ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★泣告
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗 左近氏87歳(そう・さこん、本名・古賀照一=こが・てるいち)詩人・歴
程同人。6月19日死去。後日、しのぶ会を行う予定。
北九州市生まれ。東大哲学科卒業後、詩作を始め、67年、詩集「炎える母」を
発表、東京大空襲のさなかに母の手を離し、焼死させてしまったことへのしょく
罪をこめた作品として反響を呼び、68年、第6回歴程賞を受賞。その後、「縄文」
などの縄文シリーズ詩集で、文明に滅ぼされた「縄文人」や第二次大戦中の死者
への祈りと鎮魂の詩を書き続けた。一方、芭蕉や一茶など俳句への関心も高く、
最近は俳句に近い一行詩に取り組むなど、晩年まで多彩で旺盛な創作活動を続け
た。
95年に詩集「藤の花」で第10回詩歌文学館賞。04年、生命の尊厳を表現する日
本の詩歌人を対象としたスウェーデンのチカダ賞の第1回受賞者となった。
仏文学者としてフランス象徴詩を紹介、ロラン・バルト「表徴の帝国」やアラ
ン「幸福論」などを翻訳。「宮沢賢治の謎」などの詩論や美術評論・書でも活躍
した。
宗左近氏が亡くなった。追悼の意も含めて少し個人的思い出を書いておきたい。
氏の印象は、人によっては大変差異のある人だったに違いない。その原因は、
詩に対する態度の厳しかった人で、本音を述べても世辞は苦手な人だったからだ。
そこに対面する人があれば、氏は積乱雲のような大きな雲の有態で、寡黙の人
で必要以外のことは語らず。それは誤解されることも多かったにちがいない。
ぼくが、氏と急激にお近づきになったのは昭和の終わりごろ。わが妻が歴程同
人だったことも縁するが、同時に、別に出会った上林猷夫氏と、詩人の書画展示
会を企画してからのことである。
詩人の書画展ということでは、その前に会田綱雄氏の個展を開いてみて、詩人
の生き様がそのまま、活字以上に現れる卒意の書に魅力を見つけたからだったが、
当時の詩人の多くは、個人的日常からの文化発信にこだわり、活字以外の自らの
魅力に気づいている人が少なかった。その方面の開放にと、上林氏と意見が合っ
てのことだった。
上林氏の人選で平成5年の6月、銀座4丁目の画廊に集合したのは、大岡信・
加島祥造・宗左近・粒来哲蔵・原子朗・三ツ村繁各氏であった。
この日、その席上で、この会の運営など話し合われたわけだが、その名称は、
宗氏の提案された「雲の会」となった。
雲という、漠然としたとりとめもないモノに、表現活動がふさわしかったから
にちがいない。満場一致で決まり、ぼくが世話人として、第一回展は9月に開催
された。ちなみに、それは第二回展から那珂太郎・疋田寛吉各氏が、第三回展に
は松永伍一氏が参加されている。
これだけのメンバーが揃えば、この展覧会への客足は画廊にとって予想以上に
あったものの、作品が売れるものでもなければ、画廊企画に甘えるのもそこまで
としたが、それを喫機としてこの種の催しはその後は、宗氏をはじめ個人展など
になって開催されるようになったことは良かった。
そのような宗氏との関わりは、その後も、ぼくの企画による書画展にはいつも
出品をいただいていた。
また氏の仕事の一つとして、先の「慰霊の日俳句大会」の選者にも名前を連ね
ていたように、俳句の見直しというのがあったと思う。
俳句評論集には「さらば現代俳句よ」「二十一世紀の俳句」など多々あるが、
氏自身も一行詩集「藤の花」「響灘」などを刊行している。
それら作品は『俳句以前であって現代詩以前、そして両者の中間、よって中句
と名付けます。』と後記に書いている。
大瀑布 地球に寄らず堕ちてゆく
さようならはないさようならよさようなら
ぼくの手元にある氏の著書に、この二句がサインと共に書かれている。またこ
れは両句とも、機会を違えて二度づつ書かれてあったことをみると、氏のお気に
入りだったにちがいない。
