[ ビジネス・自己啓発 ]
●隔日刊 心が元気になる オンリーワン見聞録●
ビジネス活動や参加したセミナー、話題の書等で啓発を受けた情報から日々人間として成長し続けるヒントを求め、社会全般に対する考察をオンリーワンの目線でブレンド。

●発行   肝 付 博 昭 (きもつき ひろあき)    (有)新規事業開発 代表

2008年3月13日−木

徳川吉宗像・徳川記念財団所蔵

写真:徳川吉宗像 徳川記念財団蔵( 紀州徳川廟・国宝 長保寺のHPより
  http://www.chohoji.or.jp/index.shtml より)

●今週は、江戸開府から一世紀を経過して、幕府は様々な限界に直面して、徳川幕府が破たんを迎えたこの時期、下りゆく徳川時代を支え、改革した日本のエリート経済官僚、大岡越前守忠相を取り上げている。

徳川幕府、享保期における江戸町奉行の支配に属する町人の人口は50万、武家の人口は凡そ50万と推定され、江戸は100万都市に成長していた。 100万を超える消費人口を抱えた江戸の町奉行にとり、如何にして食料品や生活物資の需給バランスを取っていくかは、難しい課題だった筈。 物価問題への対応を誤ると、江戸の都市社会は大きく動揺し社会不安の要因となる。

現代の言葉でいえば、格差問題に見る様に、当時でも貧しい町民ほど、物価政策の影響を大きく受ける。 江戸の物価問題は、危機管理や社会保障の問題とも密接に関連している問題に、本格的に取り組んだ最初の町奉行が大岡越前守忠相なのである。

江戸で消費される生活物資を見ると、江戸に入る米の3分の1は、仙台藩伊達家の領内で取れた米だったという程に、東北米や関東米の占める割合が高かった。 ところが、その米以外の大半は関西産のものだったのである。

江戸時代を通じて、農業生産力にせよ商業生産力にせよ関東よりも、関西の方が上だった様である。 関東地方を後背地とする江戸は、云わば関西に大きく依存する経済構造を強いられていた。 江戸を中心に、上方である関西まで視野に入れた経済運営をした大岡越前守忠相は、今で言うところの経済担当大臣というべき重責を担っていた。

ところが、江戸の治安を守る町奉行として、「これにて一件落着」という名セリフをはく大岡裁きというイメージが強い。 ところがその実像は、エリート経済官僚というべきで、その才を存分に発揮した大岡越前守忠相に、スポットを当ててみたい。

今日の引用資料


安藤優一郎:著 大岡越前の構造改革

■194−これにて一件落着? 大岡越前守の構造改革

▼194−2 大岡越前守による物価調整の大プロジェクト

享保に入っても、幕府は米価と物価は連動するという立場を取っていた。 米価の動向とは、年貢米収入に依存する幕府財政を左右する問題である。 米価が高すぎると江戸の町人は困るが、米価が低いと米を換金して生活費に充てる武士階級は困ってしまう。 この頃、江戸の米価は低落傾向にあった。

幕府は、米価引き上げを様々な形で試みていたが、物価は更に上昇を続けた。 江戸の町人は、収入が減る上に支出が増えるという悪循環に陥っていたのだ。 物価上昇の背景には、生活水準の向上により需要が供給を上回った事に加え、それに乗じて不正な利益を得ようと価格の釣り上げをはかる動きがあった。 だが生産量を増やすには時間が必要なため、不正行為の取り締まりに、まず重点が置かれる事になる。

1723年(享保8)年10月に大岡越前守忠相は、意見書を提出している。 その第一は、炭・薪・酒・醤油・塩は、一日として欠く事の出来ない生活物資だがそれを扱う商売人に仲問を結成させるというのである。

具体的には、問屋・仲買・小売の各段階ごとに商人仲問を結成させ、それぞれ何組かに編成する。組合ごとに、世話役の役割を果たす月行事を立て毎月、商品の価格を提出させる。 思いがけず価格が高騰した時は、商人仲間ごとに吟味しその理由を報告させる。

