現国会は「ガソリン国会」と名づけられている。
ガソリンの暫定税率を廃止するか、延長するか、与野党の大激突である。
ガソリンの暫定税率の廃止と共に取り上げられているのは、「道路特定財源」である。
「道路特定財源」とは、故田中角栄議員が中心となり、1953年に成立させた
「道路整備費の財源等に関する臨時措置法」によって誕生したものである。
これが、「利権政治」「ばら撒き行政」の始まりともいえる。
そして、このころから、自民党は、各種「族議員」や「派閥」形成による派閥の寄り集まりの性格を帯びる。
つまり、「自民党」は、主義や主張を同じにする議員集団という意味での「政党」ではなく、
派閥の集合体というだけの政党であり、常に、政権の座にい続けるためだけに結びついた議員団に過ぎない。
日本では、長い間、「55年体制」が築かれ、先進国では珍しく、選挙によって政権交代しない特異な国となった。
増田悦佐『高度経済成長は復活できる』によれば、
このような長期政権を自民党が維持できた理由のひとつに、
道路建設などの地方優遇策を指摘しているが、
同時に、その政策が高度経済成長を終わらせた最大の原因とも指摘する。
つまり、田中角栄の登場によって、増田は「国家社会主義革命」と名付けているが、
公共事業の地方への傾斜配分によって、地方から都市への人口移動の激減を招き、
その結果、日本の高度経済成長は終焉したと見ている。
この本の主張をすべて受け入れるわけではないが、
自民党が長らく政権の座にある理由のひとつに、
日本の高度経済成長を成し遂げたとする自負があるのかもしれないが、
どうやら、それは大きな間違いであり、「利権政治」による癒着や腐敗の温床が、
そして、今でも、日本の財政悪化や政府や自治体をあわせて、
総額1000兆円ともいわれる借金の原因を作ったのが自民党の長期政権であるといえる。
ただ、その責任がすべて、自民党にあるとはいえない。
なぜなら、国民の政治的無関心や政治家と企業の癒着、官僚政治の台頭、野党の離合集散など、
様々な要因も無視できないからである。
90年代以降、冷戦体制の崩壊もあり、もはやイデオロギー対立の時代ではない。
それが逆に、小手先の政策論争などに陥り、政治的対立軸を野党が示しきれないところに、
日本の政党政治の未熟さがあるといえる。
現に、自民党は、「保守」から「革新」の主張があり、
二大政党政治を目指す民主党にも「保守」から「革新」の主張がある。
だからこそ、自民党と民主党の一部から、「保守新党」を立ち上げようなどという政界再編構想も浮かぶのであろう。
それでは、現代日本の政治的対立軸はどこにあるべきか。
私は、自民党の利権政治を、経済・開発主義と見ている。
これは前々からこのメルマガでも述べていることだが、
道路建設に代表されるように、自民党政治は、経済・開発に重きをおく政治スタイルだ。
経済・開発主義とは、富裕層や大企業にとって有利な政治であるが、
サラリーマンや生活弱者にとっては非常に厳しい政治だからである。
貧しいものはますます貧しくなる、それが自民党政治である。
これから、日本は、「超高齢化社会」になる。社会保障制度の崩壊も心配されている状況だ。
しかも、郊外の大型店舗建設のように開発を優先した結果、
街は膨張し、田畑の消失、食料自給率の低下、自然環境の悪化、公共交通機関の麻痺、
商店街の崩壊、格差社会などの問題が生じている。
「ばら撒き行政」「ハコモノ行政」によって、政府や自治体も膨大な借金づけになり、
社会自体の持続可能性も失われようとしている。
このままでは、未来が失われるのである。
そこで、考えられるべき政治的対立軸は、環境保全・持続主義である。
生活者重視の民主党は、ぜひこの路線で戦ってほしい。
環境を保全し、持続可能な社会を目指すには、市場原理をコントロールし、
「格差」を一定範囲内に抑え、第一次産業の再生や、市街地の再生など、
生活弱者を保護する政策が中心となるからである。
そして、真の地方自治を目指すべく、地方分権し、自治体は地方政府となり、
それぞれの環境に合わせて、コンパクトシティを形成するなど、
