「明日の送別会の会場は和室らしいよ」と職場の同僚が情報を仕入れてきてくれた。
「え? 和室なの?」
「そう。しかも、テーブルじゃなくて、銘々にお膳が用意されるんですって!」
それは困った。わたしは大真面目に困り果てました。正座は三分と持たないからです。
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子供のころは毎日正座をしていました。
茶の間のコタツ兼テーブルを家族で囲んで朝昼晩のご飯どき。ご飯を食べている間は正座。これが我が家の掟でした。
子供のころには母といっしょに長唄を習っていまいした。「長唄」というぐらいですから、1曲が短くて数分、15分以上の曲もめずらしくありません。毎日のように、母の前に正座して三味線のお稽古。30分や40分の正座は全然苦になりませんでした。
高校生のときに新しい家に引っ越しました。そのとき、食事の部屋が、畳の茶の間から椅子とテーブルのダイニングキッチンに変わったのです。
勉強部屋では椅子と机。
三度のご飯は椅子とテーブル。
思えばこの時から正座の習慣が消えてしまったのです。
「ご飯を食べるときは正座」、「お三味線のお稽古は正座」とけっこう厳しくしつけてもらっていたのに、我が家から正座の機会がなくなり、わが身はどんどん重たくなり、気がつけば、3分と正座が持たないからだになっていたのでした。
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翌日の職場の送別会が和室、しかも銘々にお膳と聞かされたわたしは、その日の仕事の帰り、デパートに直行しました。
1階入り口の受付嬢に尋ねます。
「すいません。正座するときに足が痺れないようにお尻の下に当てる折りたたみの小さな椅子みたいなもの、ありますよね。どこに売っていますか?」
さすが一流百貨店の受付嬢。即座に答えが返ってきました。
「はい、そのお品は6階の和装小物の売り場にございます」。
エスカレーターで6階の和装小物売り場に行きました。
「あの、正座する時に足が・・・」と言いかけたところで、女性店員さんが「こちらでございますね」と二つの箱を取り出してくれました。
それぞれに、折りたたみのアイロン台を小さくしたような簡易椅子が入っています。
小さいタイプは、お尻を乗せるクッション部分が葉書より一回り大きいぐらいの広さ。大きい方は、A4サイズほどのクッションです。
小さい方は、足を折りたたむとバッグに忍ばせておけそうです。でも、こんなに小さなクッションにわたしのお尻はのっかるかしら・・・
「あの・・・ 試してみることはできますでしょうか?」
おそるおそる女性店員さんに聞いてみました。
さすが一流百貨店の和装小物売り場の店員さん。お隣の呉服売り場から移動式の畳を持ってきてくれました。そこで、靴を脱いで、大小二つを試してみました。
何事も試してみないとわからないもの。
小さい方は不安定で、長時間座ると疲れそう。やはり大きい方が安心してどっかりと腰を落ち着けられます。
大きい方は折りたたんでもかさばるけれど、仕事に持っていくA4サイズの書類が入るリュックには十分収まります。
「ありがとうございました。こちらの大きい方をいただいていきます」
あらためてパッケージをみると、「正座するときに足が痺れないようにお尻の下に当てる折りたたみの小さな椅子みたいなもの」は、「らくらく椅子」という商品名の品物でした。
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翌日の夜。送別会の会場へ向かいます。背中のリュックにはLサイズのらくらく椅子。
準備万端。和室での二時間の宴席も怖くありません。
会場へ着きました。
あれれ???
和室には違いないのですが、長いテーブルの両側に低い椅子が並んでいます。
背もたれつき。高さ20センチほどの、座椅子と椅子の「いいとこどり」のような、これこそほんとに「らくらく椅子」と呼びたいような、和室にマッチしたデザインの椅子が並んでいるではありませんか。
「和室に銘々膳」に不満の声が上がったのかもしれません。幹事さんが会場と交渉してこのようなスタイルに変えてくれたようです。
かくして、一流百貨店で買い求めた「らくらく椅子」は、わたしのリュックの中で次の出番に備えて待機中とあいなりました。
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送別会から帰ってきた夜。買ったばかりの「らくらく椅子」を手に取りながら考えました。
背筋をピンと伸ばして正座した姿は美しいものだ。
なんとか、再び正座ができる体になりたいものだ。
今夜から、まずはお風呂の中で始めてみようかな・・・
正座の練習。
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