第二には、その方法としてまず、毎月浦賀奉行から町奉行へ、江戸に入る積み荷の量を報告させたいとしている。 そして、送り主の上方問屋から大坂町奉行に、積み荷の流れの実態を報告させたいと、提案している。 積み荷の起点は大坂、通過点は浦賀、終点の江戸の各段階の数字を押さえる事で、商人側の不正行為により物価が高騰するのを防ごうとしたのである。 だが、それは町奉行独力では無理であり、大坂町奉行や浦賀奉行との連係がどうしても不可欠だった。 単に価格の引き下げを命じるだけでは効果はない。 物価調整に際しては、流通の各段階の数字を押さえなければならないという画期的な流通政策の提案だった。

この提案に対し、老中は仲間組合の結成については認めなかったものの、大坂町奉行・浦賀奉行に向けて、毎月の数字を年3〜4回、まとめて江戸に報告せよと指示を下した。

以後、毎年4回、大坂町奉行と浦賀奉行は江戸町奉行に、関西から江戸に送られた積み荷の量を知らせている。 大岡越前守忠相が数字を知りたかった生活必需品とは、米・味噌・炭・薪・酒・醤油・水油・魚油・塩・木綿・繰綿(くりめん)の11品。 残念ながら、現在9品のみしかその数字が残っていないが、関東各地から江戸に送られた積み荷の分は含まれてはいないもの、江戸に送られる物資の全体像が、おぼろげではあるが、はじめて浮き彫りになった。

関東から江戸に送られた生活必需品の調査を開始したのは、1725(享保10)年7月、江戸の問屋に対して、誰から何をどれくらい送ってきたかを奉行所に報告するよう命じた。

既に1724(享保9)年の2月には、全国に向けて物価の引き下げが命じられてはいた。 しかし、流通の各段階の数字を把握したところで、あるいは通り一遍の法令だけで、効果が上がるはずもない。 商人の取り締まりが、どうしても必要だった。

ここに至り、大岡越前守忠相の二つ目の提案が採用された。 商人仲間を通じて、物価調整がはかられるのである。 同年5月、大岡越前守は、江戸市中に散在する問屋に対し、仲間組合の結成を命じたのである。 対象品目は、先の11品のほか、紙・蝋・晒(さらし)・布などが加わり、計23品にも及んでいる。

米価安の物価高という経済状況に対し、物価面では問屋仲間を通じての監視に加え、物流の数量的な把握という画期的な手法で効果を上げることができたが、米価の調節はなかなか思い通りにはいかなかった。

江戸の消費経済は、幕府や諸大名といった武家の膨大な需要に大きく支えられていた。 原則として、一年ごとの江戸在府を諸大名に義務付ける参勤交代制が、そうした経済構造の基盤となっていた。 米価が上昇して武家の消費力がアップすれば、それは町人側の利益にもなる。

米価の下落を防ぐ事は、武家のみならず町人の利益にもなるという経済理論に基づき、幕府は米価引き上げに取り組んだ。 江戸の米商人に買米を、諸大名には江戸・大坂への廻米制限を命じる事で、市場流通量を減らそうと試みている。 米商人には、米の投機取引まで認めた。 何とかして、米相場に刺激を与えようとしている。

大岡越前守忠相の米価政策として注目されるのは、物価政策との関連だろう。 仲間組合の結成が命じられた15品のなかに米は含まれるが、この米問屋仲間を再編成して、米価調節をはかっている。

1730(享保15年)9月には関西からの米を、8人の米問屋に、以後独占的に荷受けさせるという町触が江戸市中に出された。 関東米や東北米は地廻り米と呼ばれたが、この時期、江戸市場に入ってくる地廻り米についても、独占的に荷受けする問屋が定められている。

町奉行指導の下、米問屋の整理・再編が進められたわけだ。 大岡越前守忠相は再編された米問屋組織を活用して、米価を引き上げようと目論んだが、幕府の米価政策は結局のところ、期待したほどの成果を上げられない。 市場の流通量を調節するだけでは、やはり限界だった。 大岡越前守忠相は金融政策の転換を主張し断行する。 だが、それは町奉行職を賭けるものになってしまうのである。

安藤優一郎(あんどう ゆういちろう)
1965年千葉県生まれ。 歴史家。 日本近世政治史・経済史専攻。 文学博士(早稲田大学)。江戸をテーマとする執筆・講演活動を展開。 NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を務める。  主な著書に『江戸の養生所』(PHP新書)『観光都市 江戸の誕生』『徳川将軍家の演出力』(以上、新潮新書)『江戸城・大奥の秘密』(文春新書ほか)