[ 旅行 ]

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            ― もっと知りたい京都 ―                 


 

         京都の名所・見所をあなたと一緒に !

                          
                                                   
                                                    日夏 もえ子
                          77号 2008.3.19

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 <<<ほととぎす治承寿永の御国母 三十にして経よます寺 与謝野晶子>>>
                                               
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         天台宗 開基→ 聖徳太子  山号→ 清香山


          左京区大原草生町676    075-744-3341


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       ☆ 目次 
               1.平家物語「大原御幸」            
          2.寂光院本堂
         3.庵跡
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私は2008311日の午前10時ごろ、上賀茂神社から鞍馬街道を車で北に向かい途中市原から静原街道に入り、かつて後白河法皇がたどった江文峠(えぶみとうげ)を越えて京都市北郊の大原草生(くさお) の里にある寂光院を訪れました。

 

 (京都市街から敦賀街道(ほぼ高野川に沿うかたち)を北上し高野川の上流、大原川の西に向かうコースが一般的)

 

 大原は天台声明の聖たち修行の地であり、また貴人の隠棲地としても知られています。

 

 寂光院は、建礼門院徳子(1155-1213平清盛二女)1185(文治元)秋に閑居し、同年3月の源平争乱(治承・寿永の乱)壇の浦(長門)で源義経軍に敗れた平氏一門と、祖母の平時子に抱かれ入水した我が子安徳天皇(1178-85高倉天皇第1皇子)の菩提を弔う日々を過ごしたことで歴史上著名です。

 

 私はかつて、建礼門院が阿証房印誓のもとで落飾して尼になった東山の長楽寺を訪ね、壇の浦で入水した建礼門院を義経軍の兵士が熊手で髪を引っ掛けて引き上げる場面の絵巻を目にして、なんとも痛ましいお姿に絶句したことがありましたが、涙なしには寂光院および建礼門院を語ることは出来そうにもありません。

 

「平家物語」(12巻)最後の灌頂の巻(かんちょう)「大原御幸」は、後白河法皇が1186(文治2)4月下旬に徳大寺・花山院などの公卿6人と殿上人・北面の武士など総勢20数名程を連れて鞍馬街道から静市・江文峠を越えてお忍びで大原寂光院の建礼門院を訪ねる場面が描かれていて、切なく哀しい情景でもあります。

 

( 下記は:平家物語灌頂の巻「女院出家」「大原入」「大原御幸」「六道の沙汰」「女院往生」 ・京都大原「 寂光院の歴史と文化」寂光院 ・ウエブサイト「平徳子」ウィキペデイア参照させていただきました)

 

 法皇は、寂光院本堂前西側庭園の池(心字池)の中島の松(千年の姫小松)にかかっている藤がうら紫に咲いている色、遅咲きの桜などにお心をとめ一首詠みました。

 

 池水に 汀(みぎわ)の桜 散りしきて

    波の花こそ さかりなりけれ


 (
現在も昔のままに心字池・汀の桜・鐘楼などがあり当時を偲ばせていますが、樹齢千年の姫小松は本堂の火災の影響で2004年に枯死、翌年に歌碑を建立してご神木として祀ってあります)

 

 法皇が建礼門院の粗末な庵に目をやると、軒には蔦が這い、屋根を葺いた杉板も腐り雨露をしのげるのかと心細く思える程で、庵の周りは雑草で覆われていました。

 

 法皇が案内を請うと庵から建礼門院侍女で老尼の阿波内侍(藤原信西の孫・貞憲の娘?)が出てきて、女院は翠黛山(すいたい)に花を摘みに行ったことを告げました。


 (
阿波内侍は大原女のモデルとも伝えられています。

 大原女→平安中期より薪や柴を頭にのせて都で売り歩いた女行商人。

 紺地に絣柄(かすり)の前垂れ、御所染めの淡いピンクの帯、白い脚絆に足袋などのいでたちで大原から都まで行き行商)

 

