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「心のアラスカ」とは、
星野道夫さんがアラスカを愛したように、
すべての人の心にある大切な風景を言います。

自然と人間の営みがあり、
悠久の時の流れがあり、
生命が育まれてきたかけがえのない風景を
大切に!大切に!


写真提供:公文俊朗さん
『受け継がれてゆくもの』


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


次世代に繋ぐ思い

養護施設「駒方寮」の子供たちに、
星野道夫さんの写真集(「Alaskan Dream1〜3」、「アークティック・オデッセイ」、
「Alaska風のような物語」、「アラスカ 極北・生命の地図」と
絵本(「クマよ」、「森へ」)を贈りました。

子供たちは『心のアラスカ』の活動や星野道夫さんの紹介を、
真剣に聞いてくれました。
この活動は『愛・地球博開催地域社会貢献活動基金』(モリコロ基金)の
助成を受けて行った活動のひとつです。

http://www.morikorokikin.jp/  

次の機会には絵本やエッセイの朗読と
スライドすることができたら嬉しいです。
無理せず、ゆっくり好きな活動をしながら、
時々、こんな日にめぐり会えたらいいなあと思います。

星野道夫さんの思いが、
子どもたちとともにありますように。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

素晴らしき地球2008
人類文明への反響からのメッセージを伝える
NPO法人EARTH WORKS SOCIETY

映像と講演でメッセージをお伝えします。

主催:NPO法人 EARTH WORKS SOCIETY
EWS名古屋講演・写真展実行委員会  心のアラスカ
名古屋大学環境学研究科地球環境システム学講座(高野研究室)

協力:星野道夫事務所  写真家大橋英児
共催:名大祭実行委員会 なごや環境大学

写真展
日時 2008年6月2日(月)〜8日(7日は休館) 
    午前10時〜午後8時(最終日午後4時終了)
場所 名古屋大学環境総合館1階ロビー 入場無料

講演会
星野直子+大谷映芳
日時 2008年6月8日(日)
        午後1時開場 1時30分開演   3時30分終了予定
場所 名古屋大学環境総合館1階レクチャーホール 
  定員 150名 入場無料(カンパをお願いします)
  マイ敷物持参でお願いします。

講演会は、下記、実行委員会まで事前申込が必要です。
定員になり次第締め切りさせて頂きます。

連絡先お問い合わせ・申込先 (実行委員会事務局 村瀬)
   申込はお名前、連絡方法をお知らせください。
   〒468-0011 名古屋市天白区平針5−902 
   携帯 090-3959-4470  FAX052-804-3828
   E-mail apple-bear@nifty.com
        


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


特別寄稿
     アラスカ旅日記2007 
        8月27日 フェアバンクスの昼下がり

昨夜はぐっすりと寝て、今朝は9時ごろゆっくりと起きた。
この日は午後の3時には
チェナ・ホットスプリングスへ向かうことになっている。
それまでの間は、“フェアバンクスのダウンタウンを歩いて
ゆっくり過ごそう”と家内の提案があった。
僕はフェアバンクスのダウンタウンはごく一部しかしらない。
家内の提案は、何か新しい発見を予感させていた。

ホテルで簡単な朝食をとった後、家内とぶらり散歩に出た。
雲ひとつない、さわやかな青空が広がっていた。
北国の夏特有の湿気の少ない、からっとした暑さが心地よかった。

チェナ川に架かる橋を渡り、
最初に向かったのは川のほとりに立つ教会だった。
この教会は特徴的なとんがり屋根を持っており、
フェアバンクスのシンボルの一つになっている。
僕はこの教会の名前は知らないが、
初めてアラスカに来たときからこの教会を見ている。
教会の玄関に立ち、ドアを押してみた。
意外にもドアが開いたので、家内とそっと中に入っていった。
中には誰もいなかった。

初めて入るフェアバンクスの教会の礼拝所の向こうには、
十字架にかけられたキリストの像が
ほのかな色の照明を浴びて浮かび上がっている。
その部屋は決して広くはなかったが、
ステンドグラスから漏れる光とあいまって、
荘厳でありながらも心休まる思いがした。
僕達は礼拝所のベンチに座り、ひとときの間を静かに過ごした。

教会を出て再び橋を渡って戻り、
ホテルのすぐ前のゴールデンハート公園へ向かった。
橋の欄干は、色とりどりの花に彩られている。
アラスカは年中冷たいところだと思っている人が
この花々を見れば信じられない思いがするだろう。
ゴールデンハート公園には、
フェアバンクスビジターセンターのログハウスがある。
そのビジターセンターに入っていった。
僕にとってビジターセンターの中に入るのは、
ユーコンクエストが行われていた98年の2月以来になる。
あのときは国際的な犬ぞりレースの喧騒に包まれていたが、
今は訪れる人も少なく、中はひっそりとしていた。
僕は壁に貼られているポスターや写真を眺め、
観光パンフレットを手にとって目を通していた。
家内は地図を見ながら、
ビジターセンターの人に昼食にお勧めのレストランをいくつか尋ねていた。

ビジターセンターを出た後、ゴールデンハート公園のベンチに座り、
青空の下でしばらくのんびりと過ごした。
ゴールデンハート公園には、
“Unkown First Family”というエスキモーの家族の銅像が建っている。
以前、「あの銅像は、”ここはどこだろう?”と呆然と立つエスキモーの家族だ」と、
当時のノーザンライトホテルで働いていた森さんから教えてもらったことがある。
この銅像を見ると、”ああ自分はフェアバンクスにいるんだな”、
という実感が湧いてくる。
冬のフェアバンクスしか見ていない僕にとって
夏のフェアバンクスは考えてみれば初めてであり、
公園の白樺の緑がとても新鮮だった。
今まで冬に来ていた時は、
エスキモーの家族の銅像のふもとにある雪に覆われたプレートを
見ることができなかったが、今回はそのプレートもゆっくりと見ることができた。
周りを見回すと、他のベンチで読書をしている人がいる。
犬の散歩をしている人が近くを通り過ぎ、
ジョギングをしている二人組が走り抜けていった。

正午近くになったので、一旦ホテルに戻ってチェックアウトした。
午後3時まで、トランクケースをホテルに預けてもらうことにした。
ホテルの玄関を出て、”連れて行きたいところがある”という家内について行き、
ダウンタウンのメインストリートを南へ歩いていった。
 「確かこの辺りだったと思うんだけど・・・」
と家内が探していたその建物は、
フェアバンクスのダウンタウンを南北に走るメインストリートと
7thアベニューの交差点付近にあった。
『アラスカ・コミュニティ博物館』という名のその小さな建物は、
犬ぞりを中心とした博物館であり、
家内が以前訪ねた時にとても気に入った場所だという。

玄関を開けて、建物の中に入った。
 「ここは確か土産物を置いていたはずだったけど・・・」
と家内が首をかしげていたその場所は、事務室のようだった。
玄関から入ってすぐのこの部屋の奥に大きな机があり、
この博物館の館長らしきおじいさんが座っていた。

 「やあ、こんにちわ。よくおいでくださった。」

と、そのおじいさんは朗らかな笑みを浮べながら
僕達に声をかけてきてくれた。

 「君達はどこからおいでになった?」
 「日本です。」
 「それは分かっている。日本のどこからだね?」
 「ナゴヤです。」

僕は”名古屋という場所は多分知らないだろうな”と思いながら、そう答えた。
ところが、

 「何、ナゴヤ!?」

と急におじいさんは真剣な顔になったので、僕達は驚いた。

 「そう、名古屋からおいでになったんだね。ふむ・・・」

としみじみと僕達の顔を見ていたので、
“名古屋をご存知なんですか?”と聞いた。

 「名古屋は良く知っているよ。
  私の娘が名古屋学院大学へ留学していたことがあってね。
名古屋から娘の友達もたくさん遊びにきたこともあった。
  いやあ、これは驚いた。」

アラスカから名古屋へ留学にくる人がいるということを知り、
僕も驚いた。
後で分かったことだけど、
アラスカ大学フェアバンクス校と名古屋学院大学は、
交換留学の協定を結んでいるようだ。

 「そうかそうか。どれ、案内してあげよう。」

と館長らしいそのおじいさんは席をゆっくりと立ち、
僕達を展示室へ案内しようとしてくれていた。
この時、家内が”ここは確かお土産売り場の部屋でしたよね?”
と、館長さんに尋ねた。
館長さんによると、
この部屋はお土産屋をやめて事務室に変えたとのことだった。

展示室に入る前に、おじいさんはふと僕達のほうを振り向き、

 「私が案内しても良いかね?
それとも君達が自由に見てもらっても構わんが、どうする?」

と聞かれ、”是非よろしくお願いします”と即答した。
ナゴヤという日本の街に
親近感を持ってくれているフェアバンクスの博物館の館長自らが
案内してくれることになった。

最初に入った展示室は、白黒の写真パネルがたくさん飾られていた。
犬ぞりとは全く関係のない、何かの災害を記録した写真のようだった。
建物が崩れ、家や道路は泥に覆われ、救出を待っている人々の写真がある。
僕はそれらの写真は、
1960年代のアンカレッジの大地震の記録写真だと思った。

 「これらはフェアバンクスが洪水で浸水したときの写真でね。」
と館長が説明してくれた。
”フェアバンクスが洪水?”、初めて聞くことだった。
僕は今までアラスカに関する本はそこそこ読んできたけれども、
フェアバンクスで洪水が起きていたことを書いた本は
一度も目にしたことがなかった。

 「フェアバンクスで、洪水が起きたのですか?」

と自分の耳を疑いながら聞いた。

 「あれは1967年のことだった。」

館長は静かにうなずいた。
そして”君達はいまこの場所にいるんだよ”
と一つの写真を指差した。
その写真には浸水した町を空撮しており、
その中の一つの建物の側には
“You Are Here(あなたはここにいます)”と文字が記入されていた。
この建物は確か3階建てだったが、
写真の中のこの建物は1階部分がまるまる濁流の下になっていて見えない。
ボートに乗って救助される人々の写真、
ひっくり返っている車や泥だらけになった道路や家々の写真・・・
フェアバンクスで洪水がおき、
浸水の被害にあったということを初めて知った。
 
館長によると、異常な大雨が突然降り、チェナ川があふれ、
洪水が起きたのは1967年の8月、
つまり今自分達がいるこの時期のちょうど40年前のことだったようだ。
”あれからちょうど40年だ。”と、
館長は当時を思い出しているかのようにしみじみと
展示室の写真を見ていた。
館長自身も、フェアバンクスの洪水の被害に遭っていたという。
アラスカではすぐに極寒の長い冬がやってくる。
それまでにはなんとかしなければならない。
アラスカ州とフェアバンクス市はの町の復興を急ピッチで進めたという。
それと平行して、
フェアバンクスでは洪水対策プロジェクト(Flood Control Project)をつくり、
チェナ川の上流にダムが造られた。
それ以来、フェアバンクスでは洪水は起きていない。