来る「超高齢化社会」に適応する街づくりを目指せなければならない。
さて、道路特定財源に話は戻るが、道路特定財源で論争されているように、
道路建設は、これからの時代に必要かどうか、それが、今の国会の争点にすべきである。
地方は本当に道路が必要か。
それは、必要なところもあるが、すべてが必要ではない。
超高齢化社会に、道路だけあっても仕方がない。
人口はこれから激減することが予想されている。
それならば、道路建設ではなく、鉄道網の整備が必要だ。
道路建設よりも格安の公共交通機関の充実のほうが、地方には必要だ。
多くの知事が道路建設が必要だといい、地方選出の国会議員も道路が必要だという。
それは、誰の代弁なのか。
生活弱者は、道路よりもガソリンの減税を必要としている。
そして、道路建設にだけ特定する税金を設定する必要があるのかどうか。
そのような税金の存続は、道路を必ず作ることになるが、それが環境政策とマッチするわけがない。
ならば、その一部でも、公共交通機関の整備に当てるほうがよほど環境政策になる。
人口が過密であり、公共交通機関が発達している大都市に比べ、
人口が過疎であり、公共交通機関が未発達な地方都市では、道路建設は無駄が多い。
しかも、国土交通省は、道路特定財源制度は、合理性・公平性・安定性に優れた制度であると表明しているそうだが、
公共交通機関が未発達な地方都市では、車に依存せざるをえないから、道路が必要になるという構図だ。
だが、公共交通機関が発達していれば、道路や車に依存する必要はなくなる。
そもそも、交通行政が、車や道路に依存するように仕向けているからである。
公共事業のばら撒きは、「官僚政治」の得意とするもので、
これまでも、環境保護とは無縁のものであった。
繰り返すが、「超高齢化社会」、人口減少社会、食料自給率の低下、社会保障制度の崩壊、
医療福祉の不十分さ、などなど、道路建設に大枚をはたくよりも、優先すべき政策がたくさんある。
近い将来、廃墟に道路だけが整っているのは、街づくりといえるだろうか。
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参考文献
増田悦佐『高度経済成長は復活できる』文春新書、2004年。
石川真澄『戦後政治史』岩波新書、1995年。
塩田潮『民主党の研究』平凡社新書、2007年。
阿部斉、新藤宗幸、川人貞史『概説 現代日本の政治』東京大学出版会、1990年。
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編集後記
今回のテーマは、最近のガソリン税の問題を扱ってみようと思ったのが始まりですが、
実は、ちょっと前に、高度経済成長と自民党の関係を調べてみようと
増田悦佐『高度経済成長は復活できる』を読んでみたんです。
前までは、日本の高度経済成長は、自民党が成し遂げたのかと思っていたのですが、
なんか違和感があったので、この本を読んでみたら、経済成長を終わらせたのが、自民党であったことに気づきました。
しかも、このときに形成された「ばら撒き行政」や「ハコモノ行政」は、
自民党の派閥政治や族議員を育て、業界との癒着を深め、
今の財政悪化の大きな要因となったことも理解できます。
自民党の長期政権によって、情報公開がおくれ、官僚や業界との癒着によって、政治は腐敗しました。
つまり、このような巨大な腐敗システムが今の政治の根底にあるため、
官僚の天下りや公共事業にまつわる贈収賄など、巨額の税金が無駄にされたのです。
自民党は、自らが腐敗システムの一部であるため、自ら浄化する術も力もないのです。
社会保険庁によるずさんな年金管理も、これらの情報公開が隠蔽されてきたからに過ぎません。
つまり、舛添大臣は自民党と官僚による腐敗システムに飲み込まれ、自らの政党が招いた腐敗を暴くことはできず、
その責任を果たすにはあまりに荷が重すぎたといえます。そして、舛添大臣は、自らが所属すべき政党を誤ったといえましょう。
だからこそ、選挙によって、政権が交代される「民主化のコスト」は、必要なのです。