 庵の襖の色紙には建礼門院の歌と思われる一首が書かれていました。

 

   思ひきや 深山の奥に住居(すまい)して

       雲井の月を よそに見んとは

 

 お部屋は阿弥陀三尊を安置した仏間と竹竿の上に麻衣や紙の寝衣をかけた寝所のみで、法皇とお供の者たちの哀れを誘いました。

 

 やがて、仏に供える花を摘んだ黒染めの法衣を着た建礼門院と柴に薪を携えた大納言佐(大納言藤原邦綱次女・平重衡の妻)が山から降りてきました。

 

 (柴漬け→建礼門院がお食事が進むように村人達が考え提供したのが由来とも云われています)


 建礼門院は、義父であり実質的には平氏追討の命令を出したとされる後白河法皇の御幸に気付きお会いすることを躊躇していましたが阿波内侍に説得され庵で法皇と対面されました。


 (
→源平の争乱〔1180-85  後白河法皇第3皇子以仁王が平氏征討の令旨を発して、これに呼応して伊豆に流されていた源頼朝・信濃の木曾谷にいた源義仲各地の武士団などが立ち上がり5年に及ぶ治承寿永の乱が起こったと云われます)

 

 ― 平家一門を弔いながらの今の苦境は後世で成道するための喜びであり、釈迦のお弟子の一人となり日々のお勤めで六根を清浄にして阿弥陀三尊の来迎を待っております。

 

 太政大臣清盛の娘として生まれ天皇の母となり、わたしの栄耀栄華は天上界にも及ぶまいと思っていましたが、1180年に源平の合戦が始まり、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで木曾義仲に平維盛が敗れ義仲軍が入京したため、都落ちして京を懐かしみ悲しみました。


 海上を流浪し飢えと渇きに飢餓道の苦しみを受けました。そして壇の浦の戦いで二位尼
(母の平時子)は「波の下にも都がございます」と云うと先帝を抱いて海に沈み、先帝の面影は忘れようとしても忘れられません。残った人々の叫びは地獄の罪人のようでした ―

 

 建礼門院は六道になぞらえて自身の栄華と絶望の半生を語りました。 

 

「あなたは目前に六道をご覧になったのですね・・・」と後白河法皇が涙すると、供の者も皆涙を流したと云います。

 

 一日の終わりを告げる鐘の音が鳴り、法皇は建礼門院との別れを惜しみながら都にお帰りになりました。

 

 (六道→天道・人道・畜生・地獄・餓鬼・修羅の六つの世界をいい、六道には、それぞれのお地蔵様がおられて人々をお救いになるそうです)

 

 やがて、年月が過ぎ去り建礼門院は病になり1213(建保元)臨終のおり 「南無西方極楽浄土の阿弥陀如来、極楽浄土へお連れください」と念仏を唱えられると、西方から紫雲がたなびき、異香が庵室に満ちて空から妙なる音楽が聞こえてきたと平家物語は伝えます。

 

 建礼門院は心安らかに、その生涯を閉じられたと云われます(59)

 

 阿波内侍と大納言佐に看取られながら・・・。

 

(高野川を挟んで寂光院の東側に金色の阿弥陀三尊像を安置する往生極楽院〔三千院〕があり、建礼門院様はその為ここ大原の地を選ばれたのではないか・・・との説もあるそうです


(
大納言佐=藤原輔子と夫の平重衡の再会と別れは「平家物語」の重要な場面と云われます)   

 

 それでは寂光院の説明に入りますね。

               

 寂光院は、聖徳太子(574-622)が父・用明天皇(在位585-587)の菩提を弔うために594(推古2)に建立されたと伝えられ、初代住職には聖徳太子の乳人の玉照姫(慧善比丘尼)が就任され、時は移り第2代に阿波内侍、第3第建礼門院と続き、現在まで法灯を女人が守ってきた尼寺と伝えられます。

 

 寂光院の直ぐ東隣の山に(石段を幾つも登る)「建礼門院西稜」が佇んでいました。

 

