もう今年も残りわずかですね。

一年が経つのは早いですねえ。 ε=(。・д・。)フー

 

いろいろ振り返りたいところですが、それは、別の機会にして、

今号では、これからどのように「世界」を見るべきかの視座を提案しておきたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我々の「世界」は、物質的なモノと、非物質的なモノによって、構成されています。

 

物質的なモノとは、そのまま、物質、物です。

例えば、紙、鉄であり、石であり、プラスチックなどなど。

つまり、自然、自然から生成したモノです。

 

一方、非物質的なモノとは、簡単に言えば、我々の頭で作り上げているもの、

つまり、精神的なモノです。

例えば、思想、信頼、恋愛や友情だけでなく、

法律、ナショナリズム、日本文化、「日本人らしさ」、地域性などなど。

言い換えれば、社会システムといえるモノです。

 

ただ、この二つのモノは、明確に分離できない、複雑な相互作用の関係性をもっています。

例えば、身近なモノでいえば、お金です。お金は、札や硬貨を指しますが、例えば、1万円というお札が、「1万円」の価値を有するかどうかは、

「信用」という非物質的なモノを有するかどうかの問題になります。

つまり、我々の間で取引する分には何の問題もないでしょうが、

アフリカの山奥に行って、1万円を出したとしても、「1万円」としての価値を有するかどうかは定かではないでしょう。

 

また、「国」一つとっても、

領土、政府、国民という三要素によって、国家は承認されますが、

領土という物質的なモノと、政府という非物質的なモノ、国民という双方のモノを要素にしています。

 

領土は、国境の問題がありますが、とりあえず、諸政府で認め合った、地形など自然のモノで判断できます。

そして、政府という国体は、我々の思考の産物です。

国民は、身体という物質的なモノであり、意識などのアイデンティティという非物質的なモノでもあります。

 

改めて、「人間」は、身体という物質的な存在であり、精神という非物質的な存在でもあります。

人間は、双方の要素をもち、同様に「国家」も双方の要素を持ちます。

同様に、「会社」というのも、事務所などの建物という物質的なモノと社員という双方のモノと、「社風」というような非物質的なモノも具えています。

それは、物質的なモノと非物質的なモノの相互作用によって生み出された要素といえます。

同じことが、自分たちの街にもいえます。

「街」は、お店や施設などの建物はもちろん、そこに住んでいる住民の方々によって「街」が構成されています。

それぞれの「街」らしさは、そこに住む人たちの「個性」によるところが重要なのです。

 

「街」は建物だけでなく、人によって作られているということは、「住民」だけでなく、交流人口を増やせば、「街」は変わるということでもあります。

 

それがこれからの街づくりのヒントかもしれません。

 

そして、重要なことは、これらのモノの根本にあるのは、「自然環境」ということです。

あらゆる人間のシステムは、自然界、生態系という、自然システムの規定内にあるということは、忘れがちですが、大変重要な事実です。

 

つまり、「世界」は、「自然システム」と「社会システム」によって構成されています。

言い換えれば、「世界」は、物質的なモノと非物質的なモノによって構成されています。

 

しかしながら、「社会システム」の不正義が、「自然システム」を再生不可能なレベルにまで破壊しようとしています。

もはや、「自然」というものは、人間の手が加えられていたり、

人間の営みに影響を受けているため、純粋な「自然」は存在していません。

 

人類が「農耕・牧畜生活」をするようになってから、人類は他の生物種と異なる存在になりました。

そこから、環境破壊の歴史が始まったといえるわけですが、その限界が近くなっています。

 

「社会システム」の不正義には、「世界システム」における「南北格差」だけでなく、

国内の経済格差、「経済の自由化による無責任政治」、市場原理の暴走などなど、

軍事化による腐敗もあるでしょう。

これらは、環境破壊につながっています。

 

11ドル以下で暮らす人が世界中で、13億人いるそうです。

途上国において、所有権の問題によって、土地を持てない人々が、乱開発してしまったり、

先進国においても、消費という形だけでなく、生産という形で環境負荷が高まっています。

大量生産・大量消費、いわゆるフォーディズムです。

耐久消費財という、将来ごみになるモノが我々の周りにあふれています。

 

このような生活様式は、もはや維持できないだけでなく、危険でさえあります。

 

 

これから、特に、日本は、超高齢化社会になろうとしています。

70年代の高度経済成長期や、80年代のバブル期とは違い、今は思考(志向)を転換しないといけません。

「経済成長」は、「豊かさ」とはことなる指標なのです。

つまり、これまでの、「経済成長」という自然環境を破壊しながら得た豊かさは、幻なのです。

 

超高齢化社会において、もはや経済成長は見込めません。

市場自体の規模が縮小するからです。

 

国立社会保障・人口問題研究所などの分析によると、

2050年ぐらいに日本の人口は、7000万人から8000万人にまで減少することが予想されています。

つまり、人がいなくなる時代なのです。

 

