[ 旅行 ]

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                                                               日夏 もえ子
                                  73号 2008.1.16

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 <<<三国伝来生身釈迦如来立像は、お釈迦様が生きている様でした! >>>
                                               
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       清凉寺   浄土宗  開基→ ちょう然   山号→五台山

       右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町      075-861-0343 
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          ☆ 目次 
                  1. 源融公           
            2.清凉寺の歴史
           3.三国伝来生身釈迦如来立像
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 私は2007年6月7日の午後3時ごろ、風光明媚な嵐山の渡月橋から北に徒歩約15分ほどの地にある浄土宗の古刹・清凉寺を訪れました。

 楼上に十六羅漢を祀る仁王門(1776年・安永6再建)が堂々とした風貌で佇んでいました。 

  清凉寺は嵯峨釈迦堂の名で親しまれています。

 清凉寺の北には、愛宕神社に至る参詣道の愛宕街道が延び、そこには嵯峨野の真髄を表しているとも云える郷愁を誘う鳥居本の街並みと化野念仏寺、さらにその先に愛宕念仏寺などがあります。

 また清凉寺の北東には嵯峨天皇の離宮だった大覚寺と、さらに北に想い出草ノートで知られる女性に優しい直指庵がひっそりと佇んでいます。

 さて、清凉寺は嵯峨天皇の12皇子・左大臣源融(822-95みなもとのとおる)の別荘・棲霞観(せいかかん)の跡と云われ、源融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息の湛・昇兄弟が造り、阿弥陀堂を栖霞観内に建立して祀り棲霞寺と称したと伝えられています。

 阿弥陀坐像は融公が亡くなる直前に自分の顔に似せて作らせたという伝説があり、一名嵯峨光仏と呼ばれ貞観風の量感に満ちているとか・・・。

 また、脇侍の観音菩薩・勢至菩薩像は胸前で印を結び、これは真言密教の金剛界に基づいていると云われます(三尊ともに檜の一木造)。
 【参照: 霊宝館特別公開  五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂)】

  945年(天慶8)には重明親王妃(父 醍醐天皇皇子)が藤原氏に寄進するため新堂を建立し、等身の釈迦像を安置したので釈迦堂と呼ばれる様になったとも云われています。

 その後、東大寺〔南都・華厳宗)僧のちょう然が987年に宋から帰国して、京都の西北にそびえる愛宕山を中国の五台山に見立て、京都の東北の延暦寺に匹敵する伽藍を建設する夢を描き、宋の釈迦如来立像を本尊とする清凉寺建立を朝廷に願い出たそうですが、なかなか許可が降りず、志半ばで1016年(長和5)に78歳で入寂したと伝えられています。

 清凉寺は入宋にも同行した弟子の盛算(じょうざん)がちょう然の遺志を継いで、棲霞寺内の釈迦堂に宋から持ち帰った三国伝来釈迦如来像を祀り、寺名を五台山清凉寺としたのが始まりと云われます(華厳宗)。

 それでは当時の仏教界や源融公などについて触れますね。

 摂関期の仏教は、天台・真言宗が加持祈祷を通じて現世の利益を求める貴族の帰依を受けていましたが、阿弥陀仏を信仰し来世において極楽浄土に往生することを願う浄土教の思想が興ってきていました。

 10世紀半ばには空也上人が京の市で浄土念仏(南無阿弥陀仏)を唱え、源信(942-1017) が著書の「往生要集」により念仏往生の教えを説くと浄土教は貴族と庶民の間に普及したと伝えられています。

 11世紀になると、釈迦の入滅後、正法・像法の世を経て1052年(永承7)には末法の世に入り、仏法が衰え災いの多い世の中になるという末法思想の広まりにより、貴族たちは巨費を投じて阿弥陀堂を造営し、現世に極楽浄土の姿を具現しょうとしたと云われます。 (浄瑠璃寺九体阿弥陀堂・平等院鳳凰堂〔定朝作の阿弥陀如来像を安置した阿弥陀堂〕など)

 源融も、来世において極楽浄土に往生することを願う阿弥陀仏信仰を持っていたと云われます。

 源融は仁明天皇の養子となって臣籍に下り源姓となり、884年(元慶8)陽成天皇廃位のときに身内として帝位を望んだが摂政藤原基経に臣籍を理由に拒まれたと伝えられています。

 (源融は一説には源氏物語の主人公の光源氏【父桐壺の帝・母桐壺の更衣】のモデルとも云われ、源氏物語では冷泉帝の父となっています)

 東六条に豪奢な邸宅の河原院(現在の渉成院) を造り、歌枕として知られる陸奥塩釜の浦の風物を模した塩釜をたて、河原左大臣と呼ばれ風流人としても知られています。
     【参照:日本の古典に親しむ2.百人一首 大岡信 世界文化社】

