★「アーバン短歌」を読んでいただいて有り難うございます。魑魅魍魎の徘徊する街、歴史が堆積する街、物心が錯綜する街を解読。≪都市生活者≫に癒しの言葉を贈るブログです。
時々短歌論、時々都市論。
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啖呵切る 寅さんみたい 生きてえな 見上げたもんだね 屋根屋の褌
帰ろうと 闇の昭和が 手招きを 辻の露天の そこに立つ吾
私の 閉塞なのか さらに酔う グラスの泡に 囁くラジオ
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ラジオが生活の中心に置かれ、ラジオが娯楽の花であった時代がありました。私は、口承文化につながる昭和の貧しくも個性的で、煌びやかなラジオ文化があったと言いたいです。特にラジオの娯楽の中心は、物語でした。未だ日本においては、TVによる映像表現が未成熟でした、尚更に、語る聞かせる、泣く笑う、言葉が迸る言語表現が中心でした。吉川英治原作の『宮本武蔵』を徳川夢声が朗読したCD6巻を聴く機会がありました。ソニーの携帯ウォーマンに録音して電車の中で聞き、お風呂に持ち込んでじっくりと深夜の湯船の中で聞き、寝不足で欲求不満の体を布団に横たえて、深い眠りに付く前の一時に夢声の声を聞きました。その時、何かしら昔の懐かしいラジオの「音」をもう一度再体験したような気がしました。
振り返ると、≪赤胴鈴の助≫も、≪宮本武蔵≫も、ラジオのスピーカから流れ、私の記憶に今だに残響しています。1961年(昭和三十六年)から550回分、約90時間にわたりラジオ放送されたものを、CD77枚にまとめたものが新潮社から発行されてます。いつ何時何度聞いても、夢声の臨場感に溢れる話術に引き込まれます。個人的な記憶では、「ラジオ技術」に載っている図面を元に製作した五球スーパの真空管のラジオを、私の兄弟が苦心惨憺の上、やっとのことで音の出るラジオに完成させました。まだラジオ関東を、玩具のような原始的な鉱石ラジオで聞いていた時代です。団塊世代にとっては、≪ALWAYS 三丁目の夕日≫にダブルる、昭和の古き懐かしい時代です。だが本当にあの時代にあの「武蔵」を聴いたのだろうか・・・。それとも私自身の幻聴なのだろうか…。「その時、武蔵は…」と、ゆっくり一語一語かみ締めるように朗読する徳川夢声独特の語り口が、私の年少の記憶に共鳴しています。
病気がちな私は、幼稚園に行かずに毎日家に閉じこもり、ポツリといたような気がします。昼間は一人で古い足踏みのシンガーミシンの傍で、振り子時計の悲しくもオドロオドロシイ音に怯えながら、孤独な空想の中にこもって遊んでいました。夜は夜で、仏壇のように黒光りの古い箪笥の上に乗ったラジオのバリコンのつまみを回して、独りラジオドラマに耳を傾けていました。確かに、私の耳朶には彼独特の抑揚のある低音が今でも残っているのです。不思議だ…、何故こんなにも聴くものの記憶に残る声だろうか。
徳川夢声は『話術』(白揚社、2003年発行)で、≪物語放送≫の話術のコツをこう書いています。・・・原作は、もちろん尊重しなければならないが、もともと放送ということを念頭において書かれたものではないからそれを放送用に造りかえる、ということは、私の自由であるはずだ。つまり眼で読む文章を耳で聞く文章にかえるのである。たとえば吉川英治氏の『宮本武蔵』で、「思い出したーこの辺の浦々や島は、天暦の昔、九郎判官殿や、平知盛卿などの戦の跡だの」と、武蔵が船頭と語る件がある。眼で読めばこの「思い出した」がオカしくない。しかし私はこの「思い出したを「ふーむ」という声の響きに、思い出した感じを含ませる。聞いていて、そのほうが自然なのである。― 舷から真っ蒼な海水の流紋に…。この「舷」を私は、ただの「流れ」にかえる。眼で眺めれば「流紋」とは面白い文字であるが、これを耳で「リューモン」と聞いたとき、おそらくわかる人は幾人もあるまい。― 「武蔵か」巌流から呼びかけた。彼は、先を越して、水際に立ちはだかった。これを私は次のように替える。― 「武蔵か」巌流は先を越して、水際に立ちはだかった。なぜかというと「武蔵かッ」という呼びかけは、声で表わせるものだから呼びかけたという説明の言葉は要らないからである・・・と、書いています。原作に自分の解釈と言葉で脚色するのが、夢声の物語話術のようです。