新年あけまして おめでとうございます。<(_ _)>
このメルマガや僕のホームページをご覧になってくださっている
皆様、今年もよろしくお願いいたします。(*^o^*)
今頃になりましたが、1月6日に『日テレ報道特別番組 ACTION』を見ました。
今号は、その感想を含めて、日本における深刻な問題を論じてみたいと思います。
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まず、日テレが面白い番組を作ったなあっというのが
正直な気持ちです。
日本の報道番組は、なんだか、いまひとつ追求力に欠けるというか、
情報の垂れ流しというか、
ジャーナリズムの貧弱者のようなものを感じていました。
ただ、「イマイ記者」の番組は、僕は大好きで、
なかなかいい番組だなっと思っていました。
マスコミは、ウラをとって真実を流すとも大事ですが、
その情報力を活かして、
弱者を救済する、例えば、「イマイ記者」のように、
犯罪を未然に防いだり、犯罪組織を身動きできなくするなど、
なんというか、「正義」のために機能することも大事だと思います。
マスコミは、情報を商品化する業界であるので、
当然その「情報力」は一般の人よりも優れているだけでなく、
その機能の仕方が大事になります。
逆に言えば、偏向報道や誤報道は、
大きく世論に影響を与えたり、
風評被害、名誉毀損などを引き起こす可能性もあります。
なぜなら、報道される情報が、正しいのかどうかをイチイチ検証する人はなかなかいないからです。
そして、報道する側とされる側は、
ある種、権力関係にあり、
報道する側が、一方的に報道することもできるため、
「いいっぱなし」という状況になるためです。
情報というのがそれだけ影響力を及ぼす時代であり、
言い換えれば、情報が「商品」化、「武器」化されているといえましょう。
だからこそ、「正義」の追求が難しい時代なのかもしれません。
「現代社会」は、古代や中世に比べ、
産業構造の変化もあって、
「情報」に価値が高く付与されている時代ですが、
それと同時に、テレビ、新聞、インターネット、携帯などなど、
科学技術の発達により、
情報が氾濫し、瞬時に伝達され、
情報そのものの「鮮度」もすぐに落ちてしまいます。
そのため、時代の変化がものすごく早くなったといえるでしょう。
だからこそ、いかに、正しい情報を、いかに、公平に伝達するか、
それを求めることが、マスコミの機能すべき姿ではないかと思います。
というのも、一般の人たちにとって、何が正しい情報なのか、
どうすれば正しい情報にアクセスできるのか、
その術を知らなかったり、その術をもっていないからです。
ただし、正しい情報を報道することによって、
例えば、犯罪被害者の実名報道などは、
人を傷つけることにもなるので、
一概に報道することがいいとは言えませんが。
☆☆☆☆☆☆
『日テレ報道局 ACTION』では、
「プラスチックのリサイクルの嘘」や
「さばの産地偽装問題」、
「幼女連続誘拐・殺人事件」
「医師不足の真相」・「教育現場の問題」
を扱っていました。
○「リサイクルの嘘」は、プラスチックを集めた業者が、
リサイクル業者に引き渡すのではなく、
産業廃棄物業者に引き渡し、
ただ単にゴミとして捨てていたというものです。
多額の税金が投入されているというのに、
実際、リサイクルは行われていませんでした。
そのような悪徳業者が存在し、
家庭でせっかく分別し、洗って捨てたプラスチックが
無駄にされているのです。
○「さばの産地偽装問題」は、
すしチェーン店が、三重の真さばを「関さば」として出していたというもので、
他のデパートでも、産地の偽装がされていました。
これは、食品表示偽装の一部であり、
最近も某有名老舗の食品表示偽装があいついだことからも深刻な問題です。
しかも、海外からの食品に対しては、
食品表示のチェックをすることはもっと厳しいでしょう。
食の安全は、これもまた悪徳業者によって損なわれているのです。
○「幼女連続誘拐・殺人事件」の場合は、
県境をまたがる犯罪のために、