 源融は宇治にも別荘を持ち、これを関白・藤原道長に譲ったと伝えられ道長の死後に頼道が浄土信仰を背景に極楽浄土をこの世に再現した阿弥陀堂(平等院鳳凰堂)を1053年(天喜元)に建立し、定朝作の阿弥陀如来像を祀ったと伝えられています。

 ここで源融(河原左大臣)の和歌をご紹介いたしますね。 

   みちのくの しのぶもぢずり たれ故に(ゆえ)   
       乱れそめにし われならなくに       
                          
河原左大臣 (古今集 恋四724)

 (陸奥の信夫〔しのぶ〕もぢずり― 東北地方信夫郡で作られる山藍を用い、石を刻んでその上で摺(す)った乱れ模様の摺衣(すりごろも)を意味するとも云われます )

 〔誰ゆえに心がこんなに乱れるのでしょうか。あなたは私を疑っておいでだそうですが、あなたよりほかの誰を思ってこんなに心を乱すものですか〕

  さて、ここからは三国伝来釈迦如来像(清凉寺式釈迦如来模刻像) とちょう然のお話に入りますね。

 釈迦如来立像は釈迦在世の頃、釈迦が忉利天(とうりてん)に上って母の麻耶のために法を説いたとき、インドの優塡王(うでんおう)が釈迦の不在を悲しんで37歳のときの釈迦の姿を像に彫らせたと伝えられ(優塡王所蔵栴檀釈迦瑞像)、これが篤く信仰されてインドから中国に伝わり、ちょう然が983年(永観元)に渡宋した当時は中国宋の宮廷((980年建国 太宗皇帝)の手許にあったと云われます。

 ちょう然は12月に宋の首都べん京に入り、太宗皇帝に謁見して、栴檀釈迦瑞像礼拝(せんだん)も叶い、種々の便宜を与えられてから文殊菩薩の住地とされ仏教の霊場と崇拝される中国の五台山を巡礼したと伝えられています。

 ちょう然は985年7月から8月に亘り、中国台州の開元寺において栴檀釈迦瑞像を模刻(作者 張延皎〔えんこう〕并弟延襲〔えんしゅう 〕)させて、釈迦像の中に日々愛用していた金光明最勝王経・自分の臍の緒・版画弥勒菩薩像・瑞像造立記・内臓の五臓模型など26品目を詰め986年に日本に持ち帰ったと云われます。 

 当時、日本人の渡航は禁止されていました〔894年(寛平6)に菅原道真の建議によって遣唐使船を廃止〕が、巡礼を目的とする僧には許されていたそうです。

 ちょう然は宋からやってきた商人の船に同乗し、大陸に渡って宋の文物を伝えましたが、なかでも釈迦如来像は熱狂的な信仰を得た云われ、また経典は摂関家(藤原道長)に献上されたとも伝えられています。【参照: 詳説日本史 山川出版社】

 1953年(昭和28年)には、ちょう然が納めた上記の瑞像造立記などの文書・五色のシルクで作られた五臓六腑(内臓器官)などが釈迦如来立像の体内から出てきて正確な造像年代が判明し国宝に指定されました。
 五臓六腑は世界最古の内臓模型として貴重なものとも云われています)
  【参照: 霊宝館特別公開  五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂)】

 1156年(保元元)に、24歳の法然上人が清凉寺釈迦堂に参籠し、天台教学を脱して真の宗教的覚醒を求めている法然は、この像のもつ生身の姿と放たれる光明によって専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道に目覚めたとも云われています。

 (法然は、比叡山で天台宗を学び、鎌倉新仏教の浄土宗〔平安時代の浄土教の系統をひく〕を興し、南無阿弥陀仏の念仏をひたすら唱えれば極楽往生できると説き、貴族だけでなく武士や庶民にも広がって行きました。著書に「選択本願念仏集」)

 清凉寺の生身の釈迦如来像への貴族、民衆の信仰は篤く、清凉寺は釈迦如来像の前で念仏を唱える浄土念仏・専修念仏の道場として次第に隆盛していったそうです。

 室町中期には融通念仏の道場として知られるようになったと云われます。

 室町時代後期の1530年(享禄3)に円誉が当寺に入り、十二時の念仏を勤修してから清凉寺は浄土宗の寺になったと伝えられています。

 時は下り江戸時代になると釈迦如来像は江戸にまで出開帳するまでになったと云われます。

 清凉寺の歴史と物語に多くの時間を費やしてしまいましたので、ここからは簡単に境内の模様と釈迦如来像の感想を記述いたします。

 境内に入ると中央北に本堂が建ち、手前左手うっそうとした緑の繁みの中に源融公の墓の宝篋印塔や嵯峨天皇・壇林皇后の石塔(いずれも供養塔)、更にちょう然上人の墓などが並んでいました。

