近代の文学は今無い。その特徴は、「芸術と実生活」等の観点で代表される通り、文学と日常とを結び付ける傾向をもつものである。その土台はゴンクール兄弟が展開させたリアリズム(ナチュラリズム=邦訳「自然主義」)であり、諸欲求を希求するロマン主義である。現実を客観視するリアリズムと人間的希望を重視するロマン主義とが合体するとき、ユートピアの現実的建設が始まる。その実現運動の総体を「近代文学」と呼んでいる。文芸誌にそれが載ることはなくなったが、それは小説や文学論争のかたちではなく、既に私たちの行動様式として身についていることによる。「何を求める?」「今どういう状態か?」「今何をすべきか?」‥‥‥。したがって、現代の行動様式を、かつて不完全なままの文学論争をたずねることによって問い直し、確認し、補強しすることはあながちまちがいではないだろう。
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=☆= 「芸術大衆化論争」(1)
=☆= 「論争する文学」第34回=☆
中野重治『いわゆる芸術の大衆化論の誤りについて』(戦旗・1928年6月号)
(芸術の大衆化とは何か。なぜ芸術は大衆化しなければならないか。)
前回、鹿地氏はすっぱり《芸術の役割は其の特殊の感動的性質に依って、政治的暴露に依って組織され行く大衆への進軍ラッパとなることであり、決定的行為への鼓舞者となることであり、換言すれば、大衆を組織する為の契機たる政治的暴露を助ける所の副次的意義を持つものに過ぎない。それは断じて彼が自己陶酔せる如き前衛の役割ではない。前衛とは繰返して言う画、社会主義的政治闘争の指導者である。我々は芸術的行為を過重評価してはならぬ。》と言ってのけた。
要するに、プロレタリア運動において芸術は従軍鼓笛隊の役割を持つ。この点に関する中野氏の裁き方は以下の如くである。
《一体芸術に取って面白さとは何であろう。だがその前に我々は、我々がどんな場合にも芸術上のプログラムと政治上のプログラムとをとり換えないように注意しなければならない。芸術上のそれにともすればすり換えられる危険のある政治上のプログラムは言うまでもなくプロレット・クルトの問題だ。我々はどんな対策を持って無際限なブルジョア的読物等々の洪水を堰きとめるか。》
中野氏は従軍鼓笛隊の役割というよりも、「社会主義文学」に近い考えを芸術について持っている。ただし、それはあくまでも政治上のプログラムにあるプロレタリア文化という位置づけであることを念押ししている。それは「大衆」にとって、ブルジョア的読物よりも面白いものでなければならないとする。
《我々はある労働者が彼の工場で調査した一つの統計表を持って居る。(略)彼の調査によれば、労働者百人の日常の読物(新聞を除く)の六十プロセントが講談社系に所属する。何等かの意味で社会主義的と名づけられる雑誌は僅かに一プロセントに過ぎない。これに対して我々は何をしなければならないか。》
それに回答する前に、中野氏は二つの誤った論を批判している。冗漫なので、簡潔に引用することにしたい。
第一の声「芸術は今日から新しい通俗的な足場に移らなければならない。作者の身辺雑記を綴って居て高級芸術家面をするとは何のことか。復活やレ・ミゼラブルを見てその素晴らしい大衆性と通俗性とを考えるがいい。(略)明日は大衆のものだ。大衆は通俗を喜ぶ。」
これに対して中野氏らしく「牛太郎」と批判する。「牛太郎」が何者なのかは知らないが、いずれにせよ、この論は太鼓持ち的なもので、「大衆」をみくびっていると片づけている。
第二の声「我々は我々の芸術をひろく無産大衆の間にばら撒くことを欲する。(略)だが我々のあらゆる努力が予期どおりに酬いられたかどうか。我々がいつも眼の前に置いて居る労農大衆のどれだけの部分が我々の差し出した贈物を受取ったか。正直のところ―我々は大胆率直に認めなければならない―大衆はそれを殆ど受け入れて居ない。その代わりに彼等は探偵小説と宮本武蔵とを読む。我々が大きな犠牲を払って銭勘定の上で損をしながらやる芝居を見に来ないで浅草に行く。」
「一体我々の芸術は、それが大衆からモーリス・ルブランや三上於菟吉を逐い出した時レーニンの遺言を守ったことになるのだが、そのためになぜ今まで我々はブルジョア大衆芸術からその面白さを習わなかったのか。その面白さに於てブルジョア大衆芸術に拮抗しそれを凌駕する時はじめて、我々の芸術を社会主義の方へアヂることができるのだ。(略)今は面白さがあればいい。」
やや乱調気味である。
《我々は、優れた芸術的価値を大衆のものとするためにそれの橋渡しとして面白さを探して来る芸術家にお辞儀しなければなるまい。だが面白さは芸術に取ってよりむしろ大衆に取っての問題だ。》
《そこで大衆に取っては何が一番面白いか。言うまでもなくそれは大衆自身だ。》
《大衆のために面白さを盛ろうとするものは心がけのいい、けれども藪医者に過ぎない。それは甘草だけを処方する代診に過ぎない。》