僕達にも理解できるように、
館長はゆっくりゆっくりとした英語で当時のことを話してくれた。
この館長も当時洪水対策プロジェクトに関わっており、
その後の館長自身の人生にも大きな影響を与えたようだった。
その部屋の片隅においてあるテレビには、
濁流に飲み込まれる当時のフェアバンクスの記録映像が流されていた。
僕は”名古屋でも洪水がありました”と
2000年の東海豪雨のことを館長に話した。

“ナゴヤでも。そうですか・・・”と、館長は頷いたきり、
あまり多くを語らなかった。
僕の故郷の高知も、98年には異常な大雨による洪水の被害にあっている。
高知では、救助が間に合わず
「ここでお別れぞね」と死別した老夫婦の話がある。
今、名古屋も高知もそしてフェアバンクスも現地を訪れると、
とてもそんな洪水と浸水の被害にあっていたということが嘘のように見える。
しかし、これらの記憶は決して風化させてはならない。
アラスカ・コミュニティ博物館は、大切な記録を後世に伝えている。

次の部屋に入ろうとするとき、
青い長袖のシャツの優しそうなおばあさんが僕たちの後ろから現れた。

 「こちらは、私の妻だ。」

と館長から紹介をしていただいた。
“はじめまして”と奥様に挨拶をする。
館長は奥様の方を振り向き、
 「今ね、彼らに案内をしてあげているところなんだ。
彼らは名古屋から来たからね。」

と僕達のことを話していただいた。

 「あらそう、名古屋から!
うちの娘が名古屋の大学に留学してたことがありましてね。
  ゆっくりとご覧になってくださいね。」

と、奥様から声をかけてくれた。

次の部屋では
100年前からの現代に至る人々の暮らしの品々が展示されていた。
木とロープでできたかんじき(昔のスノーシュー)、
今はもう動かない40〜50年ほど前のスノーモービル、
アサバスカンインディアンの村で使われていたというユーコンスタイルの犬ぞり、
もうどれほど昔のものものか分からない木のスキー板・・・
かつて、広大なアラスカのどこかの雪原を
闊歩していただろうそれらの品々が、
ガラス窓の狭いケースに閉じ込められているのではなく、
床の上にのびのびと、そして大切に保管されていた。
年季が入っている木製のスキー板にそっと手を触れてみた。
100年前か50年前かは定かではないが、
ある人がこのスキー板に足を乗せて雪の原野を歩いている姿を想像した。
このスキー板にはどのような物語があったのだろう、
どのような経緯でこの博物館にやってきたのだろう、
と今は静かに壁に立てかけられているスキー板を撫でていた。

この部屋の壁には、オーロラの写真やアイスホッケー、
冬のフェスティバルを楽しむフェアバンクスの人々などの
カラー写真もたくさん展示されていた。
館長によるとアラスカ大学のアイスホッケーチームは、
アメリカでも有数の強豪らしい。
その名も”ナヌークス”というそうだ。
また冬のフェスティバルの写真はユニークだった。
お尻を丸出しにして雪上の競技をしている、
ハメを外した女の子チームの写真があった。
長い長いフェアバンクスの冬を楽しんでいる人々の様子が伝わってくる。

そんな写真を見ていると、大きな一枚のパネル写真が、
僕達の目の前で突然、ゴトンッと落下した。
“あっ!”と反射的に手を出すと、”いいんだ、いいんだ。”
と館長さんがそのままにするように言った。
奥様とスタッフの男性がやってきて、”この写真はよく落ちるねえ”と、
そのパネル写真を飾り直していた。
この小さな博物館の手作りの温もりが改めて伝わってくる。

次の部屋はゴールドラッシュに関するものであった。
金鉱の町ドーソンを目指して、
人々が蟻のように一団の列となって雪山の峠を越えていく、
有名なチルクート峠越えの写真があった。
また20世紀初期からブッシュパイロットとして
アラスカの空を開拓したノエル・ウィーン(Noel Wien)と、
彼が設立したウィーン航空の展示物もあった。
ノエル・ウィーンとウィーン航空のことは、
アラスカの開拓期のことを記した本などで見かけることがある。
ベテルスなどブルックス山脈の麓にある村の発展にも、
ウィーン航空が関わっているということを記した文章を
どこかで読んだ記憶がある。
ウィーン航空は今のアラスカ航空の前身であるかを、
ふと館長に質問をした。
アラスカ航空とウィーン航空は全くの無関係で、
ウィーン航空は他の航空会社と合併と繰返した後、
倒産してしまったそうだ。
目の前に展示されている、
ウィーン航空で使用されていたであろうチケットやマッチ箱、
パンフレットなどのグッズ物が、とても貴重に思えてきた。

北極星と北斗七星をあしらった、
アラスカ州の州旗の初期デザイン画も展示されていた。
デザイン画の州旗は星の一つ一つが大きく描かれており、
ベースは同じだけれども現在の州旗とはずいぶん異なる印象を受ける。
これらの展示物を見ていると、
アラスカの歴史をとても間近に感じられていた。

そしてフェアバンクスという町をつくったというに等しい、
かのフェリックス・ペドロの肖像写真があった。
フェリックス・ペドロが金を発見したところが今のフェアバンクスになった、
ということを僕は知っていたので、
思わず”おっ、これは!”という反応をしてしまった。
そんな僕を、館長は“彼を知っているのかね?”
と微笑みながら聞いてきた。
“この人はイタリア人でフェアバンクスの生みの親ですよね?”
と確かめると、”その通り!”と館長はうなずいていた。
家内は、この人物を知らない。
館長は、フェリックス・ペドロについて家内に説明をしてくれた。
その写真の撮影日は1902年7月22日とある。
日本でいえば明治30年代半ばだ。
日本では日露戦争が行われようしている緊迫した時代に、
アラスカでは一人の金鉱師によって
フェアバンクスという町が生まれようとしていた。
そう言えばヒゲをたくわえたフェリックス・ベドロの
左斜め45度向きの顔は、
日露戦争の日本海海戦の秋山真之参謀に似てなくもないな、と思う。

また僕達が午前中にチェナ側に架かる橋を渡って教会を訪ねたが、
ちょうどその橋の100年前の写真もあった。
写真に見る、幅の小さな木造の橋。
その小さな橋の100年後の今は・・・ということに思いをめぐらしていると、
不思議な気分になる。
そんな貴重な写真の数々を見ていると、
タイムスリップした気分になり
映画の『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』を連想する。

次の展示室に向かう途中では、
金鉱師の布張りのテントの内部が再現されていた。
大きな山猫(リンクス)の毛皮、
ビーバーの毛皮がそのテントの内部にかけられている。
質素なベッド、鍋やフライパンも
ゴールドラッシュの時代に実際に使われていたものだという。

最後の部屋は、メインとなる犬ぞりの展示室だった。
この展示室の入り口には、
『DOG MUSHING MUSEUM』と手書きの看板が掲げられていた。
また入り口付近には、
『ATTLA』というアラスカの犬ぞりをテーマにした映画のポスターと、
ロケ中の風景を写したいくつかの写真も貼られていた。
もうどれほど昔の映画か分からない。
ポスターの主演俳優の顔は、
サングラスをかけた時のイチロー選手に似ている印象があった。

犬ぞりの展示室では、
ソリの雪のすべりを良くする為の技術が
改良されている様子が紹介されていた。
初期の頃の木造でできたソリの部分が、
雪と接する面となめらかにする画期的な素材に変わっていた。
「触ってごらん」と、館長は家内に実際に触って違いを
確かめるように説明をしてくれていた。

実際にユーコンクエストのレースで使われていたソリも展示されていた。
そして1920年代から1940年代の
犬ぞりレースチャンピオンを紹介していた。
館長さんは、この紹介されている一人一人をよく知っているようだった。

「彼は私の友人でね、彼もそうだった。彼も・・・。
 この彼とは若い頃よく言い合いもしたな。
今はみんなもういなくなったけどね。」

と感慨深げに、そしてときおり寂しげに語っていた。

館長の話を聞いていると、この人々のエピソードをもっと知りたい、
できることならもっともっと話を聞いておきたい、と思った。
この館長さんが語ることを書き留めておく必要があるように思う。
開拓期のアラスカを生きた人から伝わる話は、
後世へ残しておかねばならないと思う。
もし僕がフェアバンクスに住んでいたなら、
この館長さんの元を何度も訪ねてお話を伺うだろう。
どなたかまだ語られていないフェアバンクスやアラスカの歴史を
訪ね歩いている方はいないだろうか。
もしそんな方がいれば、
是非僕達にもお話を紹介していただければと思う。

部屋はやがて一巡りして、最初の洪水を紹介する展示室に戻った。
そこには、洪水がおきた1967年当時の新聞が
そのままテーブルの上におかれていた。
どの面も洪水に見舞われたフェアバンクスの写真を載せている。
館長はその新聞の一枚一枚を広げて眺めていた。

 「私は最初、機関車のエンジニアでした。」

と館長は言う。

 「しかしこの洪水があってから私は
独学で勉強して、判事になりました。」

この人も、アラスカの歴史に深く関わっている方なのだ。
できることなら、
もっとこの人からいろんなお話を聞きたいと改めて思った。
記念にとサインをしていただき、
この館長さんのお名前が
ヒュー・コネリー(Hugh Connelly)さんだということを知った。

玄関口にもどると、奥さんと赤ちゃんをつれた若いお母さんがいた。
 「こちらは孫だ。そしてこちらがひ孫だ。」
と、館長さんはそのお母さんと赤ちゃんを嬉しそうに紹介してくれた。
館長さんはひ孫さんを抱き、何かを話していた。
その目はどこまでも優しい。
赤ちゃんは、何かを吸収しようとしているかのように、
大きな目でひいおじいさんをじっと見つめていた。
世代を越えて受け継がれていくものがあるように感じた。

奥様から、名古屋で「ピザ屋さんと酒屋をやっているお店」を
知らないかを尋ねられた。
名古屋に留学していたという娘さんの友人の家で
有名なお店だそうだけど、残念ながら僕達は知らなかった。
その奥様から、
 「もしお昼ご飯を食べるなら、
2ndアベニュー の『ソーピー・スミス』へ行くといいわよ。
そこにも古い写真がたくさんあるから。」
と昼食のレストランを紹介していただいた。
僕が食い入るように古い時代の写真を見ていたのを、
奥様は見ていたようだ。

高齢である館長と奥様にお体を大切にしてくださいと述べ、
ハグをしながら何度もお礼を述べた。
お孫さんである若いお母さん、
そしてひ孫の赤ちゃんにお別れを告げて博物館を後にした。
赤ちゃんは僕の人差し指を小さな手でぎゅっと握りながら、
大きな目で僕を見つめていた。

フェアバンクスのダウンタウンを北へ向いて歩き、
2ndアベニューへ入った。
2ndアベニューに並ぶ店の数々の雰囲気は、
どこか西部劇の町を思わせる。
『Soapy Smith's』とかかれた19世紀風の看板を見つけた。
家内とそのレストランの中に入った。
木目調の壁には、博物館の奥様がおっしゃっていたように
たくさんの写真が飾られている。
犬ぞりや、ムースの角でできた椅子、温かみのあるテーブル・・・
ここも開拓期のアラスカの雰囲気が漂っている。

