[ 旅行 ]

 

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     ― もっと知りたい京都 ―                 


 

         京都の名所・見所をあなたと一緒に !

                          
                                                    日夏 もえ子
 
                         71号 2007.12.19


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  <<<石水院の南縁側からは、水墨山水画の世界が開けていました! >>>
                                               
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         単立寺院     開基→ 明恵上人  山号→ 栂尾山

          右京区梅ヶ畑栂尾町8  075-861-4204

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       ☆ 目次 
               1. 石水院(国宝)            
          2. 高山寺の歴史        
                 3. 栂尾茶園(とがのお)

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 私は20071210日の午前11時ごろ、京都市街から周山街道(国道162)を車で北西に向かい、清滝川の清流と北山杉が続く丹波高原の山里の高雄(高尾)から槇尾(まきのお)を経て、最奥の栂尾(とがのを)にある高山寺(栂尾山高山寺)を訪れました。

 

 高尾・槇尾・栂尾は三尾(さんび)とも呼ばれ、紅葉の名所としても名高く、神護寺・西明寺などの名刹が点在しています。

 

 高山寺の表参道は、老松・小杉・楓などの木々が風情ある並木道を形成していました。

 
 誰もいない境内を歩むと、まもなく東側に高山寺を再興された明恵上人(高弁1173-1232)1206(建永元)に上賀茂の草庵にいた頃に後鳥羽上皇から学問所を贈られ、禅堂とした庵室の石水院(国宝)が姿を現しました。 


 私は入母屋造・柿葺の正面5
間、側面が3間と4間で寝殿造風の簡素な鎌倉時代初期住宅の面影がみられる石水院の玄関に上がりました。

 

 石水院は改造部分も多いと伝えられていますが、正面の板張りの広縁と軒の造りは鎌倉時代の豪壮さを表わし、さらに周りに用いられた蔀戸(しとみど)が風雅さを漂わせていました。

 

 また広縁の先に菱格子戸があり、その上の欄間には蟇股(かえるまた)が飾られ、背景には緑の木々が望め美を奏でていたように思えました。

 

 南面長押(なげし)の上には力強く且つすっきりした後鳥羽上皇の勅額の「日出先照高山之寺」が西面には鉄斎の額「石水院」が掛けてありました。

 畳敷きの室内には、国宝の「明恵上人樹上坐禅像」(赤松に坐る)が飾ってありました(模写)

  (上人の弟子の恵日房成忍〔えにちぼうじょうにん〕が描いたものと伝えられています) 


 坐禅をしている明恵上人の目は、細くうっすらと開け眠った様にも見えますが、同行してくれたガイドさんから無我の胸中になるにはこの姿が良いとの説明を受けました。

 

 明恵上人(みょうえ)は、晩年の10年間をほとんど高山寺裏山の楞伽山(りょうがさん)中の草庵や赤松の座禅所で過ごしたと云われています。

【参照: 栂尾山高山寺 発行 高山寺 】

 

 さて、あまりにも名高い「鳥獣人物戯画」4(国宝)のレプリカがありました。

〔鳥羽僧正覚猷〔かくゆう10531140 天台座主〕筆と伝えられます)

 

 1.2巻は東京国立博物館へ、3.4巻は京都国立博物館へ寄託されているそうです。


 諧謔性に富んだ兎・蛙・猿などの動物達の生活が墨画で描かれ、1巻は水泳・賭弓(のりゆみ)・出立・横死・田楽・相撲・双六・法会・布施の巻きに分かれていました(掲示)

 

 いずれも生き生きとして、ユーモアたっぷりで微笑ましかったですよ。

 

 ( ちょうど同じ日に東京六本木のミッドタウン内にあるサントリー美術館で「鳥獣人物戯画」(実物)が展示されていたことを鑑賞した知人から後日聞きました)

 

 また、桧の素朴のままの明恵上人愛玩の木彫狗児(子犬・伝、仏師快慶作)が飾ってあり、目には玉眼が入っていました。

 

 微笑ましい動物達の姿を通して明恵上人の心の豊かさが伝わってくるようでした。

 

 石水院の畳に座して南の縁側越に観た光景は、一幅の絵を観ているようで今も忘れることは出来ません。

 

 手前に境内の赤松が望め、さらに清滝川を隔てて真正面に円い形の向山が浮び、それは圧巻でした。

 

 太い茶色の柱と柱の間から見る目の前の自然の風景は得がたいものに思えました。

 

 私は余韻覚めやらぬ心地で境内を巡ることになりました。

 

 ここで高山寺の歴史と明恵上人について、ちょっと触れてみますね。

 

 高山寺は奈良時代の末の774(宝亀5)に勅願により開かれ、「神願寺都賀尾坊」(とがのおぼう)と称したそうですが、平安時代の末からは神護寺の別院となり、さらに1206(建永元)に明恵上人が後鳥羽上皇から華厳道場の地として栂尾を与えられ高山寺を華厳宗の寺として再興したと伝えられています。

 

 寺号は“日出先照高山寺”(ひいでてまずこうざんのてらをてらす)と云う後鳥羽上皇の勅額(華厳経からとった一句)から付けられたと云われています。

 

 明恵上人は、紀州有田川の流域の石垣吉原の平家一門の武家に生まれましたが、幼くして父母に死別して、母方の叔父にあたる高雄山神護寺の上覚上人のもとで仏門に入ったと云われます。

 

 また、神護寺を再興したと云われる文覚上人(俗名・遠藤盛遠)に教えを受けたと伝えられています。

 

 明恵上人は戒律を重んじ、奈良の南都仏教(旧仏教)の復興に力を注ぎ、特に華厳宗を中興し、鎌倉新仏教に対抗したと云われています。

 