《芸術は味つけなしの時が一番うまい。(略)対象をその客観性において捕える時すぐれた芸術が生れる。その時はじめて、在るがままに描かれたものがそれの道行きを訴える。》
《芸術家がその小さな成心で対象に臨むなら対象はその客観性において捕えようがない。そこに生れるものは捻ぢ曲げられた芸術であり、そこに示された道は袋小路である。若し芸術家に対象をその客観性において捕まえる力があるならば、彼はわき見をしずにその方へ行くだろう。》
《プロレタリアの芸術家が面白さを云々するのは、彼が対象へその客観性において喰い入る力を持たないからである。》
《芸術的価値は、その芸術の人間生活の真への喰い込みの深浅(略)、それの表現の素朴さとこちたさによって決定される。》
《彼の芸術を大衆が面白がらないなら、面白さを人真似するのでなしに芸術の源泉である大衆の生活を探ればいい。》
《彼が大胆率直に認めなければならなかったのは、(略)彼が人心をゆする客観世界の芸術的把握に無力にも喰い下がれなかったことをこそ、最も大胆率直に認めなければならなかったのだ。》
語録的になったが、実に好い批評である。引きながら、私も(そうだなぁ)と頷くしかない。
次回予告
鹿地 亘『小市民性の跳梁に抗して』ほか
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=☆= 「目的意識論争」(3)
=☆= 「論争する文学」第33回=☆
文芸戦線「社説」『社会主義文芸運動』(文芸戦線・1927年2月号)
(テーゼ)
これは、これを批判した鹿地旦が林房雄の手になるものと明かしている。
「テーゼ」とは日本語になりにくい言葉であるが、そういう言葉を使っての論立てとその論争となるので、さらにわかりにくい。そもそもマルクスらが「倒立」だの平凡な言葉を特殊な意味づけで効果的に使う名手であったことに由来すると思うのだが、そのことで足元がぬかるんでいるような状態のようにもみることができる。「醜い論争」も多く、日本社会での議論マナーは進歩していないなとも。
《『文芸戦線』は、その同人会議で、最近の社会主義文芸運動の展開、その客観的文芸情況に鑑み、当面する種々な重要な問題に就いて、毎号テーゼを発表することを決議した。》
《資本主義が社会の全機構に浸潤し、これを染色している時、社会主義作家が無意識的に、衝動的に、行きあたりばったりに芸術運動を行ったら、知らず知らずの間に資本主義的イデオロギーの前に頭を下げることになる。故に吾々は常に意識的でなければならぬ。資本主義的イデオロギーからの独立、社会主義的イデオロギーの積極的展開を、意識的計画的に遂行しなければならぬ。》
ロマン主義そのものである、お馴染みの仮想上(机上)の論立てである。といっても、善いとも悪いともいえない。人間社会は、この仮想上(机上)の論立てで成立し、発展するものだからである。善くもなろうが、悪くもなる。願わくば人間のことだけでなく、他の生物のことも念頭に置くべきであろう。それもまた、生態系などという言葉つまり、仮想上(机上)の論立てで展開することは勿論。なお、仮想上(机上)で論立てできない性質のものを衝いてのマルクス主義批判が一時期流行したようである。
さて、林氏はここで、「社会主義作家」を批判しているのである。青野氏の主張と同様のものである。意識的でない者は、≪芸術活動を純個人的なるものと見る古き芸術家≫でしかないということを述べている。ここで「国語」という言葉を使っているので興味深い。
《芸術に於ける集団性は、彼等にとっては異国語であるかも知れない。芸術行動に於ける共同の指導原理なるものは、彼等にとっては異国の経文であるかも知れない。―が、彼等にとって異国語であり、異端の経文であるものは、吾等にとっては真にプロレタリアートの国語であり、社会主義的闘争の聖典である。》
林氏のテーゼは「自然成長性と目的意識性」について六つの規定、「社会主義文学と芸術価値」について七つの規定で構成されている。もう一つ、「政治闘争と文芸運動」についての規定も構想されていたが、共同執筆者である青野氏の都合がつかなかったことなどが関係しそれは次回として、同人会議での議論から、とりあえず林氏ひとりでこの『社会主義文芸運動』を執筆した事情がある。
ここからは、『社会主義文芸運動』を批判した鹿地氏と中野氏のものを取り上げ、それよりテーゼの局部を指名的に拾い上げていくことにする。林氏の反論『テーゼに関する誤解について』(文芸戦線・1927年3月号)はその過程で拝借していく。
なお、指摘する機会を忘れたので付け加えると、「自然成長」的な運動として時代を揺り動かしたものに「米騒動」がある。
