[ 旅行 ]

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      ― もっと知りたい京都 ―                 


 

         京都の名所・見所をあなたと一緒に !

                          
                                                   
                          日夏 もえ子
                          79号 2008.4.16


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<<<法然上人の説に本尊の阿弥陀さまの手から御光が射した大原問答! >>>
                                               
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        天台宗   開基→円仁(慈覚大師)   山号→ 魚山
        
     左京区大原勝林院町187    075-744-2409


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       ☆ 目次 
               1. 後鳥羽・順徳上皇大原陵             
          2.大原問答      
         3.大原魚山流声明
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━           私は2008年3月11日の午後1時ごろ三千院拝観後、三千院御殿門前の通り(桜の馬場)の突きあたり()にある、天台宗の顕真僧正(1190年に天台座主第61世就任)が浄土宗の開祖法然上人を招き1186(文治2)に専修念仏について議論をたたかわせた「大原問答」で有名な勝林院に向かいました。

 

 桜の馬場の左手に法然上人の弟子の熊谷直実(1141-1208くまがいなおざね)が師匠が論議で勝っても、もし危害を加えられた場合には馳せ参じる覚悟で袖に“鉈”(なた)を隠し持っていたところを法然にとがめられ鉈を藪に捨てた「鉈捨て藪跡」と、直実が鉈を持って坐って待ち構えていたと云われる「直実座石」もありました。

 

 (熊谷直実〔蓮生坊〕→1180年に石橋山の戦いで源頼朝を攻めたが、のち頼朝に従い平氏追討戦で活躍。一ノ谷の戦での先陣争い・平敦盛を討ち取ったことで有名です。

1192年に所領争いに敗れて出家、法然の門下となりました)
                   
【参照 日本史事典 旺文社】

 

 私は前方の律川に架かる朱塗りの欄干の茅穂橋を渡りましたが、すぐ西側には、勝林院の声明を修行する学僧の住む寺として建てられたと伝えられ、声明の音階・音律を味わえる楽器(四国の自然石・鐘など)を自由に鳴らす体験が出来る「実光院(勝林院塔頭)がありました。

 

 実光院は律川の水を取り入れた心字池がある「契心園」を散策でき、秋から冬にかけて“不断桜”が咲くことでも知られています。

 

 明治時代初期ごろまでは、律川から北は勝林院の境内であったとも伝えられています。

 

 東側の木立の中に1221(承久3)の承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇(高倉天皇第4皇子 1180-1239)と佐渡に配流された順徳上皇(後鳥羽天皇第3皇子 1197-1242)大原陵がありました。

 

 不遇なうちに後鳥羽上皇はお亡くなりになられたと伝えられていますが、後鳥羽上皇は1207(建永2)に建永の法難で法然上人(75)を四国へ配流されたことでも知られています。


(参照 承久の乱→「もっと知りたい京都 世界文化遺産高山寺」712007年12/19

建永の法難→「もっと知りたい京都 住蓮山安楽寺」14号 20066/17

「もっと知りたい京都」右側マガジン内検索に後鳥羽上皇とお書きになっても関連記事は出てまいりますよ)

 

 後鳥羽上皇と順徳上皇は共にすぐれた歌を残されていますが(百人一首の巻末はお二人の歌)、順徳上皇は24歳の若さで佐渡に幽閉の身となり辛苦の20余年を過ごされ、46歳のとき京都に帰れないことを悲しんで絶食して崩御されたとも、隠岐の父帝の死を知り絶食死したとも伝えられています。
             【参照:「百人一首」大岡 信 世界文化社】

 
 後鳥羽院の崩御を知ったときの弔歌を載せますね。 

  
      君もげにこれぞ限りの形身とは

    
         しらでや千代のあとをとめけむ   
(順徳院)

 


 歴史を知るということは、人間の悲哀を知るということでもありますね。

 

 さて、桜の馬場の突き当たりには、慈覚大師円仁(794-864 第3代天台座主)が天台声明の根本道場として創建し、1013(長和2)に寂源法師(左大臣源雅信の子)が中興したと伝えられる勝林院本堂が簡素・霜月に耐えた風格ある姿で佇んでいました(1778年〔安永7〕再建か)


 私は、ここで法然上人と南都北嶺(興福寺 延暦寺など)の碩学が浄土教について論議したことを想うと当時の白熱場面が浮かび、心は震えました

 

 境内にはまだ残雪がありました。

 

 本堂は入母屋造杮葺で、本堂への段を上ると左右の欄干の擬宝珠(ぎぼし)に、[春日の(1579-1643)の願いにより崇源院(秀忠夫人)菩提の為に再建1736(享保21)の火災で炎上。けや木造りで建築。7年の歳月で再建]云々と刻まれていました。

 

 本堂に入ると正面に証拠の阿弥陀で名高い本尊の阿弥陀如来坐像(平安仏師康尚作で、江戸時代の1737年に改造)が安置され、向かって右には不動明王立像・左に毘沙門天立像がおられました。

 

 本尊手前の左右に向かい合う2メートルほどの問答台(八講壇)があり、118687日の大原問答は問われる法然上人が左の高座に坐り、問うほうの顕真上人、華厳宗の俊乗坊重源、笠置寺の貞慶上人、真言宗の明編などが交代に右座に坐り、法然上人の念仏の真偽を問いただそうとして一昼夜におよぶ論戦を展開したその場所でもありました。

 

 源平の争乱、承久の乱や飢饉などの現世の苦しみから庶民は神仏にすがろうとしましたが既成仏教は学問や戒律を重んじ、おもに宮廷貴族の信仰であったとも云われます。

 