両県警の捜査情報の共有がなされていないなどの問題が提起されていました。
確かに、アメリカのような連邦警察FBIのようなものが、
日本にはないために、このような県境をまたがる広域犯罪に対して、
スムーズな対応ができないことは前々から指摘されていたことです。
○「医師不足」は、この日本において、
異常なほど深刻な問題です。
先進国の中でも、人口に対する医師の数がかなり少ない国なのです。
この国は、年金などの社会保障制度が崩壊しているだけでなく、
医療・福祉も十分ではありません。
つまり、生活弱者が救われない国と化しています。
しかも、医師も過酷な労働条件にさらされているため、
過労死する医師もいるほどです。
番組内の医師は、
医師といっても、特に勤務医のことを扱っており、
開業医とはまた別です。
そして、番組では、勤務医の過酷な労働条件以外にも、
小児科経営の厳しさ、
産婦人科、麻酔医などの医療スタッフの不足、
都市と地方の医療スタッフの偏り
などが問題提起されていました。
以前に僕も、メルマガで日本の医療問題について書いているので、
http://forthefuture.blog.ocn.ne.jp/manabun/2006/07/index.html
こちらも参考にしてみてください。
○「教育現場の問題」に関しては、
教員の過労問題、教員の事務量の増加に伴う生徒と接する時間の減少、
過労による教員の疲弊、残業の増加、
つまりは、教師崩壊が指摘されています。
子どもたちのための教師再生が提言されていました。
ただでさえ、少子化が進んでいる時代なので、
子どもたちへのケアは充実しなければなりません。
でも、それだけでなく、教員がどうあるべきか、
親は学校とどう向き合うべきか、
考え直さないといけないところに来ています。
僕は最近、保護者がクレーマーになっている点も問題であると思うし、
教員も不祥事などモラルの低下があり、
本来尊敬されるべき職業の人たちのレベルが低下しています。
教育委員会は、現場を見ていないとの指摘もあり、
行政だけでなく、かつて、地域ぐるみで子どもたちを育てていた時代のように、
様々なバックアップが、今一度求められていると思います。
☆☆☆☆☆☆
このように見ると、日本全体において、
モラルや正義の低下というか、劣化が見られます。
非常に残念な社会現象といわざるを得ません。
逆に言えば、ここに、社会を改善するチャンスがあるということです。
これから、『日テレ報道局 ACTION』には、様々な問題提起に期待し、
また、自分もメルマガや実際の行動で、社会問題に挑んでいきたいと思います。
今年もよろしくお願いします。
☆^∇゜) ニパッ!!
もう今年も残りわずかですね。
一年が経つのは早いですねえ。 ε=(。・д・。)フー
いろいろ振り返りたいところですが、それは、別の機会にして、
今号では、これからどのように「世界」を見るべきかの視座を提案しておきたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
我々の「世界」は、物質的なモノと、非物質的なモノによって、構成されています。
物質的なモノとは、そのまま、物質、物です。
例えば、紙、鉄であり、石であり、プラスチックなどなど。
つまり、自然、自然から生成したモノです。
一方、非物質的なモノとは、簡単に言えば、我々の頭で作り上げているもの、
つまり、精神的なモノです。
例えば、思想、信頼、恋愛や友情だけでなく、
法律、ナショナリズム、日本文化、「日本人らしさ」、地域性などなど。
言い換えれば、社会システムといえるモノです。
ただ、この二つのモノは、明確に分離できない、複雑な相互作用の関係性をもっています。
例えば、身近なモノでいえば、お金です。お金は、札や硬貨を指しますが、例えば、1万円というお札が、「1万円」の価値を有するかどうかは、
「信用」という非物質的なモノを有するかどうかの問題になります。
つまり、我々の間で取引する分には何の問題もないでしょうが、
アフリカの山奥に行って、1万円を出したとしても、「1万円」としての価値を有するかどうかは定かではないでしょう。