《政府は米騒動にたいして、警官隊のみならず、軍隊をも全国一二〇か所に出動させた(延九万二〇〇〇名)。このため各地で市街戦がおこり、市民に多数の死傷者を出した(略)。そして組織と武力をもたぬ米騒動は、各地とも数日で鎮圧された。(略)この事件は組織的な指導者をもたない自然発生的な行動であったが、独占資本、寄生地主階級にたいする労働者、農民階級の反抗であり、それを小ブルジョア層が支援した。》(画報日本の近代の歴史8・三省堂)
これは所謂「プロレタリア国語」で書かれたままであるが、それだけ支持層が厚かったと考えることができる。「組織的な指導者をもたない自然発生的な行動であった」ところを、組織的な運動にすれば、と考えるのは当然のことである。いずれにせよ、当時の者は、この現実に起きた擬似革命=米騒動を念頭に置いている。
鹿地 旦『所謂社会主義文芸を克服せよ』(無産者新聞・1927年2月5日号)
(社会主義文芸批判」)
これは、テーゼ「自然成長性と目的意識性 五」に関する批判である。そこで何が書かれているかを引用する。
《五、吾々社会主義作家はその創作行動に於て常に常識的でなければならぬ。無産者大衆の自然成長的行動も、資本主義的機構の全局面も―工場も、農村も、株式市場も、貧民窟もダンスホールも、ストライキも投獄も、愛も情熱も、戦争も革命も、政治も文学も、道徳も宗教も―すべて作家の社会主義的世界観を通じて描き出されなければならぬ。》
これまでの文脈にあっては、現実のあらゆる局面に対して資本主義的視点を取り外し、社会主義的観点から捉え直すというこの理論的図式は妥当なようにもみえる。しかしながら、鹿地氏はこれを痛烈に批判する。
《目的意識性の骨抜きをし、而もそのことに依り変革行為を全然無視した所謂社会主義的教化運動を以て前衛の任務なりと林氏は規定する。前衛の任務は決して教化運動にあるのでなく、其は決定的行為への組織運動でなければならぬ。而も彼が自らを前衛なりということは恋と死とダンスホール等とを社会主義的に取り扱ったこと、又今後も取り扱うであろうことの自己弁護であり伏線である。》
一読してもわかりづらいと思われるが、要するに、林氏が語っているのは「社会主義的教化運動」=「社会主義文芸」にすぎず、それは「前衛」の仕事では全くないというものである。林氏が批判している「社会主義作家」と変わるところがないというものである。
事実、林氏はまだそういうところにいる。
《吾々は、原稿によって衣食しているため、或は文壇的闘争の意義を過重評価しているかも知れない。》(『テーゼ関する誤解について』)
こういった思考は将に「文学的思考」であるが、それを「決定的行為への」根拠にするか、それとも従来通り作家としての作品のネタにするかという、文学的思考の現実化の帰趨問題である。ここに来て、従前の文学論争とは一線を画す。いよいよ、作品にしがみついていても何にもならないという(文学)論が出てくるわけである。
では、林氏と鹿地氏との「前衛」の違いについてみてみることにする。
テーゼ「自然成長性と目的意識性 三」
《三、社会主義文芸運動は前衛の運動である。―若しそれが前衛の運動でなかったら、存在の意義はない。『プロレタリア的体験』を売物にして文壇に乗り出すか、『プロレタリアの錦旗』をかざして資本主義的ジャーナリズムの中原に鹿を追うか、何れにしろ従来の『文士』的行動以外の何物でもあり得ない。》
これも鹿地氏と同じ考えに立って書かれている。
「小市民性」とは、中野氏が林氏に放った言葉である。
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近代の文学は今無い。その特徴は、「芸術と実生活」等の観点で代表される通り、文学と日常とを結び付ける傾向をもつものである。その土台はゴンクール兄弟が展開させたリアリズム(ナチュラリズム=邦訳「自然主義」)であり、諸欲求を希求するロマン主義である。現実を客観視するリアリズムと人間的希望を重視するロマン主義とが合体するとき、ユートピアの現実的建設が始まる。その実現運動の総体を「近代文学」と呼んでいる。文芸誌にそれが載ることはなくなったが、それは小説や文学論争のかたちではなく、既に私たちの行動様式として身についていることによる。「何を求める?」「今どういう状態か?」「今何をすべきか?」‥‥‥。したがって、現代の行動様式を、かつて不完全なままの文学論争をたずねることによって問い直し、確認し、補強しすることはあながちまちがいではないだろう。
=☆=
=☆= 「目的意識論争」(2)
=☆= 「論争する文学」第32回=☆
谷 一『無産者文芸の質的転換』(文芸戦線・1927年1月号)
(いかにして当面の問題を解決し結論に到達するか)
《我々によって問題となるのは結論であってはならない。我々はいかなる道「行」を過程することによってその結論にまで到達するかを分析しなければならない。何故かなれば若し一定の結論を機械的に適用することによって、運動の進展をなさしめんとするならば、其処に多くの矛盾を見出さなければならないから。》