 法然上人の浄土宗をはじめとする鎌倉新仏教がおこり、ただ選びとられた一つの道(念仏・題目・禅)専修することによって救われるという教え(いずれも厳しい修行を必要としない易行〔いぎょう〕)は、急速に貴族のみならず庶民、武士にも広がって行きました(庶民は当時はお経を読めなかったと云われます)


 法然上人(1133-1212)は美作国(みまさか・岡山県)の生まれで比叡山で天台宗を学び(鎌倉新仏教の開祖は全て比叡山で修行)智恵第一と云われ、下山してから1175年に「ひたすら南無阿弥陀仏を唱えれば死後平等に極楽浄土に往生できる」(救われる)という専修念仏を説き、後に浄土宗の開祖と云われました。

 

 大原問答で法然上人が「誰もが一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで、 “極楽浄土に迎えられる”と説かれた時に正面の阿弥陀様の手から正に其の通りと御光が射したと云うことで「証拠の阿弥陀」と呼ばれるようになりました。

 即ち「浄土宗の発祥の瞬間」と云っても良いのかも知れません。

 

 私は本堂で説明用のボタンを押し、録音された声明と勝林院の解説に耳を傾けました。

 

 声明はお経に節をつけて僧侶によって合唱(梵唄)される仏への崇高な祈り、平家琵琶・謡曲・浄瑠璃・小唄などにも大きな影響を与えたそうです。

 

 声明は真言宗の空海(弘法大師)と天台宗の最澄(伝教大師)が唐から持ち帰ったと云われますが、大原に伝わる大原魚山流声明は、慈覚大師円仁によって伝えられたものを平安時代末に融通念仏宗の祖・聖応大師良忍(1073-1132・大原来迎院創建)が大原で大成したものだと云われています。【参照: 勝林院 掲示】

 

 声明は、勝林院部来迎院部に伝承されたと云われます。


 勝林院を中心に下寺、来迎院を中心に上寺と称し、総称して“魚山大原寺”(だいげんじ)と呼ぶそうです。

 (魚山とは、円仁が中国山東省黄河のほとりにある魚山で声明を修得したことに因み付けられ、また大原の地名も魚山大原寺に由来するとも云われています)


 (
慈覚大師円仁→838年に入唐し密教を学んで帰国、台密を大成。山門派の祖。

在唐中の日記「入唐求法巡礼行記」(にゅうとうぐほう)は著名)

 

 (融通念仏→一人の唱える念仏が多くの人の唱える念仏と融け合い通じて往生し、多くの人の往生をもたらす)

 

 さて、阿弥陀様の手からは5色の紐が垂れていました。

 

 その紐に触る事で浄土に導かれるとされていますので、私は手許の紐を引き阿弥陀様と握手させていただきました。

 

 阿弥陀様を観るには、手前にある僧侶の礼拝される台座45度が最も良いとされ、微笑まれた慈悲の眼として観えるのだそうです。

 (遠くからだと眼を瞑っておられるように、近くからは厳しい眼つきに見えるのだとか・・・)

 

 本堂の奥に法然像や普賢菩薩像などの仏像が安置された中に、左足を一歩前に出した「踏み出し阿弥陀如来像」があり、私達を仏の方から救い出そうという動のお姿と云われています(来迎相)

 

 私は尊い歴史が一杯つまった勝林院本堂を立ち去りがたい思いで後にしました。


                  重要文化財 宝篋印塔(鎌倉期)                        
                            梵鐘(平安藤原期)

                  法然上人 二十五霊場めぐり 第21番札所

          参考文献
: 「交通公社の新日本ガイド15京都」
               「大原の里 宝泉院」住職・藤井宏全
                「日本史事典」 旺文社
               「百人一首」大岡 信 世界文化社
               
「日本の故郷 京都の見所」大橋昭三 

           写真:   勝林院本堂

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 ■宝泉院
(勝林院の塔頭)   勝林院本堂西側にあります。

・額縁庭園 (客殿西の盤桓園)
 竹林を背景に風情を堪能でき、また“抹茶と菓子”付でなかなか寛げました。

 

五葉の松(近江富士 宝楽園) 京都市登録天然記念物

 樹齢500年余を数える富士山型で美しい容姿です。

 高さ11メートル、枝張り南北11.5・東14メートル

・楽器(サヌカイトという石)

 自由に鳴らせますので、体験するのも楽しいですよ。

 

・血天井
 1600
(慶長5)、美濃関ヶ原で行われた家康(東軍)と石田三成(西軍)の天下分け目の戦い前に、家康が会津の上杉景勝征討に向かった折り、伏見城の留守を守った家康の忠臣、鳥居元忠ほか武将達が石田三成の大軍(西軍)に攻められ自刃した遺構(廊下の上。霊を慰め供養するためと云われています)

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   ■編集後記

  3月中旬というのに残雪がありました。

  勝林院は浄土宗発祥の地とも云えますので、ぜひ拝観をお薦めいたします♪

  「もっと知りたい京都」を掲載して、はや2年になります。

  おかげさまで次回で80号を迎えることが出来ます。  

  多くの方にお読みいただき、ほんとうに有難うございます。

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 ・ 編集・発行 日夏 もえ子
 http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/profile.html ・ 著者・プロフィール

 http://www.k5.dion.ne.jp/~moeko/ ・HP「越境の映画監督・日夏英太郎」

     http://www.moeko2007.com/     ・HP「京都歴史散歩」

  moeko_sachiko2000@yahoo.co.jp 『もっと知りたい京都』を読んで

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