どこに座ろうか、とお店の様子を伺っているそんな僕達に、
 「ようこそ!」
と低音の迫力ある声で、
アラスカには場違いなアロハシャツをきた大柄な男性が
横から声をかけてきた。
僕達が“こんにちは”という間もなく、
 「私の父です。」
と、この男性はお店の入り口にあった、一つの雑誌を指していた。

なんと、その雑誌はTIME誌であった。
そのTIME誌の表紙の男性が、
 「あなたのお父さんですか?」
と僕は聞くと、
 「そう、パイオニアです。」
と誇らしげに答えていた。
この男性は、この店のオーナーさんだった。
僕と家内はただただ”へぇ〜”とそのTIME誌を眺めていた。
 「お好きな席にどうぞ。どこでも構わないよ」
とオーナーさんは言い、どこかへ行った。

席に座り、昼食のオーダーをしたあと
壁に飾られているアラスカの古い、貴重な写真の数々を見ていた。
博物館の奥様に、いいお店を紹介していただいたことを有り難く思っていた。
オーナーさんは、他のお客さんにお父さんについて話をしているようだ。
また他のお客さんとは一緒に記念撮影に収まっている。
その様子は、この半年ほど前に映画館で見た
『ロッキー・ザ・ファイナル』の一場面のようだった。
レストランで自分の過去の戦歴を語っている主人公(シルベスター・スタローン)と、
このオーナーさんが僕には重なって見えた。

オーナーさんのお父さんだというTIME誌の表紙の人物の
新聞記事が壁に飾られていた。
マイク・ステポビッチ(Mike Stepovich)という名前だった。
眉から目のあたりにかけての太いラインが、
強い意志を持ち合わせている人物であることを物語っているかのようだった。
その記事には“Alaska's Governor(アラスカの知事)”とある。
ただし、”of Territory.”と続いている。
アラスカ州ではなく、まだ州になるまえのアラスカ準州の頃の知事で、
さらに”共和党上院議員”とあった。
“パイオニア、ブカ・ステポビッチ、97才で世を去る”という、
奥さん(つまりオーナーさんのお母さん)の訃報を
伝える一面のフェアバンクス・デイリー紙の新聞記事も
額縁に大切に保管されて飾られていた。
アラスカ開拓期を生きた一人の政治家、
そして今もアラスカの人々から愛されている人物を
初めて知ることができた。
マイク・ステポビッチという人がどのような人物であったか、
自分なりにゆっくりと調べようと思う。
昼食後、僕達もオーナーさんと記念撮影を納めたかったが、
オーナーさんは忙しく捉まえることができなかった。

アラスカはまだまだ奥が深い。
まだまだ、僕達が知らない身近な歴史が埋もれている。
それらを少しずつ掘り起こしてゆくことができればと思う。
きっとフランク安田やジェームズミナノ以外の
日本との古くからのつながりもあるだろう。

その後僕達は
アラスカ・パブリックランド・インフォメーションセンターに立ち寄った。
アラスカ・パブリックランド・インフォメーションセンターも規模は小さいが、
アラスカの気候や自然、動物、人々の暮らしを
テーマに分かりやすく展示がされていた。
やがてホテルに戻り預けていた荷物を受け取った。
そして3時ごろ、やってきた送迎車に乗り
チェナホットスプリングスに向かった。

                           つづく


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八ヶ岳環境文化速報(メルマガ)

山梨県立八ヶ岳自然ふれあいセンター発行のメールマガジンです。
素敵な情報が満載です!
http://www.keep.or.jp/FORESTERS/fax_soku.htm  


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


星野道夫トーテムポールプロジェクト

2008年8月8日にアラスカ・シトカに、
星野道夫さんがアラスカとの架け橋であったことの証として、
トーテムポールを建立するプロジェクトのホームページです。

http://www.switch-pub.co.jp/totempole/ttpp/00/index.html  


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(以上、文責:村瀬俊幸)


K編集長のひとこと

我が家のすぐ近くに川があり、
近所の子供たちと捕まえてきたザリガニの子供を、
我が家で飼うことになった。

私が子供のころは、夏休みになると毎日のように川へ行き、
手づかみで魚やザリガニを獲ったりして遊んでいたが、
温暖化の影響か、川底が舗装されしまったせいか、
ここ数年、夏には水がかれてしまっている。

水がかれる前には、ヘドロだらけの池のような状態になるため、
子供たちをその川で遊ばせる気にはならなかったが、
最近はいろいろな体験をしたほうがいいと思い、
川に入りたがる時は、遊ばせているが、
我が家に遊びに来る、1年生の子供も数人ついていくため、
家内は心配で一緒に行かないといけなく、少しお疲れぎみのようだ。



☆発行☆
『心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜』メルマガ編集チーム


心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000181670.html

「心のアラスカ」とは、
星野道夫さんがアラスカを愛したように、
すべての人の心にある大切な風景を言います。

自然と人間の営みがあり、
悠久の時の流れがあり、
生命が育まれてきたかけがえのない風景を
大切に!大切に!



写真提供:公文俊朗さん
『北極圏越えセレモニー』



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☆文学プラザ企画展『文章家 星野道夫』☆
言葉でつづる星野道夫の心温まるメッセージ

会期 平成20年1月26日(土)〜5月25日(日) 10:00〜17:00
会場 市川市文学プラザ(市川市鬼高1-1-4 生涯学習センター3階)
入場無料


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素晴らしき地球2008
人類文明への反響からのメッセージを伝える
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主催:NPO法人 EARTH WORKS SOCIETY
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名古屋大学環境学研究科地球環境システム学講座(高野研究室)

協力:星野道夫事務所  写真家大橋英児
共催:名大祭実行委員会 なごや環境大学

写真展
日時 2008年6月2
日(月)〜8日(7日は休館) 
    午前10時〜午後8時(最終日午後4時終了)
場所 名古屋大学環境総合館1階ロビー 入場無料

講演会
星野直子+大谷映芳
日時 2008年6月8日(日)
        午後1時開場 1時30分開演   3時30分終了予定
場所 名古屋大学環境総合館1階レクチャーホール 
  定員 150名 入場無料(カンパをお願いします)
  マイ敷物持参でお願いします。

講演会は、下記、実行委員会まで事前申込が必要です。
定員になり次第締め切りさせて頂きます。

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         実行委員会メンバー募集中


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特別寄稿
   アラスカ旅日記2007 
            8月26日 北極圏ダルトンハイウェイツアー

朝は4時半に起きる。
今日は、楽しみにしていた北極圏ダルトンハイウェイツアーの日だ。
6時半にフェアバンクスを出発して、現地ツアー会社のクルマに乗り、
北極圏境までダルトンハイウェイを延々ドライブする。

ただそれだけの内容だが、フェアバンクスよりも北のアラスカの風景を、
帰りの夜11時頃まで往復16〜17時間もの間を見て過ごすというのは、
僕と家内にとっては大きな魅力だった。
僕はこれまでにもブルックス山脈の麓にあるベテルスまで何度か出かけており、
北極圏を越えている経験はある。
でも飛行機で北極圏を越えて行くのと、
時間をかけて地上を進みながら北極圏を越えるのとは、
やはり違うものがあるのではないかと思っていた。

昨日フェアバンクスへ来るときのアラスカ鉄道で買ったマフィンが、
今朝の朝食だった。
6時にホテルのシャトルバスに乗り、
フェアバンクス空港の敷地内にある現地集合場所の
ノーザンアラスカツアー社に向かった。

現地に着くと、同じツアーに参加する他のお客さんも見えていた。
ほとんどはアメリカ本土で定年を迎えて第2の人生を楽しんでいる、
といった感じのお父さんお母さん世代の方だった。
ノーザンアラスカツアー社(Northern Alaska Tour Company)の建物は、
こぢんまりとしたアラスカらしい木造仕立ての建物だった。
看板がなければ民家と間違えてしまうかもしれない。

外に出ると、凛とした冷たい空気が心地良い。
フェアバンクス空港の管制塔が朝日に輝いていた。

建物の中に入ると、サファリ服を着た女性スタッフが
大きなアラスカ州の地図の前に立ち、今回のツアーの説明を始めた。
説明の後に”まだ昼食と夕食の予約をしていない方は予約をしてください”、
とのことで急いで受付カウンターに行き、昼食と夕食の予約をした。

6時30分、ツアーのバスに乗り出発した。
バスはボンネットが突き出た中型のバスで、
外観からして頑丈そうな頼りがいのある形をしていた。
バスに乗る前、このバスのメーカーはどこだろう、
とメーカー名を探したけど分からなかった。
ただ、長距離ツアーのため
ノーザンアラスカツアー社専用の特別仕様車であることを表すプレートが
後部に張られていた。

バスは出発すると、運転手はデナリの運転ガイドと同じように、
このツアーの概要や北極圏の解説などの話をすすめながら運転をしている。
トイレはこのバスの後部にもあるとのことで、僕も家内も安心した。
運転手は、一方的に説明をするのではなく、
 「北極圏の定義は何でしょう?」
 「いままで北極圏を越えたことのある人は手を挙げてくれますか?」
と、ツアー客と対話をしながら運転をしていた。
この運転手さんもサファリ風の制服を着ており、なかなか恰幅のいい人だった。
僕と家内は、運転手さんの話を聞きながら、
窓から見える外の風景を眺めていた。

フェアバンクスの町を抜けると、広大な針葉樹林の森が広がっていた。
出発して30分過ぎたくらいだろうか、
運転手さんは工事現場らしい山の一部を削っているところにバスを停めた。
トレーラーやクレーンなど重機がおいてある。
ここは今でも金を掘っているところだそうだ。
ここではバスから降りることもなく、すぐに出発した。

森の中にポツンポツンと見え隠れするログハウスに、自然と目が向いてしまう。
時々、霧の塊が生き物のように地上を漂っていた。
濃い霧の中に突入すると、朝日を背景にした森の風景がとても幻想的だった。

バスはダルトンハイウェイを北に向けて走り続けた。
道路のカーブを曲がるときに見るダルトンハイウェイの景色、
どこかに似ているな・・・
ときどきそんなことを思っていた。
 「なあ、この風景って八ヶ岳に似ているよな。」
と家内に声をかけると、家内も
 「やっぱり?私もそう思っていた。」
と、同じことを考えていたという。

八ヶ岳のカラマツも針葉樹の一種だ。
直線状に続くダルトンハイウェイの広大な景色の中を走っているときではなく、
カーブを曲がって近くに山が迫ってきているときの景色は、
小渕沢から清里に行く八ヶ岳高原ラインの
カーブを曲がるときの風景に良く似ている。
オーロラは見えないけれど、アラスカが恋しくなったら八ヶ岳周辺に行こう、
という僕の持論に一つ確かな裏づけが増えたような気がした。

 「もうすぐパイプラインが見えてきます。」

と運転手さんが言うのと同時に、左側方向にパイプラインが見えてきた。
森の中を一筋の線となって、道路と平行して走っている。
この先、ずっとパイプラインを眺めてゆく。

