[ 旅行 ]

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          ― もっと知りたい京都 ―                 


 

         京都の名所・見所をあなたと一緒に !

                          
                                                   
                                                    日夏 もえ子
                          78号 2008.4.2

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 <<<虹の間から見た瑠璃光庭と往生極楽院の崇高さに息を呑みました! >>>
                                               
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        天台宗  開基→ 最澄(伝教大師)  山号→ 魚山


         左京区大原来迎院町540  075-744-2480


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       ☆ 目次 
               1.三千院の歴史            
          2.客殿・宸殿
         3.往生極楽院
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 私は2008311日の正午頃、敦賀街道の東にあり、南に呂川(りょかわ)・北に律川(りつかわ)が流れる大原の里の高台に位置する三千院を訪れました。


 (
大原はお経に節をつけて歌うようにお経を唱える声明(仏教音楽)の地なので呂川・律川の名も声明の音律から付けられたと云われます)

 

 呂川が流れる魚山橋(欄干が朱塗り)を渡ると石段上右手に立派な三千院の穴太積(あのう)石垣と白壁が望めました。


 (
穴太積→石組みを自然石の組み合わせのみで積み上げ、小石を詰め石として用いるもの。帰化人穴太衆が北九州・関東・北陸までの城の石組みに足跡を残しましたが、現在は大津市坂本1件だけが技術を継承しているそうです)

 

 境内西側の風格ある御殿門には三千院門跡と掲示されていました。


 三千院は伝教大師最澄(767-822)が比叡山延暦寺根本中堂を建立〔788年〔延暦7〕〕した際に東塔南谷の大きな梨の木の傍に一宇を構えたことに始まると伝えられています。

 

 860(貞観2)に承雲和尚(じょううん)が最澄自ら彫ったと云われる薬師如来像を安置して円融坊と称したと云われ、同年に清和天皇の命によって東坂本の梶井に里坊の円融院(後に円徳院と改称)を設けたと云われます。

 

 1130(大治5)最雲法親王(堀河天皇第2皇子)が円徳院の門主となってから梶井門跡(梨本門跡)と呼ばれ、妙法院・青蓮院とともに天台宗三門跡寺院の一つとなり代々法親王が住持されたと云われます。

 (天台宗五門跡→三千院・妙法院・青蓮院・曼殊院・毘沙門堂) 

 最雲法親王は1156(保元元)に天台宗最高位の天台座主に任命され、同年に比叡山北方の大原梶井門跡の政所(管理事務所)が設置されたと伝えられています。

 

 (梶井門跡政所→来迎院・勝林院などの寺院を管理・大原に住みついた念仏行者を監視)

 

 1871(明治4)に大原の政所に移転し本坊と定め、三千院と改称したと云われます。

 

 (明治維新の際の門跡であった昌仁法親王は還俗され新たに梨本宮家を起こされたそうです)


 三千院の名称は梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇筆の勅額「三千院」によると伝えられています。

   (梶井御殿→三千院は1.比叡山東塔円融坊2.坂本梶井3.東山小坂4.西ノ京山内5.舟岡山6.河原町(梶井御殿)7.大原と移転しましたが、1698(元禄11)門跡慈胤法親王が将軍綱吉から河原町御車小路に2万坪の寺地を与えられ梶井御殿を営まれました。梶井御殿跡地には現在京都府立医科大学と付属病院が建っています)

 「三千院故水谷教章門主のお言葉」
 三千院の
三千は天台宗の観心修行の根本教義であり、従って仏教の至極でもある「一念三千」に拠る。一念三千は、つぶさには「一念三千を具す」であり、また「一念即ち三千」でもある 

(
「一念三千」=人の日常心(一念) に宇宙存在の全ての在り方(三千)が含まれているとする教えで、天台宗の究極真理とされる)【参照 広辞苑】

 

 三千院は、金色の阿弥陀三尊坐像(国宝)を安置する往生極楽院(阿弥陀堂)があることで著名です。

 

 また境内には客殿・宸殿が立ち、客殿に面する聚碧園(しゅうへきえん)杉の木立杉苔を中心とした瑠璃光庭(有清園はその一部)2つの美しい池泉回遊式庭園があることでも知られています(いずれも江戸時代初期の作庭)

