[ ビジネス・自己啓発 ]
●隔日刊 心が元気になる オンリーワン見聞録●
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●発行   肝 付 博 昭 (きもつき ひろあき)    (有)新規事業開発 代表

2008年4月27日(日)

(本)異形の大国 中国(櫻井よしこ:著)

櫻井よしこ:著 異形の大国中国

長野で行われた「北京オリンピック」の異様な聖火リレー、他国のそれと比べれば平穏とも言えるが、何とも白々しい気分は拭えない。 こう感じる心情が正常なのか、はたまた彼の国の「姿勢」こそ、国の誇りを示す正常な姿勢なのか。 恫喝とも思えるる力の誇示にも見えるのは、弱腰のポーズしかとれない政権に従わなければならないヒガミだろうか。

今日の日経新聞の裏面に、櫻井よしこ氏の著作「異形の大国 中国」の広告が目に飛び込んだ。 詫びず、認めず、改めず、彼らに心を許してはならない、というコピーはタイムリーに過ぎる。 「狡猾な相手には賢く、勁くあれ」という櫻井よしこ氏の勁さ、ほぼ対等の姿勢には、共感を覚えるのである。

最近、次の様な話が其々に耳に入った。 日本の将来(ほぼ環境問題で、指摘される2050年頃?)は、次の二つのうち、どちらかだという話である。

一つは、アメリカの州の一つとなるのではないか。 二つ目は、中国の自治区のひとつ「日本自治区」となるだろう、と言う話である。 アメリカの一州となれば、日本から大統領候補が出れば、かなりの確率で選ばれるの夢ではないという話。 この話、日本のプロ野球が、メジャーリーグに組み入れられる、という噂から考えると、あながち不可能な話ではないかもしれない。 もう一つの「中国の自治区」となれば、地下資源もない日本は、香港型自治区か、チベット型なのだろうか。

しかし、経済面では日本を取り込んで何の得があるのだろうか。 ただ、パートナーとしては、国防という点で計り知れない魅力が有るのは確かである。  それだけに次世代に引き継ぐ現世代の責任は重い。 こう考えると今週取り上げている中山 治氏の過激な説に出てくる「行動原理主義」は、一考する価値が有ると考えるのだが、如何なものだろうか。

今週、取り上げている「ジコチュウ人間」とは、未熟な甘えが生みだす自己中心的なパーソナリテイを指す。  例えば「そんな事は世間では通用しない」「世の中はこうなっているのだ」「これが常識」という表現は、「情緒」が「葛藤」を嫌う性質を利用してお互いに、牽制しあう日本社会の特質に見られる。 日本の社会、共同体は、いわば情緒共同体として秩序が維持されており、その秩序は前述の「葛藤」を避ける方向性を土台として成り立っている、というのが、「無節操な日本人」の著者中山 治氏の説である。

キリスト教や仏教、儒教、イスラム教といった厳しい戒律と禁欲の倫理からなる世界的な宗教をその原点とする行動原理主義は、それが自由主義であれ共産主義であれナチズムであれ「未熟な甘え」を拒絶する厳しさを必ず持っている。 自由主義者は、自由を侵害するものに対しては銃を取って戦うとか、自由が得られなければ死を、といった厳しさがその根底にある事は歴史を見れば明らかである。

葛藤を嫌う情緒に基く「情緒原理主義」が、日本人の特性と言われれば、「未熟な甘え」を拒絶する西欧や中国の厳しい「行動原理主義」に、対比して考えれば納得せざるを得ない。 しかし原理主義という表現には、いささか抵抗があるが・・・。

アメリカの新自由主義なる経済支配、各国を巡る「北京オリンピック」の異様な聖火リレーに見る堅固な中国の方針に、日本政府が敢えて注文をつけずに、恭順するかの様な姿勢を取り続けるのもも、葛藤をさける国民性か。

葛藤をさける国民性は、内向きとなり、未熟な甘えが根づき、ジコチュー人間を生む出すという事だろう。 過っては政局一本やりの小泉政権時代を称賛しておきながら、小沢氏の鮮明な対決姿勢を、自民党員ならいざ知らず、党内の幹部から、いかがなものか・・という「柔な党員」が、多い事が嘆かわしい。 やや小沢原理主義とも言える様な、ブレない姿勢こそ、貴重と思えるのである。

アメリカのヒラリーとオバマ両候補に見られる、ののしりあう様な激烈な指名候補を得る戦いを見聞きするにつけ、確かに日本人の「未熟な甘え」を、憂ざるを得ない。

今週は、中山 治氏の著作「無節操な日本人」から、「未熟な甘えがジコチュー人間を生む」と、題しているが、2回目の今回は、「未熟な甘え に抑制機能がない情緒原理主義の日本 それをを助長するのは官僚機構」を取り上げたい。