 私は謹んで幸薄い建礼門院様のご冥福を祈らせていただきました。

 

 御陵の向かい側には、阿波内侍をはじめとする建礼門院の侍女5人の墓地があると云う穏やかな翠黛山が望めました

 

 木立がゆれ、あたかも侍女達が女院を見守っている様に私には思えました。

 

 寂光院門前には茶店が並び賑やかな様相を呈していましたが、私は菊のご紋の彫られた小さな開き戸から入り、楓が迎える参道の石段を上って行くと、正面に寂光院と表示された風雅な山門が立っていました。

 山門手前右手には池と情緒的な弧雲(茶室)がありました。

 

 山門をくぐると5年の歳月を経て2005(平成17)62日に再建されたかつての面影漂うという本堂が正面に佇んでいました。

 (2000(平成12)59日の不審火により、1603(慶長8)に淀君が片桐且元を修理奉行として再興した三間四面の杮葺(こけらぶき)本堂は惜しくも焼失しました)

 

 本堂内には、聖徳太子作と伝えられる6万体の小さい地蔵尊に囲まれ“六万体地蔵と呼ばれた本尊地蔵菩薩立像 (重文) が安置され 、本尊の向かって左脇に建礼門院と右脇に阿波内侍張子像がありましたが焼失したと云われます。

 

 幸いに地蔵菩薩立像(2メートル50センチ) は表面は焼損しましたが、像内に納められていた5-11センチの三千体余の小地蔵菩薩像・法華経・香袋・横笛・宋銭・刀子などが発見され無事保存されたそうです。

 

 旧本尊の地蔵菩薩立像(現在も重文に指定)は樹脂硬化を施して高台にある収蔵庫に安置されているとのことでした。

 

 現在は財団法人美術院によって復元されたヒノキ材寄木造の、比較的きらびやかな新本尊地蔵菩薩立像が本堂に安置されていました。

 

 木造の新建礼門院像・新阿波内侍像(共に江里康慧作)は柔らかい中にも美しく、私の印象に残りました。

 

 本堂東横の庭園は三筋の滝音が伝わる優美な回遊式四方正面の庭で、昭和初めにドイツのハンブルグで万国博覧会が催された時に日本の庭園として出品されたそうです。

 

 また、本堂手前右に豊臣秀吉寄進と云われる南蛮鉄の五三の桐模様の雪見燈籠(桃山城にあった)が置かれ、存在感をはなっていました。

 

 さて、私が最も心うたれたのは、本堂の西側にある低い垣根で囲まれた中の苔むした地にある建礼門院のお住まい跡(御庵室跡碑)を眺めた時でした。

 

 幽玄・神秘さがただよっている様にも思えました。

 

 傍らには建礼門院様ご使用の井戸があり、清水が今も湧き出ていました。

 

 ここで建礼門院様はお暮らしになり、日々の修行に励まれ我が子安徳天皇と平家一門の菩提を弔っておられたのかと想像すると、私は切なさと人生の浮き沈みのはかなさを覚えました。

 

 私は平安後期の白河・鳥羽・後白河上皇の院政から保元・平治の乱に及び平氏政権の誕生、そして源平の争乱を経ての鎌倉幕府成立の影で多くの悲劇がうまれたことに思いをめぐらせました。

 

 歴史は今も繰り返されていると云えます。

 

 私は涙ながらに寂光院を後にしました。

                

                参考文献: 「平家物語灌頂の巻」
                 
京都大原「 寂光院の歴史と文化」寂光院  
                       「日本の故郷 京都の見所」大橋 昭三
                       ウエブサイト「平徳子」ウィキペデイア
   
                  写真:  寂光院本堂
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 ■編集後記

  建礼門院様の哀しみを想うとき、戦のむごさを感じます。

  建礼門院庵居跡を是非ご覧になることをお勧めいたします♪


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 ・ 編集・発行 日夏 もえ子
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