また、「国」一つとっても、
領土、政府、国民という三要素によって、国家は承認されますが、
領土という物質的なモノと、政府という非物質的なモノ、国民という双方のモノを要素にしています。
領土は、国境の問題がありますが、とりあえず、諸政府で認め合った、地形など自然のモノで判断できます。
そして、政府という国体は、我々の思考の産物です。
国民は、身体という物質的なモノであり、意識などのアイデンティティという非物質的なモノでもあります。
改めて、「人間」は、身体という物質的な存在であり、精神という非物質的な存在でもあります。
人間は、双方の要素をもち、同様に「国家」も双方の要素を持ちます。
同様に、「会社」というのも、事務所などの建物という物質的なモノと社員という双方のモノと、「社風」というような非物質的なモノも具えています。
それは、物質的なモノと非物質的なモノの相互作用によって生み出された要素といえます。
同じことが、自分たちの街にもいえます。
「街」は、お店や施設などの建物はもちろん、そこに住んでいる住民の方々によって「街」が構成されています。
それぞれの「街」らしさは、そこに住む人たちの「個性」によるところが重要なのです。
「街」は建物だけでなく、人によって作られているということは、「住民」だけでなく、交流人口を増やせば、「街」は変わるということでもあります。
それがこれからの街づくりのヒントかもしれません。
そして、重要なことは、これらのモノの根本にあるのは、「自然環境」ということです。
あらゆる人間のシステムは、自然界、生態系という、自然システムの規定内にあるということは、忘れがちですが、大変重要な事実です。
つまり、「世界」は、「自然システム」と「社会システム」によって構成されています。
言い換えれば、「世界」は、物質的なモノと非物質的なモノによって構成されています。
しかしながら、「社会システム」の不正義が、「自然システム」を再生不可能なレベルにまで破壊しようとしています。
もはや、「自然」というものは、人間の手が加えられていたり、
人間の営みに影響を受けているため、純粋な「自然」は存在していません。
人類が「農耕・牧畜生活」をするようになってから、人類は他の生物種と異なる存在になりました。
そこから、環境破壊の歴史が始まったといえるわけですが、その限界が近くなっています。
「社会システム」の不正義には、「世界システム」における「南北格差」だけでなく、
国内の経済格差、「経済の自由化による無責任政治」、市場原理の暴走などなど、
軍事化による腐敗もあるでしょう。
これらは、環境破壊につながっています。
1日1ドル以下で暮らす人が世界中で、13億人いるそうです。
途上国において、所有権の問題によって、土地を持てない人々が、乱開発してしまったり、
先進国においても、消費という形だけでなく、生産という形で環境負荷が高まっています。
大量生産・大量消費、いわゆるフォーディズムです。
耐久消費財という、将来ごみになるモノが我々の周りにあふれています。
このような生活様式は、もはや維持できないだけでなく、危険でさえあります。
これから、特に、日本は、超高齢化社会になろうとしています。
70年代の高度経済成長期や、80年代のバブル期とは違い、今は思考(志向)を転換しないといけません。
「経済成長」は、「豊かさ」とはことなる指標なのです。
つまり、これまでの、「経済成長」という自然環境を破壊しながら得た豊かさは、幻なのです。
超高齢化社会において、もはや経済成長は見込めません。
市場自体の規模が縮小するからです。
国立社会保障・人口問題研究所などの分析によると、
2050年ぐらいに日本の人口は、7000万人から8000万人にまで減少することが予想されています。
つまり、人がいなくなる時代なのです。
大都市は緩やかに、地方中核都市は少し上昇するが、その後緩やかに、それ以外の地方都市は、激減する人口。
これまでの経済発展・開発主義の思考では、街づくりができないのです。