プロレタリア文学運動の価値、とは上記のようなコンサルタント的捉え方なのだろうと考える。結論=ロマン主義への到達の前提としての過程=リアリズムが重要なのである。
これがなかなか難しい。とりわけリアリズムが欠落していることが多い。
特に、ロマン主義はひとりの頭脳によって構想できるが、プロレタリア文学運動が目ざしたリアリズムとは組織的活動のリアリズムである点が重要である。プロレタリア文学運動はそれゆえに、その独特の言語の定義を含め、論争を通じて問題を消化=「過程」して結論へと到達しようとする。
プロレタリア文学運動の現代的価値とは、その思想にあるのではない。社会的に「意識的計画的」な事業活動をどのようにしてして進めていくかというコンサルティング手法の模索にあるといえる。それは後に国家社会主義運動に丸呑みされた恰好となったが、それはやはり結論を問題にしている社会である。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の要領で、私はプロレタリア文学運動のなかに論点を拾いたいと思う。
(目的の把握方法)
《我らはブロジョア的な、非無産階級的な原理の上に立つ敵の陣営を詳細に批判し分析することによって、我々自身を止揚し得ることが出来るのである。》(遠藤慎吾「プロレタリア文芸批評家当面の任務」)
この考えに対し、谷氏は次のように批判している。
《即ち氏によれば、有産者文芸家との闘争の過程に於てのみ「マルキシズムによる目的意識」の把握がある。(略)もとより我々も、氏と共に敵の陣営に対する闘争を重大視するものではあるが、只、当面の任務として、それを殊更に強調し、北條氏のなし来った組合主義或は折衷主義に対する理論闘争並に、後述する我々内部の理論的闘争に無関心なるは、我々の最も遺憾とする所である。》
和田氏のような把握だと、どこまでいっても「相手あっての自分」という共存関係しか実現できない。したがって、谷氏の批判は正しい。なお、「組合主義」とは革命観をもたない労働者の地位向上運動(即ち労働組合運動)のことで、鈴木文治らの総同盟(友愛会)などを指す。また、内部的にも考えが一致しているとはいえず、内部論争についての視点が欠落しているという点も正しい。
「我々の最も遺憾とする所である」とは、やはり官僚っぽいなぁ。
(過程の欠落)
《芸術大衆をして、無産階級の階級意識を与えるのみならず進んで階級闘争に参加せしむること、すなわち政治意識を与えることが正に当面の任務となっている》(和田一郎「無産階級運動に於ける芸術の地位」)
谷氏はこれについて次のように批判している。
《我々は、氏の所謂階級意識と政治意識とは何を意味するかに就て、先ず疑を持つ。だが、暫く、氏の云わんとする所を教化運動と政治的暴露とに解する事が出来よう。そしてこの点に於て我々も氏と見解を等しくするものであるが、氏は、それが如何にして可能なるかを何等示していない。而して、「理論」の発表其のものが、錯雑であり余りに概念的である。(芸術大衆とは何を意味するのか?)》
目的の実現のためには、言葉を安易に用いることはできない。それは現実に機能すべきプログラム言語として用いるべきものなのである。したがって、リアリズムに基礎づけられてあることが必須なのである。頭が痛くなりそうであるが、意識的計画的な活動にはつき物である。特に日本社会では「自然成長」に流れやすい傾向があるため、こういったことをしっかりさせておく必要度は高い。
ちなみに、谷氏の「政治的暴露」の内容とは「それは、只単に、「層と層」「階級と階級」「階級と××」の関係を明にするだけではない。その関係を明にすることによって、それ等の人民の感情の爆発を一定の方向に組織することでなければならない。」とある。
現在からみれば、「階級」の定義がよくわからない。時代によって社会構成が異なるものであるし、また翻訳語という人工的な言葉という点からもよくは理解できなくなっている。こういう言葉ひとつひとつにつまづくともう運動は止まってしまうのである。これについては当時自明のものとして共有されていたとみるしかないが、いずれにせよ、意識的計画的活動は大変であるが大切でもある。色々な観点から共産主義運動そのものが批判され尽くしたとしても、ここで編集した谷氏のような批判は様々な場で使えるのではなかろうか。
次回の予定
文芸戦線「社説」『社会主義文芸運動』他
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=☆= 「目的意識論争」(1)
=☆= 「論争する文学」第31回=☆
青野季吉『自然成長と目的意識』(文芸戦線・1926年9月号)
(プロレタリア文学とプロレタリア文学運動との違い)
《プロレタリア文学運動が起って来たのは、この四五年のことである。プロレタリア文学の最初の示現があってから、ずっとずっと後のことである。それならばプロレタリア文学と、それの運動化との間には、どれだけの違いがあるか?それが大切な問題である。≫
