4月ももう終わりましたね〜。時が経つのは早いですね。(>_<)
なんと知らぬ間に、僕の公式ホームページも、1周年をむかえました〜。
ヾ(〃^∇^)ノわぁい♪
今後もみなさんよろしくお願いします。 <(_ _)>
さて、今号は、何をテーマにしようかと悩みましたが、
やはり、憲法をとりあげておきたいと思います。
憲法については、去年の5月3日にも述べていますので、
よろしければ、そちらもご覧ください。
(同じ記事は http://forthefuture.blog.ocn.ne.jp/manabun/2006/05/index.html
でも、読めます。o(*^▽^*)o~♪)
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5月3日は憲法記念日でしたね。
この日になると、改憲派も護憲派も、集会を開きますが、
国民投票法案も成立しそうなので、
国民は真剣に憲法について考えなくてはなりません。
そうでなければ、我々は、政治家の発言やメディアに影響され、
一時的な感情で、重大な決断をさせられるからです。
我々は、憲法を改正するかどうか、
するのであれば、どのように改正すべきか、
将来世代のことを考えた決断をすべきです。
つまり、今の「民主主義」に欠けているのは、
「将来世代」という世代や時間という要素なのです。
「民主主義」は、様々な形で論じられていますが、
将来世代や未来を考慮することは、なかなか実践されていません。
現に、環境問題や街づくり、社会のあり方、家族のあり方など、
未来を考え、自分たちの子どもや、孫に対して責任を負う、
そんな政治が欠けています。
しかも、それが、自分たちの首を絞めることになっているのです。
なぜ、このような話をするかといえば、
憲法改正は、将来世代に対する重要な変化をもたらすからです。
日本の憲法改正においては、
一番大きな問題は、やはり9条(前文も含めて)でしょう。
常に、憲法改正で議論となる条文だからです。
9条に関しては以前にも述べたので、
別の視点から論じるとすれば、
平和とは、一国ではなしえない、
つまり、「一国平和主義」というものは、
ありえないということです。
歴史的に、主権国家と国際関係は、同時に起こりました。
それは国家主権というものが、徐々に形成されると同時に、
国際関係も誕生したからです。
ノルベルト・エリアスなどによって、分析されていますが、
国家は、銃の発明と、貨幣経済の誕生によって、
姿を現していきました。
つまり、国家の暴力、当時は、王による暴力の一元化によって、
それぞれの絶対王政、特に、ヨーロッパの王たちが
君主として、互いに認め合うことで、
国家主権が誕生したわけです。
また、別に、国家主権を制限するための、
貴族の反乱やフランス革命などに代表される市民革命が起こり、
権力を制限するための「憲法」が誕生していきました。
つまり、「憲法」とは、主権者、つまり、統治する者と、
統治される「国民」との「約束」がはじまりといえるわけです。
だが、それは、国内だけでみたものにすぎません。
繰り返しますが、国家は、国際関係と同時に誕生したわけで、
他国との関係を抜きに、存在しえないし、
憲法もまた、その中で、論じられるのは必然になります。
日本においては、9条は、アメリカによって常にゆがめられてきたのであり、
日米安保条約やアメリカの世界戦略によって、
日本国憲法は、理想と現実のギャップの極みとなっています。
そのため、時代にそぐわないなどという理由で
改正しようという人たちがいますが、
その崇高な理念を現実に果たそうという努力が、
これまでの日本政治の中で欠けてきたという反省がありません。
つまり、日本は、9条のような崇高な理想を掲げている国だからこそ、
国際問題の非暴力的解決において、
積極的な役割を果たすべきだったのです。
なぜ、国際問題において、
軍事力は今だ重要な手段となっているかといえば、
国家及び国際関係の誕生以降、
なんら国際システムが変わっていないからです。
国家は、暴力によって誕生しました。
絶対王政から、市民革命によって、「民主主義国家」に変わろうとも、
つまり、君主主権から国民主権に変わろうとも、
そして、国内において、人権概念などが浸透し、基本的人権が確立して、
国家が、「国民」に対して容易に暴力を用いることができなくなっても、
国際関係において、「軍事力によって、国の安全保障する」という
根本的なシステム自体が転換できていないからです。
そもそも、安全保障という考えは、暴力によって秩序を維持するというものです。
それは、国内においては、警察力、国際関係においては、軍事力を用いるというもので、
どちらにおいても、問題解決において暴力が必要な場合、容易に発動されます。
軍事力によって、安全を保障することが前提になっているとはいえ、
それが、他国を刺激することになり、
「軍事力を保持しないと侵略される」という疑心暗鬼が
国際社会の前提となっています。
いずれにせよ、国内、国際の双方のレベルにおいて、
「法」の上位に暴力が存在しています。
しかも、現在の国際システムにおいては、
最上位にアメリカの軍事力が存在しているわけです。
しかし、おかしいと思いませんか?