最近でも、「道路建設の大合唱」が、国会で起きているそうですが、
誰のための道路建設なのか、まったくの疑問です。
特に、地方都市の、お年寄りばかりの街に道路を作ってどうするのでしょう。
人がいない街に道路があってどうするのでしょう。
確かに道路が必要な街もあるでしょうが、
日本の道路計画はおかしなものばかりです。
日本の高速道路は、建設費用が高いし、設置された無数の高価な電話も必要以上にあります。
お年寄りが多い街は、公共交通機関が必要です。
これまで膨張しすぎた街を再建しなければなりません。
郊外の乱開発は、もうやめる時期です。
郊外の乱開発は、自然環境を破壊するだけでなく、田畑を減らし、
食料自給率を低下させています。
経済問題、環境問題、高齢化などなど、様々な問題が実はリンクしているのです。
ただいえることは、人がいなくなる時代だからこそ、
人を大事に育てなければなりません。
これからの時代、人を大事にしなかった企業がしっぺ返しされる時代です。
「リストラ」という名の解雇。
社員と同じ仕事をさせられながら、低い賃金しか得られない大量のパート社員。
「小泉・竹中」政権の時代に、会社の競争力をつけるという名目で、
これらの労働再編が進められました。
実際、これらは格差を助長するだけなのです。
社会保障制度までも、「経済の自由化」によってゆがめられ、
医療・福祉までも市場経済にさらされています。
市場経済は、公正な配分をするシステムでは決してありません。
「経済の自由化」は、政治の役割までも、市場原理に委ねてしまう愚かな政治なのです。
市場原理とは、単純にいえば、「資本」を有するものほど、競争に勝つ原理、
すなわち、豊かな人はヨリ豊かに、貧しい人はヨリ貧しくなるシステムです。
市場原理には、公正な競争は存在していません。公正な競争など机上の空論なのです。
現に、競争に参加できない人さえいます。
だからこそ、「経済の自由化」は、格差社会を生むのです。
アメリカ型社会は、理想のモデルではないのです。
むしろ、格差社会の象徴です。
異常なまでの格差は、無責任な政治が生み出した「不正義」なのです。
完全に格差をなくすことはできませんが、
障害者など社会的弱者が生活苦にさらされています。
年金だけで生活する人たちも大変ですし、
「ワーキングプア」とよばれる労働者まで現れています。
「ワーキングプア」とは、簡単に言えば、働いても、生活保護の受給額よりも賃金が低い人たちのことで、
そのような人たちが存在するということは、異常な労働環境です。
このような現実を前にして、政治的無関心が増えています。
投票に行かない人たち、政治とは無縁だと思っている人たち。
そのような人たちに言いたい。
「考え方をちょっと変えるだけで、世界は変わる。
我々の代表者、意見の集約者である議員が変われば、
政治は変わる」、と。
政治は、国政から自治体レベルまで様々ですが、
純粋な階層構造とはなっていないのです。
我々が学校で教育されてきた内容だと、
あたかも階層構造のように国ができているかのようなイメージを植えつけられます。
しかし、必ずしもそうはなっていないのです。
国際社会と諸国家、国と自治体。都市と地方。
それぞれ、相違があるために、共存しているのです。
つまり、国や街づくりにおける「すみわけ」です。
「グローバル化」は、世界の時空間を圧縮すると同時に、
ナショナリズムを喚起するなど反作用が起きています。
逆に言えば当然の結果なのです。
同様に、国内では、
地方の街づくりは、郊外の大型店舗とどのように向き合うか、
共存共栄を目指すのか、競争するのか、
様々な選択に迫られているのではないでしょうか。
とはいえ、大型店舗を自分の「街」の自慢にする人はいないでしょう。
大型店舗進出による郊外の開発は、経済の自由化の象徴であり、
ある種、グローバル化のミニチュア化です。
だからこそ、それぞれの「街」の特色が必要なのです。
なぜなら、「グローバル化」は、
街の個性などを破壊してしまうという暴力性をもっている現象だからです。
そのために、大都市と地方都市の「すみわけ」が必要ということでもあります。