パイプラインが見えてきたのを機に、
運転手さんはパイプラインについてのビデオをバスの中で流した。
それは建設当時のアラスカのパイプラインに多くの人が仕事を求めて押し寄せ、
着工から完成にいたるまでの記録映像だった。
人々が仕事を求めてやってくる様子は、
さながら20世紀のゴールドラッシュという言葉があてはまるように感じた。
映像は古く、その中に見る人々はまるでビートルズの歌が聞こえてきそうな、
明らかに70年代だと分かる姿だった。
今となってはノスタルジーを感じる。
パイプラインの側をカリブーの群れが過ぎて行く映像が印象的だった。

バスは最初の休憩地点に立ち寄った。
 『Welcome to JOY, ALASKA』
という看板があった。
フェアバンクスからどのくらい離れている場所なのか、もう分からない。

ここでは、開拓時代の雰囲気が漂うログハウスの建物があった。
たくさんのクルマのホイールを壁に飾っている小屋もあり、
それがいかにも古き良きアメリカを感じさせる。
ログハウスの正面玄関には大きなムースの角を飾ってある。
その下には”WILDWOOD GENERAL STORE”と
大きく書かれた彫り物の看板があった。

中に入ると、天井から吊り下がったランプが
ログハウスの独特の温かみのある光をはなっている。
テーブルの上にはTシャツや絵葉書、
大きなマツボックリなどの土産物が無造作におかれていた。
クマやカリブー、ビーバーなどの動物の毛皮もある。
案内看板に『Arctic Circle Trading Post』とあるように、
ここは土産屋であると同時に毛皮などの交易所でもあるようだ。
この建物の中では、時間がゆっくりと流れているのを感じていた。
建物の中には、僕達が今参加しているツアー客以外の人も何人かいて、
その中に赤いジャケットを着た日本人男性の方もいて、
その方と一瞬目が合った。

 「あそこのコーヒー飲む?」

と言う家内に、
スターバックスの印のあるコーヒーを買ってくれるようにお願いした。
ありがたいことに、コーヒーは1ドルでお代わり自由だった。
おもしろいことに、そのコーヒーはよく見るとスターバックスではなく
”STARWORK COFEE”と書かれており、
一見するとスターバックスのロゴと間違えてしまうデザインだった。

玄関の周りには、ここを訪ねた人のものであろうたくさんの名刺が貼られていた。
その中にはCNN、ABCと書かれているものもいくつかある。
保安官(Sheriff)、Police(警察)と記されているワッペンも
たくさん柱に貼られていた。
玄関の側には記帳があり、僕と家内もここを訪れた記念に名前を書いた。
僕達が書いた欄の上には“愛知県安城市”と
今日の日付で名前が書かれていた。
きっと先ほど赤いジャケットを着た方だろう、
ちょっと声をかけてみよう、と先ほど見かけた方を探したけれど、
もうその姿は見えなかった。

外に出て、トイレに入った。
トイレはもちろん水洗ではなく、
開拓期のアラスカらしい雰囲気が漂うトイレだった。
もちろん蝿も飛んでいる。
家内にはそれが少し驚きだったようだ。

休憩時間が終わり、再び北極圏に向けてバスが出発した。
パイプラインを横に眺めながらバスは走る。
 「どうしたの、浮かない顔をして。」
と家内が聞いてきた。
考え事をしていたことが顔に出ていたようだ。
 「いやね、荷物は見つかるかな、と思ってね。」
僕は昨日のアラスカ鉄道で行方不明になった荷物のことが気になっていた。
 「そんなことは全てキレイに忘れなさい。今はこの北極圏を楽しまないと!」
今心配したところで荷物が見つかるというものではないでしょ、と家内は言う。
確かにその通りだ。
僕は家内の言葉に安心感を感じた。

周りには、いつの間にか森が焼けた跡が広がっていた。
確か2002年か2003年に
アラスカで大規模な山火事が起きたと聞いたことがある。
その焼け跡だろう、道路のすぐ側まで焼け跡が残っている。
行けども行けども焼け跡が延々と続いている。
山火事当時、このあたりを通行するのは
かなり危険だったのではないだろうか。

しかし、焼け跡にはファイヤーウィードがすぐに咲くという。
山火事の跡にすぐ咲くことが、ファイヤーウィードの名前の由来だ。
出発地のノーザンアラスカツアー社で、
焼け跡に一面に咲いているファイヤーウィードの写真を見ていた。
今はもうピークを過ぎてしまったが、
この辺もファイヤーウィードが一斉に咲きほこる時期はとても見事なものだろう。
ファイヤーウィードが咲くこの焼け跡から、やがて新たな木々が育ってくる。
長い年数がかかるけれども、原野の火事は、
実は植物の生態系にとって重要な新陳代謝の役割も果たしている、
ということを、本で読んだことがあった。
ちょうどバスの運転手も、
自然に発生する山火事の役割についてそのようなことを説明していた。

しばらく走り続けた後、
バスはハイウェイをはずれパイプラインのすぐ側の空き地に停まった。
ここも焼け跡が続いている。
この空き地で、パイプラインについて運転手から説明が行われた。
恰幅のいい運転手は少し盛り上がった小山にのぼり、
ツアー客を前に的確な説明を行った。
その様子は、まるで地理の講義をしているかのようだった。
運転手から“パイプラインそのものは日本の会社で作られた”と
説明があったとき、他の客の何人かが僕達を見た。
このツアーの中に日本人は僕と家内しかいなかった。
その視線に、反射的につい“どうも”という仕草をしてしまう。

 「何か質問は?」

という運転手に、ツアー客から質問が活発に飛んでいる。
運転手はそれら質問の一つ一つに丁寧に答えていた。

 「パイプラインに山火事のダメージはありませんでしたか?」

と、僕も素朴に思っていた質問をした。
パイプラインには石油が流れている。
そのパイプラインに火がせまったら
大変どころの騒ぎではすまないという想像は誰でもするだろう。

 「良い質問だ。」

と国際学会の発表の場で研究者がよくいう返事が返ってきた。
それによると、結論としてところどころに焦げ跡がついたものの、
火事でパイプラインが爆発したというような大きな被害はなかったそうだ。
焼けている木が倒れてパイプラインに寄りかかっても、
火はそのときは既に消えかかっており、
またパイプライン自体も二重構造にして
耐熱性を持つように設計されているとのことだった。

運転手のパイプライン講義と質疑応答(?)が終わり、
僕達はそこで記念撮影をした。
小山の上で楽しげにポーズをとるオジさんと並んでポーズをした。

バスに乗ろうとするとき、
 「***は、どちらに行けば良いですか?」
と、背筋をピンと伸ばした、
サングラスをかけた背の高い初老の紳士が声をかけてきた。
もしかして、日本語?と振り向き、その老紳士と目があうと、
 「***ハ、ドチラニイケバヨイデスカ?」
ともう一度聞いてきた。
 「おお、日本語を話しているぞ。」
と小山で一緒にポーズをとったオジさんは
その男性を驚いたように見ていた。

 「日本語を話せますか?」
とその初老の男性に聞いた。
 「いや、話せない。ただ言っただけだ。」
なんだ、聞いてきたのではなかったのか。
聞いたことのない場所をどこですか、
と聞かれてもどう答えて良いか分からず僕は戸惑っていたので、
ほっとしたのも確かだった。

 「今、なんておっしゃっていたのですか?」
と男性が口にしていたことをもう一度尋ねた。
 「私はこう言ったんだよ。”***ハ、ドチラニイケバヨイデスカ?”」
 「***って何です?」
(<--ここは聞き取れなかったため、***と表現)
 「さあ、私も分からない。オキナワのどこかだと思うよ。」
と、男性はニヤリと笑った。
ハハハ、そういうことか。

 「沖縄?」
と聞く家内に、
 「そう、1967年から1974年まで私は沖縄にいました。」
と詳しい答えがあった。
何年から何年まで、という男性の答えに誇らしさがあることを感じていた。

60年代から70年代の沖縄・・・
 「もしかして、ベトナムに行かれましたか?」
と僕は男性に質問をした。
 「Yes  私は海兵隊にいて1967年から1974年まで沖縄にいました。」

この人はベトナム戦争に行っていたんだ・・・
ベトナム戦争というと、僕にはどうしてもランボー(第1作)や
プラトーンといった映画のイメージが伴う。
大佐然とした感じで背筋を伸ばし、
マッカーサーのような大きなサングラスをかけているこの男性も
昔は心に深い傷を負っていたのかもしれない。
それ以上言葉を交わすことはできず、
ただだまってベトナム戦争の退役軍人であるその男性と握手をした。

バスに乗ると、さきほど小山の上で
楽しそうにポーズをとっていたオジさんが声をかけてきた。
 「俺はダグだ、こっちは妻のジュディ、よろしくな。日本はどこから来た?」
 「名古屋です。」
 「ナゴヤ?知らないなあ・・・」
 「東京と大阪の真ん中です。」
と、改めて「クモンといいます、はじめまして」
とご挨拶の握手をした。
ダグさんご夫妻にとってアラスカは初めてで、
夏のアラスカにずっと憧れていたという。
僕達のことも初めてのアラスカだと思っていたらしく、
家内は2回目、僕は5,6回目のアラスカになることを伝えると
“ほっほう”と驚いた顔をしていた。

 「ダグさんはどちらから来ましたか?」
というつもりで、”Where did you come from?”と聞いた。
すると、突然ダグさんはしんみりとした顔になり、
 「さあ、実をいうと俺自身よく分からないんだ。
母がいうには俺はXXXで生まれたと言うんだけど・・・」
と、寂しげな顔を時々奥様に向けながら話していた。
そんなダグさんを、奥様は見守っているかのように静かな笑顔を向けていた。
(XXXというのは具体的なダグさんが言った具体的な地名で、
覚えられなかったためこの表記にしている。)

突然、身の上話を語り始めたので、
“何かまずいことでも聞いたのだろうか”と僕は少し気にしていた。
 「どちらに住んでいますか?」
”So, whrere do you live now?”と改めて聞いたところ、
カンザスシティから15マイルほど離れたセント・ジョセフという街だと話してくれた。
セント・ジョセフは行った事がないけれど聞いたことがあります、というと
 「そうか、いい所だぞ。いつかあそびに来い。」
と嬉しそうに話していた。

”Where did you come from?”という表現は、
相手の出生を尋ねる表現なのだろうか?
『宇宙誌』(松井孝典著、徳間書店)という本に見るフレーズ、
「我々はどこから来て、どこへ向かうのか」 の“どこから来た”かのように
深い意味を問うニュアンスを含むのかもしれない。
この場合、単純に”Where are you from ?”と聞けば良かったのかもしれない。