三國一朗氏が、『徳川夢声とその時代』(講談社、昭和61年発行)で、同時代のラジオ放送を回想しています。ラジオ文化に共感した人間だけが語りえる内容です。・・・武蔵といえば夢声、夢声といえば武蔵を連想した時期は、たしかにあった。現在でも「トクガワムセイ」の声帯模写(古川ロッパによる造語)といえば、「ムサシ」の一くさりがよく出る。その吉川英治作「宮本武蔵」を夢声がはじめて放送したのは昭和十四年九月十九日(『放送話術二十七年』)だったが、当時は後年それほど好評を得ようとは全く予想せず、「至極平凡な気分で放送して」いた。・・・それは十五年四月で終わり、十八年に再開のときから夢声の「独演」なった。その「宮本武蔵」も敗戦の年の一月十五日で終わる。「雪の夜長き武蔵を終わりけり」が、そのときの夢声の句であった。しかし、戦後の民放では、まず「ラジオ東京」(TBSラジオ)が、ついで「ラジオ関東」が、それぞれ夢声の「武蔵」を放送しはじめる。とくに「ラジオ関東」の放送は全篇ノーカットで、後日レコードにもなっている。このノーカットの朗読は、昭和三十六年十二月十一日から三十八年九月十七日、一年九ヶ月にわたって放送、原作の吉川英治は、入院中の病院のベッドでこれを聴いていたが、その終了を待たず、昭和三十七年九月七日、七十歳で歿した。以上は、、どれもラジオによる夢声の「武蔵」だが、昭和二十八年一月十九日、夢声はまだ内幸町時代のNHKのテレビスタジオで、はじめて『宮本武蔵』の「茶漬」を口演する。これが夢声のテレビ初出演である・・・(P211〜P212より引用)と書いています。たしかに私の耳に夢声の「武蔵」の朗読の声と響きが懐かしく響いていても可笑しくない時代背景です。果たして、幻聴か?それとも録音か、ドキュメントの類の録画を見たのか…。
渥美清も亡くなりました。映画「フーテンの寅さん」シリーズの中で見る寅さんの口上が私は好きでした。日本各地の祭りから祭りを渡り歩き、祭囃子の賑やかな境内で口八丁手八丁の口上で、物を売りさばく露天商が寅さんのやくざな商売でした。…私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します…。渥美清のCD≪渥美清ベスト16≫(日本クラウン、1994年)には、このフーテンの寅さんが映画で見せる露天商独特の口上が、「渥美清の啖呵売り(一)」「渥美清の啖呵売り(二)」として収録されています。…ならんだ数字がまず一つ。ものの始まりが一ならば、国の始まりが大和の国、島の始まり淡路島、泥棒の始まりが石川五右衛門、助べえの始まりがこのおじさん…。(ワーと笑い)。ここにも口承の文化がありました。立て板に水のようにペラペラと、次から次へと、言葉をもじり言葉をひねり、駄洒落に下ねた、粋な口上をまくしたてる…。添田智道氏は、てきやの起源と正体を中国の≪神農≫から説き起こした、「てきや(香具師)の生活」(雄山閣)という、面白い本を書いています。…<てきや>とよばれる 世のともどちよ 神農を祖とする人たちよ 路ばたのささやかな商いで 世の人の役に立ち、自らの生計も立て この国のはじまるときから、ながいながい時代を 世紀を 生きぬき、生きついできた 人たちよ…と、賛美しています。
文化の根底には長い長い口承文化と言うものがありました。私たちの文化は文字に記録される前に、人間の記憶から記憶に、音声の言葉によって伝承され、人から人へ、母親から子供へ、お爺ちゃんから孫へ、父親から息子へと語り継がれ、口承されました。歴史の叙述でさえそうでした。古事記は碑田阿礼が記憶していた「歴史物語」を、太安万侶が文字に書き残したものです。ヘシオドスの歴史叙事詩や、ギリシャ悲劇でさえも文字で書かれたものではありません。私たち都市生活者の耳の記憶は、もう母体のような言葉と、意味がはじける集合的な無意識を失い、古代からの語りかけを聞かなくなってしまいました。
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★死の文化論、「メメント・モリ(死を忘れるな)/死の記号学序」のブログ。http://blog.mag2.com/m/log/0000221477/
★ファンタジーノベル『ひまわり先生、事件です!』。https://blog.mag2.com/m/log/0000207360/
★短編掌説≪小説かもしれない・・・≫の連載を始めました。都市生活者の心を手のひらにのせて、転がして遊ぶ小さな心の言葉をお届けします。http://ameblo.jp/sasuganogyosui/entry-10056773529.html