 また1980年(昭和55)に大坂城三の丸跡地の発掘現場から出土した豊臣秀頼公首塚があり、私は何ともいえない哀れさを感じました。

 境外墓地には、遊女夕霧の墓があるとのことでした。

 本堂の東には、もと棲霞寺の本堂である阿弥陀堂が西面して立ち、本尊で清凉寺最古の阿弥陀三尊坐像(国宝・平安前期896年)を祀っていたそうです(現在は霊宝館に安置)。

 さて私は本堂に上り、念願叶って清凉寺式釈迦如来立像(国宝)に対面させていただきました。

 三国伝来生身釈迦如来立像と云われるだけあって、異国情緒があふれ可愛くて美しい如来様でした。 

 ずっと瞑想していたお釈迦様がついに悟りをひらき、パッと立ち上がってこれから説法にいこうとするお姿とも云われています。 

 高さは160センチメートル、大きく渦を巻いた様な頭髪(ガンダーラ様式)、首の下で綺麗な半円を描く模様、両肩にかかる通肩という袈裟の着方(インドグプタ様式)、そして裾が三段に重なっていました。
  (通肩→ 外へ托鉢に出たり、山の中で坐禅を組んだりするときの着方)

 目には黒い珠、耳には水晶をはめ込んでいました。

 私は、お釈迦さまの生前のお姿に出会えたようで、とても感激いたしました。
 (今も釈迦如来像の絵葉書をうっとりと眺めながら、この文章を書いています)

 清凉寺式釈迦如来立像は全国で50体近く知られ、宇治三室戸寺・知恩院宝仏殿・奈良西大寺・奈良博物館・唐招提寺・鎌倉極楽寺などにもあるそうです。

 現在の立派な本堂は、1701年(元禄14)に徳川5代将軍綱吉の母・佳昌院(3代将軍家光側室)や大阪の豪商泉屋(後の住友)吉左衛門らにより発起再建されたものと伝えられています。

  私は本堂裏手にある放生池の中小島に架かる石橋や燈籠、緑の木々やピンク色の美しいつつじの刈込みなど、華麗な離宮の庭園を心ゆくまで堪能させていただき清凉寺を後にしました。

          
           参照:  「霊宝館特別公開  五台山 清凉寺(嵯峨釈迦堂)」
                「日本の古典に親しむ2.百人一首」 大岡信 世界文化社
                「清凉寺」 佐々木剛三 中央公論美術出版                       
                「日本の故郷 京都の見所」大橋 昭三。
                「詳説日本史」 山川出版社

       ちょう然のちょう→大の下に周と書きますが、編集面では不正入力となりましたので、
              やむを得ずひらがなで記しました。            

             写真: 清凉寺山門

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  重要文化財 

  文殊菩薩騎獅像 普賢菩薩騎象像 (何れも平安後期10世紀末)

  釈迦十大弟子像(平安後期11世紀初) 三国伝来釈迦如来の異国的雰囲気にあわせて作った。
 足は靴。通肩は少なく右肩を出す(偏袒右肩へんたんうけん)  

  兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてん・平安後期)

   四天王立像(りゅうぞう 平安後期10世紀後半)

  ・絵画
   十六羅漢図(国宝 中国宋時代) 釈迦の弟子達を描いた。

    清凉寺縁起(重文 伝狩野元信)
   盛算が中国で写してきた釈迦像に関する記録を絵巻物にしたもの。

  ■お松明式(たいまつ) 3月15日夜

   本堂前に3基の大松明を点火し、その火勢で米の豊凶を占う行事。

  ■嵯峨大念仏狂言 4月

   本堂左手の狂言堂において演じられます。

  ■お身拭式(おみぬぐい) 4月19日

   本尊の釈迦如来立像を白布で拭き清める行事です。 

  ■森嘉(嵯峨豆腐で有名) 

   清凉寺山門東側にある豆腐製造元で、嵯峨野の寺院・料理屋さんなどに
  出荷されているそうです。

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 ■編集後記

  清凉寺は主人公が源融公とちょう然上人の2人ということで
   
   記述が長くなってしまいました♪

  それでは19年度1級の問題で〜す。

 1.延暦13年(794)「この国、山河襟帯、自然に城を作す。山背国を改め山城国となすべし・・・    
(  )と号す」という詔が出された。

 2.貞観元(859)に創建された神社(  )は、朝廷や武家の崇敬を集め、9月15日には三勅祭の 一つが行われる。

 3.「古今和歌集」の選者の一人(  )は、「土佐日記」を著した。

  私は2.3.を間違えました。3を正解できなかったのは悔やまれます。

  解答→1.平安京 2.岩清水八幡宮 3.紀貫之

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 ・ 編集・発行 日夏 もえ子
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 http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/ ・HP「越境の映画監督・日夏英太郎」

     http://www.moeko2007.com/     ・HP「京都歴史散歩」

  moeko_sachiko2000@yahoo.co.jp 『もっと知りたい京都』を読んで

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