 明恵上人の著書「摧邪輪」(さいじゃりん)は、法然の「選択本願念仏集」(せんじゃく)を激しく攻撃し、鎌倉新仏教に対する理論的批判として著名だそうです。

【参照: 日本史事典 旺文社】

 

 さて、石水院を出ると間もなく左手に「日本最古之茶園」の石碑が立つ栂尾茶園があり、垣根の内側にはお茶の木がいっぱい植えてありました。

 

 鎌倉初期に栄西禅師から贈られた宋の茶種を明恵上人が高山寺の対岸の深瀬三本木に植えたのが栂尾茶園の始まりと云われ、宇治のお茶(跡影園あしかげえん)はここから移植されたものと伝えられています。【参照: 栂尾山高山寺 発行 高山寺】


 宇治の萬福寺総門前には明恵上人の次の様な歌碑が立っているそうです。

 

都賀山の尾上の茶の木分け植えて
跡ぞ生うべし駒の跡影


 (
お茶の植え方を知らない村人に馬を歩かせその足跡の間隔に茶を植えることを教えたと云われています)

 

 毎年118日には、宇治の製造業者から新茶が明恵上人廟前に献上されると云うことです。

 

 茶園の東北に明恵上人が晩年に禅河院の庵室を営み住坊としていたと云われる跡地に建てられた簡素な開山堂がありました(享保年間1717頃再建)

 

 もとの住坊内部には弟子達により等身の明恵上人座像(重文)が安置され、上人が60歳で示寂されてからも、お弟子さん達が硯水を供し、師に対する礼を尽したと伝えられています。

 

 開山堂背後の高台・楞伽山(りょうがさん)の懐に明恵上人の御廟がありました。

 

 (楞伽山→栂尾の山を釈迦の仏跡になぞらえて明恵上人が付けたと云われます)

 

 御廟前には、1基の五輪石塔婆が建っていました。

 

 境内にはお釈迦さまの瑞祥七相を刻んだ仏足石がありましたが、明恵上人は深い釈迦信仰をもっていたと云われています。

 【参照: 栂尾山高山寺 発行 高山寺 】

 

 また本尊の釈迦如来像を祀る1634(寛永11)に御室仁和寺の御堂を移したと伝えられる入母屋造・銅板葺きの立派な金堂が佇んでいました。

 (金堂→表参道からまっすぐに進み正面石段を上がったところ)

 

 金堂のすぐ西側には宝塔が建っていましたが、裏面には明恵上人750回忌建立と刻まれていました。

 

 上人は、釈迦を師とし仏教の原点を見つめ、山中の草庵に籠って仏道と思索と著述(夢記)などに専念し高山寺で60年の生涯を閉じたと云われています。

 

 それでは明恵上人の遺訓をご紹介して結びといたしますね。

 

阿留辺幾夜宇和 ” (あるべきようわ)

 

僧は僧らしく、農民は農民らしく、武士は武士らしく、己の道に励みなさい。

 他人を羨むことなく、あるべき様に生きなさい」という教えとも伝えられています。

 

参考文献「栂尾山 高山寺」 発行 高山寺
「交通公社の新日本ガイド15.京都」

     「日本の故郷京都の見所」大橋昭三

          「日本史事典」旺文社

                    写真:   高山寺「石水院」

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 ■高山寺法皷台文庫

 高山寺は、史跡1件、国宝8件、重要文化財47件をはじめ、多くの文化財を
所有しているそうです。
  美術品の多くは、国立博物館に寄託されていますが、古文書・古記録・聖経・典籍の多くはこの文庫に保管されていると云われます。

  国宝→佛眼佛母像
      華厳宗祖師絵伝絵巻
 

  重文→乾漆薬師如来像
      夢記(明恵上人が綴った夢の記録)
 

 ■ 承久の乱(1221年承久3) 

 後鳥羽上皇
(高倉天皇第4皇子 在位1183-98 1198から院政)は、院直属の北面の武士の他に西面の武士を置いて、僧兵勢力や畿内・西国の武士や東国の武士の一部などを味方にして、幕府と対決して朝廷の勢力を挽回しようとしていました。

  上皇に忠誠心が厚い鎌倉幕府3代将軍の実朝が頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺されたのを契機として公武関係は険悪になり、12215月、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下し承久の乱が勃発したと云われます。

  しかし、上皇の期待に反して東国武士の結束は強く、義時の子の泰時・時房らが率いる約
20万の幕府軍は京都を攻め1ヵ月で圧倒的な勝利を得たと伝えられています。

 (幕府の尼将軍と云われる北条政子は、動揺する御家人達を集め、頼朝以来のご恩は山よりも高く、海よりも深いと説き御家人の結束を促したとも云われています)

  鎌倉幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に順徳上皇を佐渡に土御門上皇を土佐に配流したと伝えられています。

 乱後、幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷の監視と京都の治安維持尾張 (のち三) 以西諸国を統括したので西国支配は強まったと云われます。

 また、上皇方の所領3000ヵ所も没収されたと伝えられています。

  【参照 新日本史史料集】桐原書店 

 

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 ■編集後記

 先ほど“まぐまぐ大賞'の発表がありましたが
 「もっと知りたい京都」は力およびませんでした。

 応援していただいた読者の皆様に心より感謝申し上げます。

 有難うございました。 

 12月9日に京都観光文化検定試験1級を深草の龍谷大学にて受けました。

 難易度はかなり高く合格はいつのことになるやら・・・と思いました。 

   
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 ・ 編集・発行 日夏 もえ子
 
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 http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/ ・HP「越境の映画監督・日夏英太郎」

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 moeko_sachiko2000@yahoo.co.jp 『もっと知りたい京都』を読んで


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