ダーウィンの進化論に対する反証が「すみわけ」であったように、
進化論と同じ原理である市場原理に対して、「すみわけ」という非市場原理が必要なのです。
東京に一極集中する現代日本の構造は、
政治的にも、経済的にも、社会的にも、歪んだ構造であり、
それが街づくりの障害にもなっています。
繰り返しますが、このような社会システムは、我々の思考の産物です。
我々の「世界」の少なくとも半分が、我々の思考の産物であるならば、
つまり、半分は非物質的な「世界」である以上、
我々の思考の転換によって、
「世界」は確実に変えられるということです。
このところ、民主党が揺れている。
いや、国会全体が揺れているといえる。
それは、小沢民主党代表の辞意表明から始まった。
先ほど(11月6日夜)、辞意が撤回されたようだが、
まだ動揺は収まらないかもしれない。
というか、これからが民主党の正念場であると思う。
「大連立構想」が事態の発端であったようだが、
ここにきて、なぜ、「大連立」なのか理解に苦しむ。
先の参議院選挙、それ以前から、
自民党の対決姿勢で民主党は政策提言を行ってきた。
そして、それが参議院での「逆転」を起こしたのであり、
さらに以前から、「二大政党制」を掲げて党を興してきたに違いない。
「大連立」は、それを全て否定することにもなりかねないし、
少なくとも、「国民」には理解できない。
政権の一翼を担うことで政権担当能力をあげるなどという
小沢氏の説明があった。
さらに、今の民主党では、政権担当能力を疑問視されているし、
次の衆議院選挙で勝つことは難しいとも、コメントされていた。
果たしてそうだろうか。
民主党の中にも、大臣経験者、
そして、長い議員経験をされてきた方がいる。
今求められているのは、
古い体質の政界を変えることである。
政・官・財の癒着はその典型であるし、
それは、長い間、政権の座にある自民党がシステム化してきた問題である。
だからこそ、そのようなシステムを変えるには、
政権交代しかないのだ。
選挙によって、政権交代が起こりうるのであれば、
政治に緊張感ができ、
癒着は起こりにくく、
官僚が政治過程において強大な権力を握ることもない。
それに対し、「大連立」というものは、
国会機能というよりは、
政党同士の私的な調整、
「密室政治」になりやすく、
55年体制時の自民党政治に戻ることになる。
そのような面からも、
「大連立」は理解できない。
それに、「大連立」は戦時の大政翼賛会すらイメージさせる。
「大連立」は、政党政治ににつかわしくない。
現代民主主義は、「政党政治」だ。
政党が政策論争をし、調整できるところは調整する。
つまり、政策ごとに調整すればいいのであり、
法律が通らないから、危機的状況だとか、
国会が空転しているなどというのは間違った見方だ。
法律が通るというよりも、
その議論など、政治過程が大事であり、
より高度な議論を通して、決定されることが望ましいのではないか。
「大連立」での「密室政治」を通じた法律ならば、
安部政権でも行われた「強行採決」と質的にさほど変わらない。
法律の成立は大事であっても、それよりも、
議論が大事であると思う。
つまり、「大連立」は、せっかくの国会機能を低下させる。
「ねじれ国会」は、政策論争、情報公開、政治の透明性などなど、
それらを高めることになる。
日本が本当の政党政治を目指すのであれば、
政策論争を重視した形にすべきだ。
まして、連立政権を組むにしても、
政策が全然異なる自公連立はふさわしくない。
それならば、政策ごとに調整する形でいい。
冷戦後、政党間のイデオロギー対立は終わった。
そして、対立軸が見えなくなったからこそ、
日本の90年代の政治は「失われた10年」となった。
今後の対立軸として考えられるのは、
自民党型の「経済・開発主義」 対 「環境保全・持続主義」
であると僕は考えている。
「環境保全・持続主義」の政党がはっきりしていないが、
野党の中では、民主党は力をいれているように思える。
今こそ、未来志向の政党が必要だと思う。
安倍晋三首相の辞意表明を受け、自民党総裁選が行われ、