再びバスは出発した。
焼け跡の中に、パイプラインは延々と続いてゆく。
ダルトンハイウェイの道路は舗装がされていない箇所も多く、
反対方向から走ってくる大きなコンボイトラックや
乗用車とすれ違うときはもうもうとした土煙が立ち込める。
これまで、アンカレッジから北端のバローまで、
このダルトンハイウェイを徒歩や自転車で縦断した人は
何人もいると聞いている。
行けども行けども単調な風景が続き、
トラックが通りすぎてひとたび土ぼこりが舞い上がれば
目も開けていられなくなる。
呼吸だってしづらいだろう。
徒歩や自転車で行くとなれば、実際はどれほど大変なことか。
僕はそんなことを考えながら、マッキンリー山を下山した後、
このダルトンハイウェイを北端のバローまで
リアカーを引いて行った、ジャパニーズカリブーと呼ばれた登山家が
独り黙々と歩いてゆく姿を時々想像していた。

バスはユーコン川にかかる大きな橋に差し掛かった。
この橋では道路工事をしていたため、バスは一時停止をした。
信号が青になり、バスはゆっくりとユーコン川に架かる橋を越えた。
橋の上から眺めるユーコン川は、さすがに広い。
橋を渡り終えたところにある、ユーコンリバーキャンプで昼食の休憩があった。

予約していた昼食受け取るため、他の乗客とともに列にならんだ。
大きなハンバーガーの入ったお弁当袋がつぎつぎと渡されていく。
僕達の番になった。
でも予約の手違いで僕達の分の用意がされてなく、
急いでお弁当を作ってもらった。

その間、家内はギフトショップに行き、僕はトイレに入った。
男性用トイレは大柄なトラック運転手に合わせているのか、
受け部が腰に近い高さにつけられていた。
後から入ってきた、地元ネイティブの方がつま先を上げ、
「もう少し低くしてほしいねえ」
と僕に顔を向けて苦笑いをしながら用を足していた。
確かに使いにくいトイレだった。

家内がいるギフトショップの入り口には、
『ご一行様。ようこそYukon River Campへ! 
ホスト トビー&マギー ウィリアム』と日本語で看板が飾られていた。
家内はそこで北極圏をかたどったお気に入りのTシャツを買い、
さっそく着替えていた。

僕達の昼食がやっとできあがり、
昼食を済ますともう休憩時間が残されていなかった。
近くのユーコン川まで行きたかったのだが、
 「すぐに出発します。」
と運転手に呼ばれて、急いでバスに乗った。

バスに乗ると、僕達が座っていた席に他の人が座っていた。
 「すみません、そこ僕たちの席ですけど・・・」
 「席替えですって。理由は分からないけど。」
 「席、変わったの?」
とその若い女性客と話をしていると、運転手さんが
 「気分転換にシャッフルチェンジしました。君達の席はあそこですよ。」
と笑いながら、僕達の次の席を指し示していた。
新しい席に座って思った。
席替えは気分転換には確かにいいかもしれない、
いいアイデアだな、と。
ユーコンリバーキャンプを後にすると、
針葉樹の木々がいつの間にか見えなくなり、
岩肌や草が広がる荒涼としたツンドラの風景に変わっていた。
北極域のエコトーン(生態系上の境界)を越えたようだ。
前方に、指の爪先を形どったような特徴的なモニュメントが見えていた。
運転手の説明によるとそのモニュメントは、
天然の岩で文字通り”フィンガーマウンテン”という名前だそうだ。
このフィンガーマウンテンの近くの広場で、次の休憩があった。

バスから降りると、荒涼とした岩肌が360度に渡って広がり、
ツンドラの大地を吹きわたってくる風がとても心地よかった。
フィンガーマウンテンを説明している看板があった。
それには、このフィンガーマウンテンを目印として、
カリブーを狩る先史時代の人々のイラストが書かれていた。
その説明文には、”マンモスとバイソンが闊歩する時代から・・・”
という文章が見られていた。
”近年ではブッシュパイロットの目印となり、
ダルトンハイウェイを旅する人々の野生動物の観察の場になっている”
と続いている。
この岩は、何万年もの前からこの地に立っているのだろう。
もし岩の記憶が読み取れるなら、
この岩はどのような光景を眺めてきたのか是非見てみたいと思う。

側にいた家内がいつの間にかいなくなっていた。
あれ、どこに行ったんだ?と辺りを見回すと、
家内はフィンガーマウンテンの反対側の岩場に向かって
駆け足で向かっていた。
 ”おーい!”
と呼んでも振り向きもしない。
何をするつもりだろう、と見ていたら、
嬉々としてその岩場を登りはじめ、頂上に立った。
僕も後でその岩場の麓に行くと、家内は岩場の上からピースをして、
 「写真撮って〜!」
とニコニコして言う。
僕が呼んでも振り向きもせず岩場に向かっていた様子は、
キャッキャという声が聞こえてきそうだった。
僕は、
 「お前はサルか。」
とそんな家内につっこみを入れた。

”楽しかった〜”と、岩場から降りてきた家内は上機嫌でいた。
スカイダイビング、スキューバダイビングとともに
ロッククライミングの経験も多少持つ彼女は、
この岩場を見て野生の本能が働いたらしい。
家内に、
 「ウキキキと言いながら走って、
キャキャキャと言いながら岩に登っているようやったわ」
と言っていると、
パイプラインで一緒にポーズをとったダグさんも
同じように岩場の頂上に立ち、
カメラを構える奥様に向かってピースをしていた。

岩場の反対側に出ると、
フィンガーマウンテン周辺で見られる動物と植物の関係を
イラストで説明している3つの看板があった。
一つは、この辺りがカヌチ(Kanuti)川の源流であり、
やがてコユクック川に流れることを述べている。
吹き抜けてくる風が、相変わらず心地よい。
広大な景色ばかりに目が行きがちだが、足元を見下ろすと、
岩肌に貼り付くように生えているコケ、
ふわふわとしたコケに覆われたツンドラの大地、
可憐なばかりの小さい花々がひっそりと咲いていた。

フィンガーマウンテンの休憩が終わり、バスは出発した。
荒涼とした風景の中に続くダルトンハイウェイの一本道の道路を、
三脚を担いだ写真家らしき人が一人歩いているのが見えた。
“この先ずっと歩いていくのだろうか”、
と僕は気になったその人をバスは追い越していった。

フェアバンクスを出て8時間後、北極圏との境に到着した。
それは意外というか、あっけないものだった。
荒涼とした風景の中のダルトンハイウェイを北上しつづけ、
「さあ、北極圏にようこそ!」と運転手さんの合図があったかと思えば
バスは突然右折をし、広場に入った。
そこが北緯66度38分の北極圏境を示す、
有名なモニュメントがある広場だった。

北極点を中心に上から見た地球を埋め込んだモニュメントは、
以前から一度見たい、そこに行って見たいと思っていた。
あっけなく到着したと思ったものの、
実際バスから降りてそのモニュメントを目の前にすると、
やっとここまでたどり着いたか、という思いも湧いてくる。
運転手は、そのモニュメントの前に赤い絨毯(じゅうたん)をしいた。
絨毯の真ん中に白い線が入っている。
運転手が、

 「さあみなさん!
いまから北極圏を越えたことの記念すべきセレモニーを行います!
 まだ皆さんは北極圏を越えていませんよ。
 この線を越えて北極圏に入ったことを祝いましょう!」

と、バスの乗客に呼びかけると、
すでに北極圏の線の向こう側に行っていた何人かの乗客が
恥ずかしそうにいそいそと戻ってきた。
その様子に笑い声が上がっていた。

最初に運転手さんが赤い絨毯の上の白い線を越え、
北極圏の向こう側に立った。
並んでいた乗客が一列に並び、一人ずつ線を越え、
待っている運転手と固い握手をしている。
 「越えた!」
 「おめでとう!」
と、一人一人が思いをこめてその線を渡っているようだった。

家内の番がきた。
普通に歩けばなんともないのが、
そこはやはり万感を込めたように一歩を踏み出す。
 「Congratulation !」
と運転手さんと握手をした。
僕も同じように、時間をかけて一歩踏みこんだ。
 「キャプテン!(船長!)」
と運転手さんを呼びかけ、
「よくやった!(Well done !)」という運転手さんと固い握手をした。
再び列の後ろに並んで、2度も3度も線を渡る人もいる。
ダグおやじさんは、
上半身裸になり上着を振り回しながら運転手と握手とハグをしていた。
コールドアピールさ、と笑うダグおやじさんに倣い、
僕もTシャツを脱いでもう一度北極圏越えをした。
 
その後、嬉しいことことにショートケーキとシャンパンが出された。
バスの後部に密かに積まれていたらしい。
ユニークで心に残る楽しいセレモニーだった。

北極圏のモニュメントの後ろには、展望台のようなテラスがあったが、
木に囲まれていて展望はあまりよくなかった。
そのモニュメントの裏側を見て、
”どこも同じだなあ”と思わずため息がでた。
正面からでは想像がつかないほどの落書きがされていた。
蚊ではない小さな虫がまとわりつくように周りを飛んでいた。
これも北極圏の自然だ。

やがて復路フェアバンクスに向けてバスは出発した。
このときも、座席のシャッフルチェンジが行われた。
途中、バスはパイプラインの側に停まり、ツンドラの上を歩いた。
道路から外れた途端、地面がふわふわとしており、
足が土の中に半分埋まっていくようだった。
ときおり、地面から水がしみ出していたところもあった。
地面にはコケや綿毛となったファイヤーウィードの花、ブルーベリー、
小さな草花が折り重なるように生えている。
このコケがこれほどの大きさになるまでどれほどの年月が経ったのだろう、
と大地をかみしめる思いで歩いた。
もちろん、ブルーベリーの実は摘んで口にした。
野生のブルーベリーの実を2度続けて摘めたことに、
家内はこの上なく上機嫌だった。

夕方の5時ごろ、ユーコン川に着き、
ユーコンリバーキャンプで夕食があった。
夕食は、昼と同じように大きなサンドウィッチやハンバーガーだった。
運転手さんは、実はパートタイムでこの仕事をしているという。
僕の向こう隣にいた老夫人が、
 「あなたの本職は何なの?」
と運転手さんに聞いた。
運転手さんは、本職はアラスカ大学の大学院生で、
海洋工学を勉強しているという。
カリフォルニアからやってきて、実家では海でダイバーの仕事をしているそうだ。
 「将来はカリフォルニアに帰るの?」
と他の人が聞くと、
 「うーん」
と考え込み、”まだ分かりません”と答えていた。
やはりアラスカという土地から離れられないのもあるのだろう。
 「カリフォルニカから寒いアラスカへ、まあ・・・。がんばってちょうだいね。」
と最初に質問した老婦人は応援していた。

目的をもって学問をしているという眼差しは真剣であり、
運転手の話しから熱いものが伝わってきそうだった。
 「長距離運転して眠くなりませんか?」
と僕は聞いた。
僕なんかも高速道路を走っていると、眠気を感じるときが多々ある。
 「眠くはならないです。
このように話しながら運転しているし、
休憩もいれているので目は覚めてます。」
と言う。
 「それに、大切なお客さんがいますからね。」
と続ける。
 「さすがプロですね。」
と僕がいうと、
運転手さんは”うーん、プロというわけじゃないんだけど”
という感じで首をかしげ苦笑いをしながら、
 「Thank you」
とにこやかに言った。