国家主権を制限するための「憲法」よりも、
実は、暴力が上位に存在しているのです。
つまり、強制力です。
今、日本では、この強制力、言い換えれば、
軍事力を解き放とうとしています。
「国際貢献」という名の下に。
現在の段階では、その実体は、
アメリカへの戦争協力に近いものになります。
つまり、非常事態法などの整備は、
国内的にも、国家の暴力の開放になるわけです。
こんなことを許してはいけません。
本来、それよりも、国連を重視しなければならないはずです。
今のアメリカは、国連を軽視しています。
アメリカと国連は、政策が異なります。
アメリカは、国連の下に入るつもりはないのです。
それなのに、日本政府は、アメリカと国連をどちらも重視する外交を目指すなどと発言してきました。
そんなことはありえないのです。
自民党の一部は、「自主憲法」を制定しようと主張してきました。
一見、右派の主張のように聞こえますが、
それは、アメリカへの協力をしやすくするためのものでしょう。
集団的自衛権の議論などは、まさにそれです。
それは、日米安保条約が日本国憲法の上位にあるからです。
ここにおいても、暴力が法の上位にあることがわかります。
集団的自衛権など、国連の集団安全保障とは全く異なる原理であるのにです。
真に、国際貢献や、わが国のことを考えるのであれば、
対米追従すべきではありません。
これ以上、アメリカの軍事力に貢献して何の意味があるのですか。
「思いやり予算」など、米軍の生活の面倒をみていないで、
国内の「格差社会」の是正の方が重要です。
暴力に対抗する力は、どこにあるのか。
暴力に暴力で対抗するのは、実は愚かなことです。
そして、軍事力という暴力を維持、拡大することは、
社会保障を削り、格差を肥大し、環境を破壊することになるのです。
むしろ、非暴力によるシステム転換が必要です。
実は、暴力に対抗する有効な手段は、非暴力による抵抗運動なのです。
それはまた、別のときに論じたいと思います。
暴力による秩序維持。
それは、長らく人間の歴史に埋め込まれた負の遺産なのかもしれません。
そのため、暴力の担い手が変わるだけで、
システムの根本的な変換ができていないために、
戦争や内戦、テロなど、
血で血を洗う憎しみの連鎖が終わらない原因でもありましょう。
我々は、将来世代のことを考え、
このシステムを根本的に変えなければなりません、
なぜなら、軍事力という暴力は、環境破壊の最大の要因だからです。
そして、今の主権国家体系そのものが、暴力システムでもあるわけです。
したがって、非暴力による国家及び国際関係のシステム転換こそ、
我々が望むべき新しい政治なのです。
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編集後記
久々の編集後記です。 o(*^▽^*)o~♪
フランス大統領選挙は、
右派自由主義路線、そして親米派のサルコジ氏が当選してしまいましたね。
残念です。(-_-;)
彼は、社会運動を弾圧してきた人です。
それと、貧富の格差などに対して、非情に鈍感であり、
これまで、フランスが維持してきた社会保障制度は、
徐々に解体されるのではないでしょうか。
自由主義路線は、弱者に対して冷たい政治です。
それが、豊かな人たちの首を絞めることすら気づいていません。
一方、イギリスでは、「ブレア時代の終わり」が始まったようです。
イギリスでは、フランスとは逆に、
対米協調路線の見直しが行われているようです。
ヨーロッパも、アメリカが推進する自由主義路線によって揺れています。
日本の場合は、対米追従路線といわれていますが、
完全に飲み込まれています。
現に、右派自由主義路線が明確になっています。
南米は、反米左派政権が伸びてきています。
それは、貧者の意見を代表しているといえましょう。
グローバル化によって、
富裕層は所得を伸ばしていますが、貧者はより貧しくなっています。
そして、そのグローバル化のルールをつくる側のものたちが、
得をするシステムになっているのであり、
格差が広がるのは当然です。
そのようなときだからこそ、
右派、国家主義が受けるのですが、
それは、ものの見方が狭いです。
弱者の社会運動が起こるのは、
政治的に正当なことです。
国家主義と自由主義が結びついている今、
弱者切捨てが横行するのであり、
それは、外国人に対してだけでなく、
国内の弱者に対しても同じなのです。
経済格差の問題が、社会を乱し、
社会運動によって、格差などの問題が浮き彫りにされるのに、
それを国家は、反国家運動として、弾圧する構図なのです。
それは、国家の暴力が、正当であることが前提です。
しかし、そのような格差を生み出す国家は正当でしょうか。
グローバル化が引き起こしている格差の増大に対する
社会運動も、「反グローバル化運動」とレッテルを貼り、
権力者が弾圧しているのも同じ構図です。
国家がもつ「所有権」は甚大であり、
それと、一体となっている超国家企業が得をするのは当然です。
自由主義路線は、まさにそのような政治です。
自由にすればするほど、公平・校正な競争はないのです。
世界が一体となって、アメリカの暴走を食い止めなければなりません。
貧者の声が強くなっている南米の変化が、先進国に波及すればいいのですが。