青野氏によれば、プロレタリア文学すなわちプロレタリアを描いた作品は昔からあった。例として、独歩の作品や長塚氏の『土』のような作品である。
《プロレタリア階級は自然に生長する。これが自然に生長すると共に、表現欲も自然に生長する。それの具体的の顕れの一つがプロレタリア文学である。プロレタリアの立場に立ったインテリゲンチャが出る。詩をつくる労働者が出る。戯曲が工場のなかから生産される。小説が農民の手でかかれる。いづれも自然に生長して来る。》
《しかしそれは自然に生長したままであって、まだ運動ではない。それがプロレタリア文学運動となったのはその自然生長の上に、目的意識が来たからである。目的意識のないところに、運動のあり得る筈はない。
目的意識とは何であるか? 》
この論文の主要な点は以上の如く簡潔である。(註、青野氏は「生長」と「成長」とを区別していないようだ。)
ただ、リアリズムで書くだけではそれはまだ運動とはいえず、目的意識をもって書くことではじめて運動といえる。このことは、文学にとって大きな展開である。これまで多くの論争を扱ってきたわけだが、このような書くことに加えてのプラスアルファを持ち込んだ論はなかった。
現代的に「目的意識」を「目的」「目標」とすれば理解されるであろう。要するに、「事業」や「経営」の意義である。この意義は文学的に重要である。
《組織というものは元来、目的を失えば解体すべきものであり、一つの目的に対して、一つの組織が構成されるのであって、目的が変ったら、それに応じて組織を改変しないと、組織の存立意義がなくなるわけです。
簡単に区分すると、特定の目的を特にもたない状態を「自然成長」とみて、一方「目的意識」をもつ組織的活動とがある。この「目的意識」をもつということが、なかなか日本人には慣れないのである。文学で達成できないものは当然実際の経営活動においても達成できない。三島由紀夫は『絹と明察』において、家族共同体を信じて疑わない経営者を興味深く描いたが、その挫折するくだりについてはあまり歯切れのよい書き方ではない。
先を急いだので青野氏へ戻る。
谷 一『我国プロレタリア文学運動の発展』(文芸戦線・1926年10月号)
《自然発生的な第一期より階級止揚後の全人類文学に至る間のプロレタリア文芸はその発展の段階に於て、種々異った使命を持つのである。
すぐに気付くと思うが、これは「お役所言葉」に酷似するものである。それは、自然発生的なものの否定を意味する。そしてさらに、プロレタリア用語以外のものの排除=言語統制とその教化を意味する。
青野季吉『自然成長と目的意識再論』(文芸戦線・1927年1月号)
《プロレタリアの文学運動は、そのプロレタリアの文学に、社会主義的(真に無産階級的)な目的意識を植付けるものでなくてはならぬ。言い換えると、自然発生的なプロレタリア文学に現れた諸々のイデオロギーの混入 ― そこにはブルジョアジーのそれや、プチ・ブルジョアジーのそれ、否、中世的なそれさえあることは、事実が証明している。 ― を批評し、整理し、社会主義的意識へと組織しなければならぬ。》
《(あの一文 *註-前回の『自然成長と目的意識』のこと* の趣旨は、(略)書き下す直接の動機は、「純粋」の農民詩として若干の人々から推賞された詩集の寄贈をうけて、それを繰返し読んだ結果であった。なるほどそこには田園が歌われていた。農民の感情も、すなおに出ていなかったとは言えない。しかしそこには作者自身の気のつかない中世的イデオロギーや、概念的な田園賛美が、平気で歌われていたのである。私には自然発生的産物におけるこの混入物、それは感覚となり感情となったところの、この混入物が眼について仕方がなかったのである。)》
《ただ私は、レーニンが説いているように、プロレタリアの自然生長には、一定の局限があると信じている。プロレタリアの不満や、憤怒や、憎悪は、そのままで放置されては、決して十分に批評され、整理され、組織されるものではない。即ち社会主義的意識は、外部からのみ注入されるものであると信ずる。我々のプロレタリア文学運動は、文学の分野での、その目的意識の注入運動であると信ずるのである。》
労働運動について私は、下記の「戦前・現在の労働考察はこちらhttp://geocities.yahoo.co.jp/gl/y_uoza」で扱っているので、ここでは文学的な観点だけにしたい。
次回の予定
谷 一『無産者文芸の質的転換』他
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=☆= 「批評方法に関する論争」(3)
=☆= 「論争する文学」第30回=☆
正宗白鳥『青野氏・岸田氏・谷崎氏』(中央公論・1926年9月)
(評論と詩)