大都市は緩やかに、地方中核都市は少し上昇するが、その後緩やかに、それ以外の地方都市は、激減する人口。

これまでの経済発展・開発主義の思考では、街づくりができないのです。

 

 

最近でも、「道路建設の大合唱」が、国会で起きているそうですが、

誰のための道路建設なのか、まったくの疑問です。

特に、地方都市の、お年寄りばかりの街に道路を作ってどうするのでしょう。

人がいない街に道路があってどうするのでしょう。

 

確かに道路が必要な街もあるでしょうが、

日本の道路計画はおかしなものばかりです。

日本の高速道路は、建設費用が高いし、設置された無数の高価な電話も必要以上にあります。

 

お年寄りが多い街は、公共交通機関が必要です。

これまで膨張しすぎた街を再建しなければなりません。

 

郊外の乱開発は、もうやめる時期です。

郊外の乱開発は、自然環境を破壊するだけでなく、田畑を減らし、

食料自給率を低下させています。

 

経済問題、環境問題、高齢化などなど、様々な問題が実はリンクしているのです。

 

ただいえることは、人がいなくなる時代だからこそ、

人を大事に育てなければなりません。

 

これからの時代、人を大事にしなかった企業がしっぺ返しされる時代です。

「リストラ」という名の解雇。

社員と同じ仕事をさせられながら、低い賃金しか得られない大量のパート社員。

「小泉・竹中」政権の時代に、会社の競争力をつけるという名目で、

これらの労働再編が進められました。

実際、これらは格差を助長するだけなのです。

 

社会保障制度までも、「経済の自由化」によってゆがめられ、

医療・福祉までも市場経済にさらされています。

市場経済は、公正な配分をするシステムでは決してありません。

「経済の自由化」は、政治の役割までも、市場原理に委ねてしまう愚かな政治なのです。

市場原理とは、単純にいえば、「資本」を有するものほど、競争に勝つ原理、

すなわち、豊かな人はヨリ豊かに、貧しい人はヨリ貧しくなるシステムです。

市場原理には、公正な競争は存在していません。公正な競争など机上の空論なのです。

現に、競争に参加できない人さえいます。

 

だからこそ、「経済の自由化」は、格差社会を生むのです。

アメリカ型社会は、理想のモデルではないのです。

むしろ、格差社会の象徴です。

 

異常なまでの格差は、無責任な政治が生み出した「不正義」なのです。

 

完全に格差をなくすことはできませんが、

障害者など社会的弱者が生活苦にさらされています。

年金だけで生活する人たちも大変ですし、

「ワーキングプア」とよばれる労働者まで現れています。

「ワーキングプア」とは、簡単に言えば、働いても、生活保護の受給額よりも賃金が低い人たちのことで、

そのような人たちが存在するということは、異常な労働環境です。

 

 

このような現実を前にして、政治的無関心が増えています。

投票に行かない人たち、政治とは無縁だと思っている人たち。

そのような人たちに言いたい。

「考え方をちょっと変えるだけで、世界は変わる。

我々の代表者、意見の集約者である議員が変われば、

政治は変わる」、と。

 

 

政治は、国政から自治体レベルまで様々ですが、

純粋な階層構造とはなっていないのです。

我々が学校で教育されてきた内容だと、

あたかも階層構造のように国ができているかのようなイメージを植えつけられます。

 

しかし、必ずしもそうはなっていないのです。

国際社会と諸国家、国と自治体。都市と地方。

それぞれ、相違があるために、共存しているのです。

つまり、国や街づくりにおける「すみわけ」です。

 

「グローバル化」は、世界の時空間を圧縮すると同時に、

ナショナリズムを喚起するなど反作用が起きています。

逆に言えば当然の結果なのです。

 

同様に、国内では、

地方の街づくりは、郊外の大型店舗とどのように向き合うか、

共存共栄を目指すのか、競争するのか、

様々な選択に迫られているのではないでしょうか。

 

とはいえ、大型店舗を自分の「街」の自慢にする人はいないでしょう。

 

 

大型店舗進出による郊外の開発は、経済の自由化の象徴であり、

ある種、グローバル化のミニチュア化です。

 

だからこそ、それぞれの「街」の特色が必要なのです。

 

なぜなら、「グローバル化」は、

街の個性などを破壊してしまうという暴力性をもっている現象だからです。

そのために、大都市と地方都市の「すみわけ」が必要ということでもあります。

 

ダーウィンの進化論に対する反証が「すみわけ」であったように、

進化論と同じ原理である市場原理に対して、「すみわけ」という非市場原理が必要なのです。

 

 

東京に一極集中する現代日本の構造は、

政治的にも、経済的にも、社会的にも、歪んだ構造であり、

それが街づくりの障害にもなっています。

繰り返しますが、このような社会システムは、我々の思考の産物です。

 

 

我々の「世界」の少なくとも半分が、我々の思考の産物であるならば、

つまり、半分は非物質的な「世界」である以上、

我々の思考の転換によって、

「世界」は確実に変えられるということです。