この運転手さんがまだ29才だというのに、驚いた。
大きな体(立派な恰幅)で落ち着いた風貌をしていたので、
てっきり年上だと思っていた。

夕食が済み、テーブルの側にあったアルバムを開いた。
そこには、以前クマがこの建物に入り込み、
めちゃめちゃに荒らされた室内の写真が貼られていた。
2002年か2003年かの山火事で住処を追われ、
エサに窮乏してこのユーコンリバーキャンプに入ったのだろう、
と説明文書があった。
そしてそのアルバムの最後には、射殺されたクマの写真があった。
なんともやるせない気持ちになった。

バスの出発時間まで、家内とユーコン川のほとりを散歩した。
ユーコンの水は冷たく、濁っていた。
昼間はできなかったユーコン川の畔をしばらく散策して、
思い行くまでユーコン川を眺めた。

フェアバンクスに着いたのは、夜の10時30分ごろだった。
一旦ノーザンアラスカツアーカンパニー社に立ち寄り、
別の車に乗り換えて乗客が泊まるそれぞれのホテルに向かう。
フェアバンクス・プリンセス、リージェンシー、リバースエッジ、ウェストマーク・・・、
僕も以前停まった宿があり、懐かしかった。
一人、一組とツアー客が車を降りるたび、僕達は固い握手をした。
言葉を交わしてなかった人とも握手やハグをした。

僕達がマリオットスイーツホテルに戻ると、
受付ロビーの向こう側に2つの大きなトランクケースが置かれていた。
僕達の荷物が見つかったようだ。
ありがたかった。

部屋に戻り、荷物を見つけてくれたことへのお礼をするため、
フェアバンクス駅から送迎をしていただいた伊藤さんに電話を入れた。
 「本当によかったですね。」
と電話の向こうから伊藤さんが、
荷物がどのようにして見つかったかを話してくれた。
それによると、今朝もう一度マイケルさんが
デナリのプリンセスロッジに行ったそうだ。
そして直接荷物を渡した係りのお兄さん
(「確実にお届けします」と言ったお兄さん)を探し出し、
昨日預けた僕達の荷物のことを尋ねたそうだ。
最初は、アラスカ鉄道の列車に運び入れ
フェアバンクスまで運んだはずだが・・・、とのことだったが、
マイケルさんは辛抱強く”もう一度探してくれ”と何度も言ったそうだ。
すると、荷物置場の片隅に
置き去りにされていた僕達の荷物があったとのことだった。

今日のアラスカ鉄道でフェアバンクスまで運ばれ、
僕達の泊まるマリオットまで運ばれてきたらしい。
 「アラスカ鉄道がホテルまで運んだのでしょうね。本当によかったですね。」
という伊藤さんの電話の向こうから、
テレビの音声とご家族らしい笑い声が聞こえていた。
温和な笑顔を浮べている伊藤さんの表情がみえているかのようだった。

何はともあれ、荷物が見つかったことはありがたかった。
今まで個人で手配をしてアラスカに来ていたけれども、
今回のことを考えれば旅行会社に手配をお願いしていて、
結果として良かったと思っている。
もし個人で手配をしていたなら、
自分でデナリのホテルと直接やりとりをしなければいけない。
しかも直接また現地に行かねば、
いいかげんな扱いをされてしまう恐れがある。
今後アラスカ鉄道を使うときは、気をつけないといけない。
マイケルさんにもあらためてお礼を述べねば。

荷物が無事もどったことを家内と祝い、
ホテルのバーで買ったアンバービールを飲んだ。
北極圏越えを行ったこの夜のアンバーは、また格別だった。
窓の外をみれば、昨夜と同じように大きな月が、
水平方向にゆっくりと移動していた。


                 (つづく)


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八ヶ岳環境文化速報(メルマガ)

山梨県立八ヶ岳自然ふれあいセンター発行のメールマガジンです。
素敵な情報が満載です!
http://www.keep.or.jp/FORESTERS/fax_soku.htm 


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星野道夫トーテムポールプロジェクト

2008年8月8日にアラスカ・シトカに、
星野道夫さんがアラスカとの架け橋であったことの証として、
トーテムポールを建立するプロジェクトのホームページです。

http://www.switch-pub.co.jp/totempole/ttpp/00/index.html 


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(以上、文責:村瀬俊幸)


K編集長のひとり言

先日テレビで古紙とペットボトルの資源ごみが、
中国へ流出してしまい、
国内のリサイクル業者が相次いで倒産し、
このままでは国内では、
リサイクルマークの形のようにはならなくなるらしい。

あらゆる業界で空洞化が進み、
ほんとうにこの国はこれからどうなってしまうのか、
きっとそんなことをみんなが思いながらも、
ついつい安い輸入品に頼った、
生活をしないといけないのが現状なのだと思う。




☆発行☆
『心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜』メルマガ編集チーム


心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000181670.html

「心のアラスカ」とは、
星野道夫さんがアラスカを愛したように、
すべての人の心にある大切な風景を言います。

自然と人間の営みがあり、
悠久の時の流れがあり、
生命が育まれてきたかけがえのない風景を
大切に!大切に!


Earth Works Society

素晴らしき地球2008
人類文明への辺境からのメッセージを伝える
NPO法人EARTH WORKS SOCIETY

映像と講演でメッセージをお伝えします


主催:NPO法人EARTH WORKS SOCIETY
EWS名古屋講演・写真展実行委員会  心のアラスカ
名古屋大学環境学研究科地球環境システム学講座(高野研究室)

協力:星野道夫事務所 写真家大橋英児
共催:名大祭実行委員会 なごや環境大学

写真展
日時 2008年6月2日(月)〜8日(7日は休館) 
    午前10時〜午後8時(最終日午後4時終了)
場所 名古屋大学環境総合館1階ロビー 入場無料

講演会
星野直子+大谷映芳
日時 2008年6月8日(日)
        午後1時開場 1時30分開演   3時30分終了予定
場所 名古屋大学環境総合館1階レクチャーホール 
  定員 150名 入場無料(カンパをお願いします)
  マイ敷物持参でお願いします。

講演会は、下記実行委員会まで事前申込が必要です。
定員になり次第締め切りさせて頂きます。

連絡先お問い合わせ・申込先 (実行委員会事務局 村瀬)
   申込はお名前、連絡方法をお知らせください。
   〒468-0011 名古屋市天白区平針5−902 
   携帯 090-3959-4470 FAX052-804-3828
   E-mail apple-bear@nifty.com
              実行委員会メンバー募集中



☆発行☆
『心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜』メルマガ編集チーム


心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
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「心のアラスカ」とは、
星野道夫さんがアラスカを愛したように、
すべての人の心にある大切な風景を言います。
自然と人間の営みがあり、
悠久の時の流れがあり、
生命が育まれてきたかけがえのない風景を
大切に!大切に!



写真提供:公文俊朗さん
『フェアバンクス駅』


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


☆文学プラザ企画展『文章家 星野道夫』☆
言葉でつづる星野道夫の心温まるメッセージ

会期 平成20年1月26日(土)〜5月25日(日) 10:00〜17:00
休館日 月曜日(2月11日除く) 1月31日、2月12日、2月29日
会場 市川市文学プラザ(市川市鬼高1-1-4 生涯学習センター3階)
入場無料



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

  特別寄稿
      アラスカ旅日記2007
           8月25日夜 フェアバンクス駅でのトラブル


午後4時過ぎ、デナリ国立公園のウィルダネスツアーを終えた後、
フェアバンクスに向かうため僕達は再びアラスカ鉄道に乗り込んだ。
列車が出発すると、僕と家内はすぐに車両のつなぎ目に出て、
心にとどめておこうと外の景色を眺めた。

昨日宿泊した温かみのあるログハウス群の<デナリ・プリンセス・ロッジ、
ウィルダネスツアーの出発地だったホテル・シャレー、
山の中腹に建てられているクロウズ・ネストの建物が、
ネナナ川の向こうに見えていた。

それらが後方に過ぎ去ってゆく。
眼下には、ホースシューレイク(馬のひづめの形をした湖)が
木々の間から一瞬だが目にすることができた。
96年の夏にデナリにやってきたときは、
ホースシューレイクまでのトレールを歩いてゆき、
初めてビーバーの巣を見たときのことが懐かしく思われた。
いつになっても構わない。
また夏のアラスカ・デナリに戻ってきたい。

しばらくすると、右方面のネナナ川の向こうに
精錬所風の白い建物が見えてきた。
列車は、デナリから10キロほど離れた鉱山の町
ヒーリーを通り過ぎようとしていた。
ヒーリーは、デナリ国立公園の北側の奥地に入る
スタンピードトレールの入り口でもあった。
僕はそのスタンピードトレイルの入り口が見えるだろうか、
と列車の左方面を注意して見ていたが、
結局は分からずじまいでヒーリーの町を過ぎ去ってしまった。

92年の4月、クリス・マッカンドレスという大学を卒業したばかりの青年が、
荒野を求めてこのスタンピードトレイルからアラスカの奥地に入っていった。
そして4ヵ月後、棄てられたバスの中で、
シュラフにくるまったまま餓死体となっているこの青年の姿が
地元のハンター達によって発見された。
この青年に何が起きたのか。
この事件は、アラスカのみならずアメリカを揺るがすほどになったという。
僕はこのことを『荒野へ』(ジョン・クラカワー著、集英社)という本で知った。
アラスカ好きである者、自然や野生に関心を持つ者にとっては、
この青年のことは他人事ではないように思えてならない。

この『荒野へ』は映画化され、
ちょうど2007年の9月にアメリカで上映されたらしい。
デナリ国立公園周辺でも映画のロケが行われたそうだ。
インターネットでその予告編を見た。
「フェアバンクスからこんにちわ!」と主人公の手紙の書き出しで始まり、
希望に満ちているけれどもどこか物悲しく感じさせるテーマ音楽が、
実在の人物を物語っているようだった。
残念ながら、日本ではこの映画の公開がされず、予定もないようだ。
『荒野へ INTO THE WILD』は、DVD化はされないだろうか。

アンカレッジからデナリへ来たときと同じように、
なるだけ外の景色を見ようと思っていたが、
この日は朝早くから起きていたこともあり、眠気には勝てず、
家内と僕はほとんどを車内で寝て過ごした。
アラスカ鉄道は、ビューポイントを通りすぎるとき、まず車内放送があり、
列車の速度をかなり落としてゆっくりと走る。
”アイスクラシック”で有名なネナナの町を通り過ぎるときも、
その車内放送で目が覚め、ネナナの町を眺めた。
ネナナに来ると、もうフェアバンクスは近かった。
デナリを出発して約4時間後、
列車の左方向に大きなパラボラアンテナのある茶色の建物と、
大きくゆるやな円弧形状が特徴的な白い建物が見えてきた。
アラスカ大学フェアバンクス校だ。
そして夜の8時ごろ、列車はフェアバンクス駅に着いた。
外はまだ明るかった。