《私は、樗牛の評論を青野氏に比較して、時代思潮の著しい変遷を感じた。樗牛は明治三十年前後の文学者に対して「時代精神」捕捉の必要を強調し、青野氏は我々現今の作家に対し「時代の苦悶」着目の必要を指示している。用語の上から見ると、明治大正両期の二人の批評家の立論が符節を合わせた如くであるが、内容は余程相違しているらしく思われる。》
以下、樗牛の説の引用。
《吾人は敢て今の小説家の多くを目して時代の精神を解せずと言う。(略)試みに今の時代を見よ。吾人が活動の気勢は日に昂り、国民思想を挙げて方に一回転の機運に迫れるの事実を見る。所謂元老は政治界に於ても、学芸界に於ても、漸く凋落し去らんとする也。政治教育の社会に於ける日本主義と国家主義との争いは、国民道徳の変遷に伴うて将に一生面を開かんとしつつある也。社会道徳にありては、法治機関の充実によって促されたる権利思想の発達が、従来の倫理と漸く乖離の実を表わし来れるを見る也。(略)凡そ是等の事実は、将来の国家的人文に向って、如何に革新を予約せんとする。明治の歴史は改革の歴史なり。而して今や三十年にして再び大飛躍の時機に際会せるの観あるを見る。知らず我が小説家は這般の事実に対して如何の考察を遂げたる乎。是の社会風潮の急転過度に際して、何ぞ独り文学界の冷々淡々として相関せざるの甚だしきや。文壇衰頽の原因実に茲に存す。》
接続語のない漢文調なので、非常に意味がとりにくいが、正宗氏の解説によると、「彼れは、日本主義と国家主義の争いを描けと云うのであろうか。権利思想の発達を描けと云うのであろうか」とあり、いずれにせよ時代の変遷を捉えよという意味である。三宅雪嶺ら政教社の『日本人』や陸翔南の主宰する新聞『日本』が活況を呈していた頃の様子を思い浮かべればいいのではないかと思う。
《青野氏などは、「日本主義と国家主義の争い」のかわりに、「資本主義と社会主義の争い」を取扱えよと云うのであろう。》
ここまでは単なる比較で、正宗氏は次に本旨を説く。
《しかし、樗牛は評論に於てこういう要求を持出して、作者に迫りながら、彼自身の小説の形に於て筆を執った時には、年少の頃の「瀧口入道」の如き、稍々長じてからの「わがそでの記」「清見潟日記」などの如き、今なお青年読者の胸に触れるような感傷的純情的心境を露出しているのである。彼れの高唱した「時代精神は」、それ等の作品には少しも現われていないのだが、しかしそこには詩があるのである。》
《ところが、青野氏には、全く詩が欠けている。》
《私は青野氏の文章は、今座右に置いている「解放の芸術」以外には、一二の論文を読んだのに過ぎないので、他に氏の名を帯びたどんな作品があるか知らないが、この一巻を読んで、氏には、私が数十年の間に触目し玩味した古今東西の芸術家が、それぞれに有っていたような詩魂を少しも持っていないことを推察した。氏がこういう論文以外に、傑れた芸術品を産出していないことは、読まずとも推して知られるのである。》
(ある淋しい思想=文学無用論)
《私が、「解放の芸術」について、多少の感想を述べようと思立ったのは、この最近売出した評論家の持っている真面目な意気込みに心を惹かれたのと、私が多年ひそかに持っていたある淋しい思想に何処となくに触れる気持ちがしたからであった。》
《「詩を作るより田を作れ、」という諺があるが、それも一面の真理である。由来、宗教欲と芸術欲とは、古来人類の心に深く萌している迷妄とも云うべく、宇宙人生の真相をありのままに見ることを妨げているように思われる。私は、こういう迷妄から脱却して、美しい霞を払拭して、森羅万象を見たいと思うことがある。》
《芸術蔑視観、文学無用論がたひたび萌して来て、わが過去の文学生活は愚かなる努力であったと、心淋しく感ぜられることがある。》
《天性芸術欲の薄いらしい(青野)氏は、無用の長物である筈の文学などには唾を引掛けて、自己の天性に適した他の方面へ向ったらいいように思われる。》
《諸種の生産事業を起すに当って、資本家が頭を使っていろいろと画策して、労働者を駆使して激労させ、利益の大部分を自己の手中に収めるのは陋劣であると憤っている氏等が、芸術運動の易きにつくのはどういう訳であるか。》
《文学、芸術とは》
《由来芸術は有閑時の所産であって(略)》
《そして、古来の傑れたる芸術には多少麻酔的文学の含まれていないものは絶無である。原始時代にでもいい声で唄を唄われると、聴者は恍惚としてうっとりしたに違いない。》
最後に正宗氏は、二葉亭四迷の「文学は男子一代の事業とするに足らず」という話を引いてくるが、省略する。
「時代の変遷」について樗牛・青野比較をしたまではよかったが、やはり「時代」と「私」=正宗氏とは無反応である。何度もいうが、このかたちが典型的な「私小説」的評論なのである。小説の中では語り部として小説世界を崩さぬようにある機能にすぎないゆえに、それがそのまま実生活の中でも極度のニヒリズムとなる可能性は高い。
「本当は恐ろしい」私小説。「本当は恐ろしい」私小説。
「本当は恐ろしい」私小説。
「本当は恐ろしい」私小説。
「本当は恐ろしい」私小説。