9月23日に、福田康夫氏が自民党総裁に選出された。
続いて、同月25日に、福田氏は、首相に任命され、福田内閣が発足した。
それにしても、自民党総裁選は、
福田氏と麻生太郎氏の一騎打ちであったが、
盛り上がりに欠ける内容であった。
なぜなら、福田氏は多数の派閥の支持をとりつけ、
国会議員票で既に結果が出ている状態だったからだ。
結局、旧来の自民党の「派閥政治」が表面化し、
所詮「自民党」は、派閥の寄り集まりでしかないことを
改めて露呈したと言える。
実際、今回の自民党の「党四役」は、
福田氏を支持した派閥の領袖で固められている。
小泉元首相が「ぶっ壊した」はずの「自民党」は、
小泉チルドレンなどの新しい派閥を形成しただけで、
何ら中味も変わらない危機感のない政党であるといえる。
国会会期中にも関わらず、自民党総裁選で国会が中断し、
与党の責任を放棄し、自分たちの権力闘争に終始した。
自民党は、このような無責任なことを平気で行い、
小泉改革が大失敗の政治であったことを総括することもできない。
そして、自ら、弱者切捨て、地方切捨ての「政治改革」を推し進めたにもかかわらず、今頃になって、野党の政策を自らの政策のように提言している。
小泉改革を「負の遺産」という麻生氏は、小泉・安倍両内閣の閣僚だった。
そして、福田氏も、小泉内閣時の官房長官だった。
彼らは、小泉改革を断罪できる立場であろうか。
今回の福田内閣も、暫定内閣であることを意味しているのか、
安倍内閣とほぼ変わらぬ顔ぶれだ。
国会を中断させた張本人が平気で、内閣を担う。
格差を拡大した張本人が、格差訂正を訴える。
全くあきれた構図だ。
僕の周りには、「誰が政治をやっても同じ」という考えの人がいる。
これは、日本の場合、「55年体制」に原因があるように思える。
日本は、先進国でも珍しく、選挙で政権交代が起きない国である。
事実、「55年体制」が確立してから、
政権交代は起きず、長らく「自民党」が政権を担ってきた。
日本政治の政権交代は、「自民党」内の権力闘争、
つまり、派閥政治の中の「劇」にすぎず、
汚職や腐敗を横行させ、官僚政治が定着し、
「誰が政治をやっても同じ」という意識を国民が持ってしまった。
そして、「国会議員は汚い」というイメージも定着した。
このような背景が、国会議員の政策立案能力を育てず、
官僚が力を持ち、国民の政治的無関心を肥大させた。
それらの悪循環が長年続いてきた結果、
政権交代が起きず、「誰が政治をやっても同じ」と
国民には映ったのである。
そして、もう一つ、国民に「誰が政治をやっても同じ」と思わせるのは、
現国会議員の多くが、二世、三世議員であるという事実である。
このような「権力の再生産」が、「家系」によるものであるという現実によって、国民は、政治への関心を失っていく。
なぜなら、そのような「政界」は、国民に、家系的に選ばれた者しか入れないイメージを持たせ、自分たちとは別の世界と思い込ませる。
したがって、国会議員と国民との距離は拡がり、政治的無関心を生み出していった。
今でもそのような印象が国民に根強く浸透している。
結局は、様々な要因からなる「格差」が、「政界」生み出している。
言い換えれば、「家系」「財力」「人脈」などが、
「格差」を再生産した結果、特殊な「政界」を生みだしたといえる。
二世、三世議員は、「家系」も「財力」もあるため、
高学歴である可能性が高く、親からの「人脈」があるため、選挙にも強い。
それらが、「政界」の特殊性を再生産するのである。
「世襲議員」がすべて悪いということはできないかもしれない。
しかし、国会議員の選出におけるダイナミズムがなくなれば、「政界」は硬直化する。
ある程度、志がある人が誰でも選ばれるような選挙であれば、
身近な人が国会議員となる可能性も高くなり、
国民の関心も高くなりやすいだろう。
まずは、政権交代、そして、選挙のあり方が変われば、
政治的無関心も少しは改善されるのではないだろうか。
もうすぐ、人口が激減する時代を迎える。
我々は、あらゆる価値観を変えていかなければならないのである。