安倍晋三首相の辞意表明を受け、自民党総裁選が行われ、
9月23日に、福田康夫氏が自民党総裁に選出された。
続いて、同月25日に、福田氏は、首相に任命され、福田内閣が発足した。
それにしても、自民党総裁選は、
福田氏と麻生太郎氏の一騎打ちであったが、
盛り上がりに欠ける内容であった。
なぜなら、福田氏は多数の派閥の支持をとりつけ、
国会議員票で既に結果が出ている状態だったからだ。
結局、旧来の自民党の「派閥政治」が表面化し、
所詮「自民党」は、派閥の寄り集まりでしかないことを
改めて露呈したと言える。
実際、今回の自民党の「党四役」は、
福田氏を支持した派閥の領袖で固められている。
小泉元首相が「ぶっ壊した」はずの「自民党」は、
小泉チルドレンなどの新しい派閥を形成しただけで、
何ら中味も変わらない危機感のない政党であるといえる。
国会会期中にも関わらず、自民党総裁選で国会が中断し、
与党の責任を放棄し、自分たちの権力闘争に終始した。
自民党は、このような無責任なことを平気で行い、
小泉改革が大失敗の政治であったことを総括することもできない。
そして、自ら、弱者切捨て、地方切捨ての「政治改革」を推し進めたにもかかわらず、今頃になって、野党の政策を自らの政策のように提言している。
小泉改革を「負の遺産」という麻生氏は、小泉・安倍両内閣の閣僚だった。
そして、福田氏も、小泉内閣時の官房長官だった。
彼らは、小泉改革を断罪できる立場であろうか。
今回の福田内閣も、暫定内閣であることを意味しているのか、
安倍内閣とほぼ変わらぬ顔ぶれだ。
国会を中断させた張本人が平気で、内閣を担う。
格差を拡大した張本人が、格差訂正を訴える。
全くあきれた構図だ。
僕の周りには、「誰が政治をやっても同じ」という考えの人がいる。
これは、日本の場合、「55年体制」に原因があるように思える。
日本は、先進国でも珍しく、選挙で政権交代が起きない国である。
事実、「55年体制」が確立してから、
政権交代は起きず、長らく「自民党」が政権を担ってきた。
日本政治の政権交代は、「自民党」内の権力闘争、
つまり、派閥政治の中の「劇」にすぎず、
汚職や腐敗を横行させ、官僚政治が定着し、
「誰が政治をやっても同じ」という意識を国民が持ってしまった。
そして、「国会議員は汚い」というイメージも定着した。
このような背景が、国会議員の政策立案能力を育てず、
官僚が力を持ち、国民の政治的無関心を肥大させた。
それらの悪循環が長年続いてきた結果、
政権交代が起きず、「誰が政治をやっても同じ」と
国民には映ったのである。
そして、もう一つ、国民に「誰が政治をやっても同じ」と思わせるのは、
現国会議員の多くが、二世、三世議員であるという事実である。
このような「権力の再生産」が、「家系」によるものであるという現実によって、国民は、政治への関心を失っていく。
なぜなら、そのような「政界」は、国民に、家系的に選ばれた者しか入れないイメージを持たせ、自分たちとは別の世界と思い込ませる。
したがって、国会議員と国民との距離は拡がり、政治的無関心を生み出していった。
今でもそのような印象が国民に根強く浸透している。
結局は、様々な要因からなる「格差」が、「政界」生み出している。
言い換えれば、「家系」「財力」「人脈」などが、
「格差」を再生産した結果、特殊な「政界」を生みだしたといえる。
二世、三世議員は、「家系」も「財力」もあるため、
高学歴である可能性が高く、親からの「人脈」があるため、選挙にも強い。
それらが、「政界」の特殊性を再生産するのである。
「世襲議員」がすべて悪いということはできないかもしれない。
しかし、国会議員の選出におけるダイナミズムがなくなれば、「政界」は硬直化する。
ある程度、志がある人が誰でも選ばれるような選挙であれば、
身近な人が国会議員となる可能性も高くなり、
国民の関心も高くなりやすいだろう。
まずは、政権交代、そして、選挙のあり方が変われば、
政治的無関心も少しは改善されるのではないだろうか。
もうすぐ、人口が激減する時代を迎える。
我々は、あらゆる価値観を変えていかなければならないのである。