青野季吉『正宗氏の批評に答え所懐を述ぶ』(中央公論・1926年10月)
かなりの長文で私は思い切り捌いていくが、正宗氏の浮薄な評論と異なり、濃密で貴重な内容なので、是非原文の全文を読んで欲しい。ただし、例の欧米語(bourgeois仏、Proletariat独)が現在では多少うるさく感じることは否めない。
青野氏は、正宗氏によってもたれた不思議について、三つに分類している。
第一の不思議とは、青野氏にとって無用の長物である筈の文学になぜ関わるか、というもの。
第二の不思議とは、青野氏が芸術運動の易きにつくのはどういうわけか。
第三の不思議とは、青野氏の『解放の芸術』のなかに「階級的麻睡に役立つものであってはならず、階級(無産階級)の覚醒に役立つものでなければならぬ」という箇所があり、芸術的麻睡作用を論点とするもの。
青野氏は都合上第一の不思議を一番後に回している。
(第二の不思議。芸術運動の易きにつくのはどういうわけか。)
《社会悪の根底たる経済組織以外に、何の相関的な力もないほどこの現実の社会が単純に出来ているならば、その無縁無益の経済組織に一撃を加える方が、たしかに有効でもあり、否、『易き』ことでもある。しかし不幸にも、社会はそんなに単純に出来上がってはいないのである。》
《現実の社会には、その経済組織を、或は順当に発達させ、或はそれを固定させるための、政治や××と言うが如き物理力があり、芸術や宗教と言うが如き精神力がある。それらが相倚り相補って、すなわち互に相関関係をつくって、一個の統一ある生きた社会をつくっている。》
《ただいかなる政治や××の組織も、芸術、宗教、教育の系統も、経済組織に相応してでなければあり得ないと言う意味で、社会悪の根底は経済組織だ、と説くのである。》
《(プロレタリア)階級は、その成熟の一定段階に於いて先づ経済的に闘争を始める。そうして更にその進んだ段階において、その経済組織を取かこんでいる物理的、精神的の力に向って闘争をすすめる。所ゆるプロレタリアートの政治闘争、文化(芸術)闘争が、それである。かくて闘争は、そのキャタストロフにおいて、それらの物理的、精神的の力を他の物理的、精神的の力に代え、経済の組織を別個の軌道へと意識的に進める。》
マルクス主義運動理論については述べるつもりはないが、要するに、正宗氏の捉えている文学は、小説家のそれにすぎず、社会的な意義ではないということである。ただ逆に青野氏にも、「私」という物理的存在が欠けている。社会分析のリアリズムが、「私」という肉体のリアリズムを拒むものである。≪それらが相倚り相補って、すなわち互に相関関係をつくって、一個の統一ある生きた社会をつくっている。≫というときの、ロマン主義臭さはいただけない。社会が「一個」であるかどうかは見たことがなく、また「統一ある」かないかも見たことがないのがリアリズムである。
後に見るように青野氏には問題がないが、社会運動をすればするほど、自己疎外感にさいなやまされることになろう。
(第三の不思議。芸術的麻睡作用を論点とするもの。)
《(正宗)氏は、『由来芸術は有閑階級の所産であって』と無雑作に言い放ち、原始時代とか野蛮人とか言う類のことさえ持ち出している。しかしこれは氏の独断である。近代の科学の探求によると、由来芸術は有閑時の所産でも何でもない。原始時代には、芸術は労働歌として、労働の筋肉的リズムとして発生して来た。芸術が有閑時の所産となり、有閑者の専有となったのは、社会に身分別が出来てからのことである。(略)しかしそれは比較的枝葉の問題である。》
《私は決して、古来の傑れた芸術に麻睡的文学が含まれていないとも説きはしないし、芸術的感激―麻睡的力を否定したことも曾つてない。感激、麻睡、興奮、そういう一連の心的状態を与えることなしに、芸術があり得ないのは、言うまでもないことである。》
ここを説明すると、正宗氏は青野氏の「麻睡」という言葉から、手前勝手に常識的な解釈をしてしまったものである。麻酔的=デカダンスと決め込んでしまった。ところが青野氏は、麻睡的なことは否定したこともなく、肝心なことは麻睡とともに覚醒があるということを伝えていた。
《が、その心的状態は、何も彼も忘れてうっとりとなると言うのと同じではない。先ず、感激、麻睡、興奮がある。それを通じて、読者観者は、或はAの事柄を忘れさせられ、或はBの事実の前に生きた肉眼を開く。しかも近代の芸術は、ますます読者観者の心に、この過程を濃厚にするのである。》
「読者観者」というのは、当時の作家は戯曲もまた多く手掛けていたことを示す。
《我々の芸術上の主張となっているもの、したがって『解放の芸術』の提説の基礎となっているものは、今日の芸術のほとんどすべては、直接間接に、いくたの形態と経路とを執って、階級的支配の用具となって居り、被支配階級の芸術を築き上げなければならぬ、而してその芸術は、その持つ感激力によって、被支配階級の意識を目醒めしめるものでなければならぬ、と言うに在る、これがその基礎の基礎であり、骨組の骨組である。》