●今日の引用資料

中山 治:著 「無節操な日本人」

■200−未熟な甘えがジコチュー人間を生む

▼200−2 「未熟な甘え」に抑制機能がない情緒原理主義の日本 それをを助長するのは官僚機構

欧米と日本との対比においては、キリスト教の「未熟な甘え」を厳しく抑制する倫理の有無が重要である。 アメリカでは今なお国民の95%は、神の存在を信じているというデータさえある。 ジョージ・ソロスやビル・ゲイツの様な社会的成功者で大金持ちで有っても、他方で偽善と批判されようとも慈善事業や医学研究に巨額の寄付をする精神が社会に残っている。 お金が有っても無意味な散財を戒め、自分にとっても社会にとっても有意義なお金の使い方を良しとする精神が残っているのである。

ところが日本では、貧乏なうちこそ過って輸入された儒教の禁欲と勤勉という行動原理を受け入れて懸命に働くものの、成功してお金がたまる様になると、その新たな状況にすぐ情緒的に反応してしまって、禁欲と勤勉という原理を捨て、今度は「消費は美徳」といった気分に踊って無意味な大盤振る舞い、という事になるのである。

たとえ自分は禁欲と勤勉の行動原理は維持していても、子供をブランド品で飾り立てたり、欲しいものをいくらでも買って甘やかすから、これもまた立派な行動原理の放棄である。 それくらい日本人にとって行動の原理というのはその場限りの事なのである。 この事は、欧米の金持ちが如何にお金にシビアであるか、ケチでお金の無意味な散財を嫌うか、という事実と対比させて見ると良く分かる。

バブル期には日本人の間では、もはや「物を粗末にしない精神」など死語同然となったが、今日のアメリカでも人々は意外なほど物を大切にし、その為のリサイクル市場は日本よりずっと発達しているのである。 欧米人が、日本人の様に少し経済的に豊かになったから、といってそれに悪乗りして安易に無意味な散財などしない。 欧米人が、幾多の国家民族の興亡の中を生き技いてきたという厳しい歴史と、欧米人の生き方の根底にあるキリスト教の持つ「未熟な甘え」を決して許容しない行動原理を固く信じているからである。

日本人の貯蓄率の高さも、日本の産業政策が貯蓄誘導型の為だったからであって、日本人が欧米人よりとりわけ勤勉で禁欲的だからという事ではない。 何より高過ぎる土地と家を購入する為には、貯蓄が不可欠だったのである。 それに、株式投資をしようにも証券会社が信用できないし、日本人は貨幣の価値がいかに当てにならないかを過去にあまり経験した事がない。 資産をお金よりも貴金属や不動産や高級品で所有しておいて、イザとなったらそれを売ればよい、といった発想が育だなかったに過ぎないのである。

アメリカの大学は、学費が高い事で知られる。 それでも親が大金持ちだからといって、子供の学費を出してやるなどということはしない。 親が学費を出すのであれば卒業後に返す契約を親子で結ぶのである。 中国でも大学生になっても親が学費を出す事は恥ずかしい事とされている。 この点で親が多額の金を積んでまで裏口入学させる事が横行している日本とは著しい対照をなしている。

戦前も戦後も、日本人が勤勉で禁欲的だったのは、単に貧しさから抜け出すには好都合の原理だという功利主義的価値観に動機づけられていただけの話なのである。 別にそれを神から与えられた行動原理として固く信じていたからではない。 だから、豊かになれば何もそんな貧乏臭い行動原理にいつまでもしばられていなくても、という気持ちになるのは「情緒原理主義」からすればごく自然の行動である。

子供に贅沢させたい、金が有るぞと見栄を張りたい、海外旅行でリッチな気分を味わいたい、となるのは当然の情緒的反応なのである。 実際、フランスやイタリアの高級ブランド店は「アリの行列」と称される日本人集団によって潤っている。 店員達は、このブランドは手足の短い日本人には似合わないのではないかしら?と内心では思いつつ、日本人に笑顔を振り撒いているのである。

こうした国民のメンタリティが合成されて、今日の日本が絶望的な財政危機状況にあるにもかかわらず、首相が海外を訪問すれば気前よく援助と称して税金を派手にばらまく。 外務省の音頭で国連での名誉あるポストを目指しては金をバラまく、という姿に象徴的に現れているのである。 これを称して外国からは「小切手外交」と呼ばれている。 この事はアメリカ議会が、IMF(国際通貨基金)や国連の分担金ですら出し渋る事に象徴される様に、少しでも納得できないものには国民の税金を使うべきではないとする態度と実に対照的である。

「情緒原理主義」には、「行動原理主義」の様な「未熟な甘え」の抑制機能がないので、豊かになればすぐお大尽ぶって、後先を考えず無意味な散財をしはじめる成金メンタリティを防止できないのである。

