的な蹂躙(じゅうりん)という悲惨な時代が続いた。 その反動がカヌールネッサンスを起こしたともいえる。

しかし、ホクレア号の動きによって誇りを取り戻した結果、お互いの文化を理解する重要性が分かってきた。 受容と許容、そして信頼と共生への道。 それがカヌーによってみえている。 それは、民族や文明の争いという範躊を超え、自然と人類との信頼や共生へと昇華していく。

内田正洋 (うちだ まさひろ)  海洋ジャーナリスト

国立民族博物館

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