フェアバンクス駅も、立派な建物に変っていた。
以前は、駅には見えない大きな車庫のようなこじんまりした建物だったが
(それはそれで風情があった)、
この今のフェアバンクス駅を見てもアラスカも変っているんだな、
ということを感じた。

フェアバンクス駅に降りた。

送迎してくれるガイドさんがいない・・・・

フェアバンクス駅の構内は、列車からおりた大勢の人々で賑わっていた。
しかし、周りを見渡してもガイドさんらしい人は見当たらない。
あれ、おかしいなぁ、、、としばらくは様子を見て待つことにした。

家内が持っていた日程表には、旅行会社の現地窓口の電話番号が載っていた。
周りを見渡すと、公衆電話はある。
念のため電話をしようと思った。
しかし困ったことに、電話するためのコインがない。
僕達は、トラベラーズチェックと紙幣しか持っていなかった。

近くを歩いていたアラスカ鉄道の若い女性乗務員を呼び止め、
1ドル札を両替できるところを尋ねた。
 「両替できるところはありません」
という。
フェアバンクス駅には売店らしき店は何もない。
僕は、旅行会社に電話をしたいのだけど、
この1ドル札をクウォーター(25セント)に変えてくれないだろうか、、、
とこの女性乗務員にお願いしてみた。
 「ごめんなさい、私も今コインを持ってないのです。」
 「そうですか、困ったな。。。」
途方にくれる思いがした。
そんな僕を見て、女性乗務員は、
 「私が旅行会社に電話をしてあげます。」
と言ってくれた。
 「お願いします、番号はこれです。」
とプリントを見せようとすると、
彼女は他の乗客に呼ばれて「Excuse me」と言い残して
向こうへ行ってしまった。

携帯電話を貸してくれるのだろうか、と彼女を待った。
彼女は他の乗客からも質問をされたりしていて、忙しそうだ。
しばらくして、「これで電話をどうぞ」と25セント硬貨を2つ持ってきてくれた。
「ありがとう」と両替のつもりで1ドル札を渡そうとすると、
「いや、いいんですよ」と受け取らなかった。
彼女の親切さには多いに感謝をした。
こんなとき、”かたじけない”という言葉が出てくる。

公衆電話の受話器を上げ、旅行会社の現地窓口に電話した。
トゥルルルルというアメリカ独特の呼び出し音の後、
聞こえてきたのは”本日は営業時間が終了しました・・・”の英語版。

そうか、あの旅行会社からフェアバンクスでの手配が
きちんとされていないのだな。
よく分かった。
こうなればタクシーを呼んで宿に行く。
そう家内に告げた。

先ほどの女性乗務員に声をかけ、
「 ありがとう。
 でも電話はつながりませんでした。
 あのう、すみませんが、タクシーを呼んでくれませんか。
 英語にはあまり自信がないもので。」
とコインを返した。

 「どちらホテルに行かれますか?」
と尋ねられ、
 「マリオットスイートです」
と答えた。
 「シャトルバスを呼びます。
あの方達もシャトルバスの向かえを待ってるんですよ。」
とベンチにぐったりと座っているアメリカ本土から来たであろう3、4人の
おかあさん方が同じ宿に向かおうとしていることを教えてくれた。

そのおかあさん方に
 「同じマリオットですか?」
と声をかけると、
 「そうなのよ、まだ車が来ないのよ〜」
とぐったりした返事があった。

そういえばまだ僕達の荷物を受け取っていなかった。
新しいアラスカ鉄道フェアバンクス駅の荷物受け取り場では、
空港の到着口で荷物を受け取るように、
乗客の荷物がベルトコンベアに載って運ばれていた。
自分達の荷物を取りに行って、
ベルトコンベアに僕達の荷物が現れるのを待った。
・・・ない。
・・・・・・・こない。
・・・・・・・・・・・・・どこや?
自分達の荷物がない。
もうベルトコンベアは回っていない。
どうしよう、これは困った・・・・。

ベンチで待っていた家内に、荷物までないことを告げた。
さて、どうしたものか。。。

ポケットから荷物受けとりの控えの券を出し、
荷物係のお兄さんを捉まえて、この番号の荷物を探してくれるようにお願いした。
 「デナリからですね、No Problem!」
といって探してもらった。
僕達はその間、待つしかなかった。
飛行機では、受付カウンターに預けた荷物が目的地に届かなかった、
ということは時々あるけれど、
鉄道で、しかも一日一本しか走らないアラスカ鉄道で預けた荷物が
目的地に届けられなかった、というのは聞いたことがない。
きっとこの列車の荷物置き場のどこかに残されているのだろう

見つかったかどうかを聞くため、荷物受け取り場へ行くと、
先ほどのお兄さんは、荷物係の別の人と
僕達の荷物について何かを話しているようだ。 
やがて、神妙な顔で
 「すみません、見つからないのですけど。。。
どのような色でどれくらいの大きさの荷物ですか?」
と聞いてきた。
 「見つからない!?
  それは弱ったな・・・
  シルバーとピンクのこれくらいの大きなトランクケースです。」
と、やりとりしていると、
家内が若い日本人女性の誰かと話をしているのが見えた。
どうやらガイドさんがやっと着いたようだ。

荷物係のお兄さんに、もう一度探してくれるように頼んだ後、
家内と話をしていた女性が
 「もうしわけございません。遅れてすみません。」
と、申し訳なさそうにやってきた。
フェアバンクス駅に着いて、40分がそろそろ過ぎようとしていた。
 「ガイドさんですね、なぜこんなに遅れたんですか?」
と聞いた。
 「アラスカ鉄道に到着予定の時間を聞いていたのですけど、
聞いた時間と実際の時間がかなり違っていたようでして・・・」
アラスカ鉄道での予定到着時刻は目安でしかない。
 「アラスカ鉄道は時間通りに動かないということは良く知っているでしょ。
こんなにも遅れてこられたら困ります。」
と、僕はついきつい口調で言った。
 「はい、本当に申し訳ございません。」
まだ若いガイドさんは、目を赤くしていた。
あとで家内に聞くと、僕が荷物係の兄さんと話しをしていたとき、
ガイドさんは半時間以上も遅れてやってきたことにも関わらず、
そのまま車へ案内しようとしていたので、
こんな時は「おまたせしました」の一言があってもよいのではないかと
話をしていたとのことだった。

 「遅くなったことは分かりました。実はトラブルが起きてます。」

と僕は自分達の荷物が到着していないことをガイドさんに伝えた。
ここはプロに任せようと、
アラスカ鉄道の荷物係の人に掛け合ってくれるようにお願いした。

 「ミス!(お姉さん!)」

とここで僕は、先ほどコインを渡してくれた女性乗務員を呼び止め、
ガイドさんが到着したので
シャトルサービスには乗らなくても良くなったことを告げ、お礼を述べた。
女性乗務員は、”よかったですね” という笑顔をしてくれた。

荷物係に問い合わせをしてくれているガイドさんの所へ様子を伺いに行った。
やはり僕達の荷物はないようだ。
この若い女性のガイドさんの他に、
このガイドさんの上司になるという50代の男性の方も見えていた。
2人の荷物係、2人のガイドさん、
そしてもう一人白いワイシャツを着たスーツ姿の若い人が話し合っている。
このワイシャツの人はアラスカ鉄道の責任者だろうか。

迎えに着てくれたガイドさんは、伊藤さん(上司)と岡本さんといった。
伊藤さん(トラッパー伊藤さんとは別の伊藤さん)は、
かなり遅れてやってきたことを、改めて陳謝していただいた。

伊藤さんによると、荷物を預けたデナリの
プリンセスロッジ、フェアバンクスのプリンセスホテルなど、
思い当たるところ全てを探してもらい、
その後で伊藤さんまで電話連絡をするようにと
荷物係の担当者にお願いをしたそうだ。
そのため、一旦は僕達をフェアバンクスの宿に送っていただくことになった。

ここで困ったのは家内だ。
女性に必要な日常必需品がすべてトランクケースの中に入っている。
その必需品をそろえるため、
伊藤さんに近くのスーパーへ連れて行ってくれないかを、お願いをした。
伊藤さんからは”タクシーで行ってくれませんか”、と最初は断られた。
しかし自分達は今困った状況にいる、
送迎の車を足に使うつもりは全くないが、ここはどうか助けてほしい、
時間はとらせません、と家内ともども何度か頼み、
10時以降であれば、ということで10時過ぎに
スーパーに連れて行ってくれることになった。
伊藤さんたちは10時までは他の仕事があるとのことだった。

車に乗り、ホテルに向かった。
あたりはもうすっかり夜になっていた。
運転席の伊藤さんは携帯電話を取り電話を始めた。
 「もしもし、マイケル君?今忙しい?」
電話の相手はデナリのマイケルさんのようだ。
伊藤さんは僕達の荷物が届いていないことを連絡したところ、
「え〜!」という声が携帯電話を通して聞こえた。
伊藤さんはマイケルさんに、
時間があれば荷物を預けたデナリ・プリンセスロッジへ行って
荷物のことを聞いてきてくれないかを依頼していた。

フェアバンクスのダウンタウンに差し掛かる頃、
 「あそこがもともとのフェアバンクス駅だったところです。」
と伊藤さんは更地となっているところを指して教えてくれた。
 「あそこがそうですか。
建物が変わったなと思ってましたけど、場所も変わったんですね。」
と返事をすると、
 「前の建物を知っているということは、何回か来ているのですね。」
とちょっと嬉しそうな感じで聞かれた。
 「実は、アラスカに初めて来たときから12年目になります。」
と答えた。
初めてのアラスカでアラスカ鉄道に乗り、
フェアバンクス駅を降りたときのことを懐かしく思い出していた。
トラッパー伊藤さんにも初めて会った、あの建物が今はない。

ダウンタウンに入り、僕が初めてのアラスカで泊まったときの
フェアバンクスのホテルが見えてきた。
そのホテルはボラリス、ノーザーンライツ、とオーナーが代わる度に名前を変え、
今では
 「ここはもう何年も前から”For Sale(売り出し中)”なんですよ。」
と伊藤さんが言う状態になっている。
僕はここに以前に泊まった事がありまして・・・という話をすると、
 「そうですか!というと、ここで働いていた森さんも知ってます?」
と聞かれた。
森さんとは森茂雄さんのことで、初めて行ったときのアラスカで出会い、
今通り過ぎようとしていたホテルのホテルマンをしていた。
『地球の歩き方 アラスカ編』にも執筆をしており、
今はチェナホットスプリングスで働いていている。

森さんは当時ホテルマンといっても、
ロックスターのような長髪に私服で仕事をしており、
何よりもアラスカのことを熱く熱く語っていた。
東国原知事が「宮崎をどげんかせんといかん!」と言っているように、
フェアバンクスの森さんも「このままではアラスカはいかん!」と
アラスカの将来を強く案じている。
僕はそんな森さんからアラスカのことを多方面に教えてもらい、
一種の洗礼を受けたと思っている。
森さんは独身だけれども、
ある人からは、”森さんはアラスカと結婚したんだよ”という
冗談とも本気とも区別のつかない話を聞いたことがある。
僕はその森さんには大変お世話になり、
今回チェナに行くときに再会することを楽しみにしている、
ということを伊藤さんに話をした。