 

 私は期待に胸ふくらませて境内西側にある御殿門をくぐりました。

 

 三千院表玄関には「香時計」が置いてあり、朝灯した香の軌跡(減少)で時を知るという当時の洒落た英知にびっくり致しました。

 

 少し廊下を進むと傍らに“坪庭があり、竹が植えられほっとする空間を作り出していましたよ。

 

 (京の都では昔表玄関の間口の広さで課税、そのため“鰻の寝所と云って細長く建造したため健康上真ん中に“坪庭のスペースを設けたとも云われます。今でも西陣辺りで見られるそうです)

 

 廊下の先に客殿があり、平安時代から大原寺の政所(龍禅院殿)として使われてきましたが、16世紀末になり豊臣秀吉が第40代後龍禅院宮応胤(ごりゅうぜんいんのみやおういん)法親王の時に禁裏修復の余材で修築されたと伝えられています((後龍禅院殿)

 

 さらに大正初年に修補された各室の襖絵は、竹内栖鳳(せいほう1864-1943)の“'と題する大原の図など、当時の京都画壇を代表する五氏の筆によるものだそうです。

 

 客殿の南側には美しい平庭の聚碧園(しゅうへきえん)があり、芝法師琳賢(りんけん)の作庭で、江戸時代の武将で茶人の金森宗和(1584-1656)が自ら手を加えたと云われています。

 

 私は縁に座り、のんびりと音無しの滝よりの清流という池や丈の高い燈篭、冬でも凍らないという音愛(おとめ)・華厳の手水鉢などを観賞しました。

 

 (音無しの滝→律川の上流にある白糸をたらしたような美しい滝で、聖応大師が滝の音と声明が相乱れるのを恐れて呪文で水音を止めたと云われ、滝の名もこの伝説に由来)

 

 庭にはまだ雪が残っていました。

 

 築山越しには有清園の杉木立や往生極楽院が望めました。

 

 さて私は客殿から廊下伝いに宸殿(本堂)に渡りましたが、中の間正面長押上には第112霊元天皇(在位1663-86)の堂々とした太字の「三千院」の額が掲げてあり、本尊は伝教大師作と伝えられる薬師瑠璃光如来(秘仏)で、向かって右に歴代天皇・左に歴代法親王の尊牌をお祀りしていました(薬師瑠璃光如来→20029/8-10/8に開扉されたそうです)

 

 毎年530日には後白河法皇の時代から始められた歴代天皇の御懺法講(おせん・供養)などの声明による法要が行われているとのことでした。

 

 西の間には鎌倉時代の救世観世音菩薩像(ぐぜ・重文)・不動明王像(室町時代 重文)・五知を表徴する阿弥陀如来像(源信作)などを安置していました。

 

 (源信(恵心僧都 えしんそうず942-1017)→平安中期の天台僧。9歳で比叡山に登り、良源に師事し、顕密の学を修め「往生要集」を著して念仏往生の教えを説き、貴族や庶民に大きな影響を与えと云われます) 参照:日本史事典 旺文社

 

 東の間(虹の間)には玉座(高貴な方が座る)があり、天井は格天井で豪華な作りになっていました。


 正面床に書聖・王義之筆(おうぎし)による「()の大軸が掛けてありましたが、中国浙江省(せっこう)天台山国清寺の墨池左側に立っている碑の拓本だそうです。

 

 天台山は最澄・栄西・道元なども巡歴したと云われています。

 

 襖には下村観山(1882-1930かんざん)筆の天皇を太陽に見立て描いた虹の図があり、鴨居の上の壁にするところを釣襖として天井まで貫く大胆な構図がつとに有名とのことでした。

 

 虹の七彩も美しく、下方には水草が描かれていましたよ。

 

 私は虹の間から南に広がる瑠璃光庭の杉木立と杉苔の中に佇む美しい入母屋造・杮葺(こけらぶき)の時を経た往生極楽院を眺めたとき、心に染み入る感動を覚えました。

 