《正宗氏が『解放の芸術』を問題にする以上、後進にたいする少しばかりの親切があれば、否、それがなくとも、大衆的雑誌の文芸時評を書くという責任だけからでも、その主張の根本に向って、皮肉や独断や面倒臭ささそうな言いっ放しでなく、尠くとも相手が考究の手がかりを見出し得る程度に、検討し、批評を下して然るべきではないか。》
当論争のテーマは、実にこれである。相手の主張について検討なり取組むこともなく、その主張自体も汲んでいない状態では、「批評」とは言えない。したがって、関心のない内容については一言も触れない方が大切である。関心があるのであれば、じっくりと相手の主張に耳を傾け、理解し、そして初めて自分の中で消化してからの葛藤なりをもとにして批評を手掛けるのがルールであろう。青野氏はその実践として、正宗氏の批評について語りだす。
《私は正宗氏によって一般化された問題をこれまで内在的に見て来た。そして別個の観点から取扱うべきものとして、二つの問題を残して来た。一つは、氏が現実の社会機構の解剖に、及びその解剖のための人間努力の累積に、無視的の態度を抱き、且つ氏の私批評が、怪くも一連の人々の年来の批評と符節を合していると言う事実であり、他は、氏が、階級文学の主張に対抗して表明した芸術上の立場が、やはり以前にそれに対抗して高調された芸術上の主張と一致していると言う、たった今指摘した事実である。》
《正宗氏の社会機構にたいする無視的態度は、氏のニヒリズム的気分の現われに相違ないが、そしてそのニヒリズム的気分は(略)日本の知識階級の意識の一つの反映に外ならない。》
先を急ごう。
(第一の不思議。無用の長物である筈の文学になぜ関わるか)
《私には『人類発生以来、男女とも青年時代には必ず多少は有っている筈の詩を欠いているようだ。』と正宗氏は言う。氏は、新しく物を書き出す人間は、みな若き青年男女だと、頭から定めてかかっているのでは無かろうか。歳不惑に近い私に、青年男女の詩があったら、それこそ不可思議である。》
ここから青野氏はその生い立ちと文学との触れ合いについて語りだすのである。幼時に両親を失い、多くの兄弟を抱え、極貧であった。中学時に自然主義文学に捉えられ、その自然主義文学は虚無的な心を募らせて二度自殺をはかるまでになった。それを助けてくれたものは社会の経済的機構の研究、社会主義の思想であった。社会運動に加わり、文学の恐ろしい麻睡力を生命を危うくするまでに経験していたことから、再び文学を問題にした。
粟生野は独歩とそして正宗氏を師としていたという。
《私はかつて私の半生の内面史は、虚無思想との闘争史であると書いたことがある。最初それの萌芽を植付てくれたものは、青年期の早期に瞬間も手に離さなかった故独歩の芸術であった。そしてそれを仕上げてくれたものは正宗氏その人の芸術に外ならなかった。青年期の中期晩期に、いかに私は、正宗氏の芸術から得た感激によって、社会と人生を眺め、それと抵抗しながらも虚無的な気持を深めて行ったか。≫
≪そして長き隔りの後に、再び文学を問題にして来た時、私の目標としたところは、正宗氏をふくめてブルジョアジーの文学の崩壊を早め、新興階級の文学を育てることによって闘争を激化することであった。私は今斯く、正宗氏と語を交えて、旧師に矛を向け、私の長かった過去と戦っているという、一種の言い知れぬ感に打たれざるを得ない。》
ちょっとしたドラマである。
正宗氏のような「常識」人もしくはニヒリストは多く、当然ながらそれへの抵抗は現実に接する人物、会話等に対しても、そして小説、批評等に対しても行われるものである。「文学」が自然発生的な現象をもとにするものであるから、それは当然である。
《若し私が、芸術運動こそ社会を変革する唯一の仕事だという如き暴論を吐いたならば、同志よ、社会の苦しめる人々よ、私の体に石を投げよ、私が果して、芸術を論じて我事終れりとしているのであれば、同志よ、世の苦しめる人々よ、先ず来って私を鞭打て。》
《『男子一代の事業を文学以外に求める気はないか』と正宗氏は言う。私には幸にしてそんな個人主義的なヒロイズムの匂いのする気持は抱けないのである。私はただ無産階級解放の階級的な大事業の一兵卒として、最も有効に働けるところに場面を選んで、そこで働いて倒れればいいのである。》
《働く場面は、事実の発展と、事情とによってどう変るかも知れぬ。大切なのは場面ではない。如何にその場面で力をつくして働くかである。》
かなりすっきりとした爽快感のある論である。私はマルクス主義芸術理論に関心はないけれども、「芸術を論じて我事終れり」という考え方に疑問があった。「文学」は現象なのであって、区分けできるようなジャンルではないのである。
次回の予定
目的意識論争
青野季吉「自然成長と目的意識」他
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