一旦、マリオットスウィートホテルにチェックインした。
受付ロビーには、
フェアバンクス駅でみた白いワイシャツの男性が立っていた。
 「ああ、あなたはホテルの人だったのですね。
  てっきりアラスカ鉄道の人かと思っていました。」
と声をかけると、その男性は笑っていた。
ホテルの出迎えでフェアバンクス駅に見えていたようだ。
また明日は北極圏ダルトンハイウェイツアーの予定のため、
出発地に行く朝のシャトルサービスの予約をした。

夜の10時になるまでの間、
僕と家内はホテルのレストランで簡単な食事をした。
そして伊藤さんから電話があり、
フェアバンクスのスーパーへ連れて行っていただいた。
車に乗り込むとき、改めてお礼を述べた。
スーパーでは、家内が売り場を探し、
岡本さんに何か相談しながら買い物をしていた。
僕が品物をみても、パッとみただけではそれが何なのか分からない。
ここはやっぱり岡本さんのように
地元に住んでいる方の助言が大変ありがたい。
改めて、そのことを岡本さんに述べ感謝を述べた。

家内と一緒にレジに並ぶ岡本さんに、
 「アラスカはもう長いのですか?」
とふと聞いた。
 「いえ、実は全然長くないのです。」
と意外な答えが返ってきた。

この春に大学を卒業し、7月にアラスカにやってきたばかりだという。
英語が上手なので(当たり前のことだが)、
留学をされていたのかを聞くと、ずっと日本の学校にいたという。
英語は通じなくてもまず自分から言ってます、と話してくれた。
そうやって、英語は上手になっていくんだよな、と改めて思った。
岡本さんには、これから経験をもっともっとつんで”
アラスカにこの人あり”と言われるほどの人物になってもらいたいと思う。

車に戻ると、伊藤さんは荷物の状況について話してくれた。
マイケルさんからの連絡によると、
デナリのプリンセスロッジにも見つからなかったという。
プリンセス側は、”荷物はフェアバンクスに運んだ”
との一点張りだったそうだ。
例え乗用車の接触事故を起こしても
自分からはsorryという言葉は発しない 、自分達に非はない、
という訴訟社会といわれるアメリカ社会の側面を垣間見た思いがした。
マイケルさんは明日の朝、
もう一度プリンセスに出かけてくれるとのことだった。
ホテルの部屋にもどると、テレビをつけCNNにチャンネルを合わせた。
部屋にはテレビが2つも置かれていた。窓から見える満月が大きく見えた。
6階の部屋から眺めるその月は、自分達とほぼ同じ目線上にあり、
時間とともに水平にゆっくりと動いていた。
アラスカでは、北極星がほとんど真上にあり、
月や太陽は水平に動く季節がある。
地球の大きさをこんなところにも感じる。

まあ、今日はいろいろなことがあった。
荷物のことは、なるようになるしかない。
考えていても疲れるだけだから、
今夜はもう寝て、明日の朝に備えることにしよう。


                      (つづく)


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なごや環境大学共育講座
心のアラスカ『生命の物語〜第三章〜』
2008年前期講座
第一回目 『クマよ』
星野道夫氏の絵本『クマよ』のスライドと朗読ワークショップです。
日時 4月19日(土) 14:00〜16:00
場所 あいちNPO交流プラザ研修室
個別受講料  300円

申込:お問い合わせ先
心のアラスカ 担当村瀬まで
なごや環境大学ホームページ

http://www.n-kd.jp/modules/piCal/?event_id=0000005440  


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星野道夫学校向け写真展
無料貸出しの受付が始まっています

詳しくは、
http://www.michio-hoshino.com/school/index.html   

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八ヶ岳環境文化速報(メルマガ)

山梨県立八ヶ岳自然ふれあいセンター発行のメールマガジンです。
素敵な情報が満載です!
http://www.keep.or.jp/FORESTERS/fax_soku.htm  


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星野道夫トーテムポールプロジェクト

2008年8月8日にアラスカ・シトカに、
星野道夫さんがアラスカとの架け橋であったことの証として、
トーテムポールを建立するプロジェクトのホームページです。

http://www.switch-pub.co.jp/totempole/ttpp/00/index.html 


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
(以上、文責:村瀬俊幸)


K編集長のひとり言

NHKで「フルスイング」という番組が放送された。
三十年にわたり、プロ野球の打撃コーチとして活躍された後、
五十八歳で高校の教師になったという実話をドラマ化したもので、
録画をしておいたらこのドラマにすっかり長男がはまり、
学校から帰ってくると、毎日かかさず見ているらしい。

どこが好きかと聞いてみると、
あんな先生がいてほしいとのことだった。

きっとあんな先生、そして親を子どもは望んでいるのだろうと思う。
彼が言った、
「大きな耳 小さな口 優しい目」で見守りながら待つ。

この言葉が忘れず、子供にも人にも接していければと思う。




☆発行☆
『心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜』メルマガ編集チーム


心のアラスカ〜星野道夫の思いを繋ぐ〜
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000181670.html
心のアラスカ」とは、
星野道夫さんがアラスカを愛したように、
すべての人の心にある大切な風景を言います。

自然と人間の営みがあり、
悠久の時の流れがあり、
生命が育まれてきたかけがえのない風景を
大切に!大切に!



写真提供:公文俊朗さん
マイケル・フォランド氏


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星野道夫さんの地元市川での
星野道夫写真展『星のような物語』が終わってしまい、
なんだかちょっと、さみしい気持ちです。
市川で見た星野道夫さんの作品が、やっぱり一番よかった。
ずっと、見ていたかった。
ずっと、ずっと写真やエッセイと話していたかった。


とてもいい雰囲気だったので、
3回ほど行った芳澤ガーデンギャラリーも、
もうすぐ終わってしまいます。

☆第9回市川の文化人展『星野道夫展』☆

出身地市川で開催する回顧展。写真やエッセイなど作品とともに、
ゆかりの品々から星野道夫の魅力に迫ります。

会期 平成20年1月19日(土)〜3月2日(日)
月曜休館 ただし2月11日(祝)は開館、翌12日(火)は休館
9:30〜16:30(入室は16:00まで)
会場 市川市芳澤ガーデンギャラリー(市川市真間5-1-18)
入場料 一般(高大生含む)300円 (中学生以下無料)
団体料金(25名以上) 240円


生涯学習センターは、まだまだ続きます。
☆文学プラザ企画展『文章家 星野道夫』☆
言葉でつづる星野道夫の心温まるメッセージ

会期 平成20年1月26日(土)〜5月25日(日) 10:00〜17:00
休館日 月曜日(2月11日除く) 1月31日、2月12日、2月29日
会場 市川市文学プラザ(市川市鬼高1-1-4 生涯学習センター3階)
入場無料

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

特別寄稿 
アラスカ旅日記2007
8月25日 デナリ・ウィルダネス・ツアー

朝5時起床。
夏は白夜となるアラスカだが、
さすがに8月の下旬ともなれば、この時間帯は薄暗い。
昨日アラスカ鉄道の車内で買ったマフィンが今朝の朝食だ。

部屋の片付けをした後、重いトランクケースを引きづって、
離れにあるデナリ・プリンセス・ロッジのメインロビーに向かった。
吐く息が白い。
空は雲が低くとぎれとぎれに広がっていたが、
その一つ一つがまだ昇る前の朝日の光を受けて淡い橙色に輝いていた。
その色がとても綺麗だった。

メインロビーに入り椅子に座って一息ついていると、
ほどなくして「おはようございます」とガイドのマイケルさんがやってきた。
マイケルさんは、昨日はかけていなかったメガネをかけていた。

マイケルさんから、今日のデナリ・ウィルダネス・バスツアーの
概要を簡単に教えていただいた。
朝昼兼用のランチボックスも出される。

 「ランチボックスは何が入ってますか?」
と家内が尋ねた。

 「そうですね、パンにチーズにソーセージ。あとニンジンも入ってます。」

 「ニンジン??」
と僕と家内は一緒に聞き返した。

 「ニンジンは生です。カリっとしてとてもおいしいですよ。」
とマイケルさんは笑っていた。

僕はスーパーで売っているような大きなニンジンが
丸ごと一本入っているのを想像して、
まさかまるごと一本生で出てくることはないだろうと、
その時は冗談に受け取って笑っていた。

今日のウィルダネス・ツアーが終わった後は、
その足で再びアラスカ鉄道に乗ってフェアバンクスに向かう予定だ。
チェックアウトを済ました後、
マイケルさんにプリンセス・ロッジのアラスカ鉄道窓口を教えてもらい、
トランクケースを預けに行った。
窓口でヘルメットをかぶった荷物係のお兄さんがやってきて、
僕達のトランクケースを「フェアバンクスまでお願いします」と預けた。

 「フェアバンクスですね?
  OK、確実にお届けします。」

と係のお兄さんは、
早速タグを僕達のトランクケースつけててきぱきと運んでいた。
その様子は、見ていてとても信頼感と安心感があった(この時は・・・)。

その後、僕達はマイケルさんの車で
隣のホテルであるマッキンレー・シャレーに向かった。
デナリ・ウィルダネス・ツアーのバスは、
マッキンレー・シャレーの玄関から出発する。
シャレーの玄関口には、
すでにウィルダネス・ツアーに参加するたくさんの人で込み合っていた。

僕達が乗るバスが着くまでに少し時間があったので、
シャレーの中に入り、まだ開店していないギフト・ショップなどを見て回った。
シャレーの中には、マッキンレー山の大きなパネル写真、
デナリ国立公園のミニチュアモデル、動物の剥製などが置いてあった。
大きなクマの剥製が立っていたが、
よく見るとそれは剥製ではなく実物大の人形だった。
そのクマの人形は、
僕達になじみのある「森のクマさん」といった感じの愛嬌のある顔をしていた。
しかし人形とはいえ、
その爪は本物のクマが持っているような鋭い鍵爪を持っている。
一見、姿は可愛いけれどもクマとはどういう動物であるか、が
この実物大の人形からも伝わってくる。
観光客の野生動物に対する知識を、
このような形でさりげなく伝えようとしている気持ちが
現れているようにも感じた。

クマの爪を見ていて、ふとこんなことを思った。
 「リアルトトロの爪もこんなんだろうね。実際にいたら怖いだろうなぁ。」
と、家内に話しを振った。
 「さあ・・・あまり見てないから・・・」
とクマとトトロの共通談義をかわされてしまった。

マイケルさんにHAYAO MIYAZAKIの”となりのトトロ”
という映画を知っているか聞いたところ、見たことがあるそうだ。
家内に言ったクマの人形の印象を伝えたところ、
なるほど!と笑っていた。
愛知万博のサツキとメイの家のこともご存知だった。

シャレーのロビーは、なぜかクリスマス飾りをしていた。
クリスマス