サハラ、もう一つのモロッコ

長い間南地方は、単に歴史と地理の側面からだけ見られ、国境へと遠ざけられていた。砂と小石に覆われたところに住んでいる部族には、軍事的にも行政的にも急をようする問題はなかった。モロッコ北の人たちは、南の放浪のサハラウイ(サハラに住む人)を無関心と多少の侮蔑が入り交じった目で見ている。それが同化1/4世紀の、唯一の見解だ。

一方、『モロッコのサハラ』として、何10億ディルハムが道路、設備といった町の建設に費やされた。住民には1つの権利しかなかった。黙っているか、礼を言うことだ。資格がなく、することもなく、多くが生活保護を受けていて、政治の外にある。ベニ・ウイ・ウイ(はいはいと恩恵に浴する)のブロシェット(串刺し)とサハラウイのサービス精神からではなく、新しい世代は北の君臨に憤慨しているが、国の大部分を占める北の住人は、サハラウイを第2地区とみなしている。

1999年にモハメッド6世が即位したとき、信頼は薄く、サハラとは断絶していた。新しい王は微妙に“良い診断”を試みた。ラーユーヌで反乱が起きた時、実際サハラウイが主張しているのは、独立ではなく、特殊性を尊重して欲しいということだ。南地域にお金だけ費やされても、サハラがモロッコになにをもたらしたかが尊重されないのなら、何の価値もない。首都の地政学的変化、そしてついに君主政治に統一が見いだされた。そしてここから自治という選択が生まれた。それが解決の道であるはずなのに、どうして以前はできなかったのか?

答えは簡単だ。征服者と征服された者の“国民投票”、結果が分かっている歴史初の国民投票はできないとあえて王国は言わなければならなかった。その結果は、モロッコ政府も、サハラウイも、地域も無傷のままではいられないものだからだ。分割をすすめ、他の地域も自治を求めるようになるということを危惧せずに、モロッコ人に他のモロッコ人の“特殊性”をあえて示さなければならなかった。そしてすべてのモロッコ人のために、全体的枠組みの中に“南から”の未来をあえて組み入れなければならなかった。この3つの賭は、しかし成功しなかった。
                    (フランソワ・スダー)

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わたしはこの南を旅したのですが、彼らがアラビア語で話していたのか、アマジールで話していたのか、わかりません。しかし、だぼだぼの青い服にやはり青いターバンを巻いていると、かっこいいというのか、馬(ラクダ)子にも衣装でした。今年はマントがはやるそうですが、(エルで読みました)サハラウイ風にマフラーを巻くのは、どうでしょう。

ところで昨日のF2で、チュニジアのサハラをやっていました。フランスから2時間で行けるチュニジアの砂漠が今、人気だそうです。砂漠の中のテントに泊まるのですが、ダブルベットにお湯までそろっている快適なテントなんです。でも、開発が進めば、さらに温暖化が進んでしまうのでは?