もう一つ「未熟な甘え」を助長するものは、官僚機構である。 官僚の世界は、競争がなく倒産もない。 民間企業には必ずついて回る競争と倒産の緊張感がないのである。 しかも、許認可権をはじめとする権力は持っている。 その権力目当てに業者が寄ってきてなんとか取り入ろうとする。 これで「未熟な甘え」が育だなかったら、その方が余程不思議である。

官僚機構だけからなる社会主義国家ともなれば、過ってのソ連の様に皆が物資のピンハネや横流しをして互いに互いを搾取し合い、経済は停滞して最後は国家自体が倒産してしまっている。 官僚機構というのは、人間誰もがその芽を持っている「未熟な甘え」の万国共通の孵卵器なのである。

実際、官僚に横柄で傲慢な「ジコチュー人間」が多い事は、世界共通の認識となっている。 加えて日本のエリート官僚は、もともと官僚機構自体が「未熟な甘え」を育てやすい上に、若くして税務署長といった日の当たるポストを順次歴任してゆき、ノンキャリアに比べて権限はけるかに大きいのに責任は取らずに済むような仕組みになっている。

その為、いくら仕事がハードだとは言っても、一旦その甘美な世界にはまったら「ジコチュー人間」への道をまっしぐら、となるのは当然である。 しかも、退官後は関連業界の長や特殊法人を渡り歩いて高額の退職金を手に入れる事ができ、その糖分の甘さたるやこの世に並ぶものとてない極上のものであろう。 世界の自由と民主主義国家の中で、日本ほどエリート官僚を甘やかせるだけ甘やかした仕組みを持っている国は他にないのではなかろうか。

いかに赤字を垂れ流そうが特殊法人は生き続ける事となる。 むろん、赤字は全て税金によって補填される。 日本においてエリート官僚と「未熟な甘え」の「ジコチュー人間」は、もはや同義となっているのである。

「タイは頭から腐る」というとおり、エリート官僚が国民の税金の寄生虫と化せば、ノンキャリアもそのおコボレに預かろうとなるのは必然である。 エリート官僚が風俗店で接待されて良い思いをしているという事を聞けば、ノンキャリアもおスソ分けに預かりたいとなるのは必然で、これは昨今の大蔵省をめぐる汚職で証明されている。

もはや感覚がマヒしている状況下で、唯一エリート官僚達が、恐れているのは「たかり」や失態を追及され責任を取らされる事である。 これは甘い楽園からの追放を意味し、官僚の失楽園となる。 だから、官僚は情報公開を渋り、情報を隠そうとする。 薬害エイズ事件を見れば分る様に、厚労省は明らかに不都合な情報を隠していた。 それでも、その資料を残していただけましである。 処分して闇から闇へと葬った「不都合な真実」は、厚労省にかぎらずどこの省でも今なお少なく無い筈である。

むろん、官僚の保身による情報隠しは今に始まった事ではない。 敗戦直後には軍事官僚が都合の悪い書類は全て焼きつくすよう命令しているし、日露戦争の様な勝った戦争でさえ戦史には情報歪曲がなされている。 戦史の編纂担当者のところに将軍達ちがやって来て、「自分の手柄をもっと書け、自分のあの失敗は書くな」等と、さんざんくちばしを入れたからである。 これでは過去の経験を生かして未来に役立てる事など不可能である。 勝ってもこの有様であるから、ノモンハン事件の様な敗北が徹底的に隠されるのも当然である。

日本債券信用銀行の破綻は無い、債務超過は無い、と当時の大蔵省や大臣が明言していたにもかかわらず、破綻している。 債務超過額は3兆円、という事実が明らかになったが、この様な事が過去から今日に至るまで、幾度となく繰り返されてきたのが日本という国なのである。 むろん、当時の大蔵省や大臣がその発言の責任を取った事など一度としてない。 いつも銀行の幹部がガス抜き用に何人か逮捕されて終わり、という経過をたどってきた。

日本は、この点でやはり特異な国であり、自由と民主主義の国とは言えないのではないだろうか。

中山治(ナカヤマ オサム)
1947年神奈川県生まれ。 心理学者。 慶応義塾大学大学院社会学研究科博士課程修了。 東大病院、川崎市心身障害センター、静岡県立女子短大、国際基督教大学教育研究所を経て21世紀日本研究所を設立。 日本人の国民性、日本文化論に基づいた研究を重ねるほか教育心理学の知見から教育論および勉強法の本を執筆する。 主な著書に『「ばかし」の心理(創元杜) 『日本人はなぜ多重人格なのか』(洋泉社)、『日本人はなぜナメられるのか』『日本人の璧』(洋泉社・新書)『無節操な日本人』『戦略思考ができない日本人』『誇りを持って戦争から逃げろ!』(ちくま新書)ほか多数。