 この清らかさ・神々しさ・落着きが伝わる光景は、まさに日本の究極の美と云っても過言ではないのかも知れません。

 

 私は宸殿を退出して、往生極楽院の浄土とも呼べる有清園(瑠璃光庭の一部)の細波の滝(さざなみ)や清澄透明の池、石橋と中ノ島(亀島)・燈篭などを眺めながら往生極楽院に向かいました。

 

 往生極楽院 (旧称・極楽院阿弥陀堂)は平安末期の1143(康治2・第76代近衛天皇の時代)に高松中納言藤原実衡の妻である真如房尼(1114-1180)が亡き夫の菩提の為に建立したと云われます(真如房尼の甥の吉田経房の日記「吉記」に記述)

 

 往生極楽院(重文)1871(明治4)に三千院本坊が河原町から大原政所に移転してきてから、その境内に取り込まれと伝えられています。

 

 江戸時代初期に大修理を行ったため、建物の外回りは江戸時代の造りになっているそうです。

 

 それでは堂内の説明を致しますね。(ラッキーなことに団体さんと一緒になり和尚様から懐中電灯を照らしながらの親切な説明を受けることが出来ました)

 

 天井は小さな堂宇に大きな「阿弥陀三尊像(国宝)を納める工夫として舟底を逆さにしたような作りで、天井の色彩は時を経てくすんでいましたが極楽浄土に舞う飛天の姿が描かれているとのことでした。

 

 欄間には二十五菩薩三千仏(阿弥陀仏)の彩画、本尊の後ろの板塀には退蔵界・金剛界曼荼羅、堂の四方の板塀には十方浄土の三千仏(創建当時のものが二体残る)などが極彩色で描かれていたことが偲べるそうです。


 また、柱・長押には繧繝文様(うんかんもんよう)や極彩色の極楽浄土に咲く「宝相華唐草文様(ほうそうげからくさ)等が見られ、須弥壇(しゅみだん)の欄干と黒漆の低い欄干は平安後期をしのばせる螺鈿文様(らでん)があるとのことでした。

 

 私は謹んで阿弥陀三尊坐像(木造・金色で蓮台に坐す)を拝ませていただきました。

 

 往生極楽院本尊の阿弥陀如来坐像(2.3メートル)は上品下生(じょうぼんげしょう)の印相を結び、優しく穏やかな表情をなさり、脇侍の蓮台を捧げる(往生者を蓮台に乗せる姿)観世音菩薩(慈悲を表現)並びに合掌する勢至菩薩(智恵を表現)は共に前かがみで正座(大和坐り)して、膝を開き両足首を横に出し今まさに立とうとするお姿(いつでもお迎えに行ける)に見受けられました。

 

 蓮台上に二脇侍純日本式の坐り方をしているのは他に殆んど類例がないと云われます。

 

 製作年代は、阿弥陀如来は少し早く脇侍胎内銘(勢至菩薩)により平安後期1148(久安4)の貴重な作品と伝えられています。

 

 平安時代は浄土教寺院では豪華な阿弥陀如来を祀り、台座や須弥壇などに装飾をこらし極楽の世界の美しさを表現したと云われています。

ex.平等院鳳凰堂・法界寺阿弥陀堂・法金剛院阿弥陀堂・平泉中尊寺金色堂
【参照:「祈りの造形 NHK市民大学」西村公朝著 1987年】

 

 私は苔庭のあちこちに憩う可愛らしいわらべ地蔵さんを微笑ましく眺めながら三千院を後にしました。

  

            参考文献:「京都大原三千院」三千院門跡
            
「祈りの造形 NHK市民大学」西村公朝著 1987
            「日本史事典」 旺文社
            
「日本の故郷 京都の見所」大橋昭三


         写真: 「瑠璃光庭と往生極楽院」(虹の間から撮影)


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 ■編集後記

 三千院の瑠璃光庭と往生極楽院の阿弥陀三尊像は、

 京都観光のおり、ぜひご覧になることをお薦めいたします♪

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 ・ 編集・発行 日夏 もえ子
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 http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/ ・HP「越境の映画監督・日夏英太郎」

     http://www.moeko2007.com/     ・HP「京都歴史散歩」

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