この他にも、紹介したい極々個人的思い出もたくさんあるが、ここでは割愛さ
せて頂きますが、ぼくが四十代の始め俳句に断念しかけていたとき、氏からなに
げなく語り聞かせていただいた言葉が、はげまし以上にそれからの再出発に大き
な影響を与えて下さったことを明記しておきたい。そんなことなど感謝し、ご冥
福をお祈りいたします。 (市原 正直)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編 集 後 記
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今回は、宗左近氏の突然の訃報のためその紹介のみとなりましたが、氏の俳句
へのいろいろな提言は、実は俳句への憧憬だったと思える。戦後の現代詩が多行
口語表記・散文表記など取り入れたことにより、叙情叙事、思想表現の多様を可
能にした。その変革は、新しい詩のカタチが、一般人にも難なく受け入れられて
いる状況をしれば、俳句における社会性・造型の論議以上に歴史的評価は高くあ
って良いとおもう。しかしそれがどうであったか。詩人のインテリ化がますます
進んでくると、その作品は非日常化してそのコトバは照明の切れたトンネルの中
で足掻いているだけにみえる。俳句はとみればこれも迷路の中。とはいえ、こち
らはまぶしい太陽の下。この違いは何かといわれれば、歴史の違いだといえる。
先祖の遺産に胡坐をかいている俳人が、多くあれば、詩人が苦言を言いたくなる
のもさりありなん。なお、宗氏は俳人に向かって俳句をやめろとはいっていない。
句の投稿・句会情報はこちら⇒omiyage@kai-raku.net
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
★泣告
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
宗 左近氏87歳(そう・さこん、本名・古賀照一=こが・てるいち)詩人・歴
程同人。6月19日死去。後日、しのぶ会を行う予定。
北九州市生まれ。東大哲学科卒業後、詩作を始め、67年、詩集「炎える母」を
発表、東京大空襲のさなかに母の手を離し、焼死させてしまったことへのしょく
罪をこめた作品として反響を呼び、68年、第6回歴程賞を受賞。その後、「縄文」
などの縄文シリーズ詩集で、文明に滅ぼされた「縄文人」や第二次大戦中の死者
への祈りと鎮魂の詩を書き続けた。一方、芭蕉や一茶など俳句への関心も高く、
最近は俳句に近い一行詩に取り組むなど、晩年まで多彩で旺盛な創作活動を続け
た。
95年に詩集「藤の花」で第10回詩歌文学館賞。04年、生命の尊厳を表現する日
本の詩歌人を対象としたスウェーデンのチカダ賞の第1回受賞者となった。
仏文学者としてフランス象徴詩を紹介、ロラン・バルト「表徴の帝国」やアラ
ン「幸福論」などを翻訳。「宮沢賢治の謎」などの詩論や美術評論・書でも活躍
した。
宗左近氏が亡くなった。追悼の意も含めて少し個人的思い出を書いておきたい。
氏の印象は、人によっては大変差異のある人だったに違いない。その原因は、
詩に対する態度の厳しかった人で、本音を述べても世辞は苦手な人だったからだ。
そこに対面する人があれば、氏は積乱雲のような大きな雲の有態で、寡黙の人
で必要以外のことは語らず。それは誤解されることも多かったにちがいない。
ぼくが、氏と急激にお近づきになったのは昭和の終わりごろ。わが妻が歴程同
人だったことも縁するが、同時に、別に出会った上林猷夫氏と、詩人の書画展示
会を企画してからのことである。
詩人の書画展ということでは、その前に会田綱雄氏の個展を開いてみて、詩人
の生き様がそのまま、活字以上に現れる卒意の書に魅力を見つけたからだったが、
当時の詩人の多くは、個人的日常からの文化発信にこだわり、活字以外の自らの
魅力に気づいている人が少なかった。その方面の開放にと、上林氏と意見が合っ
てのことだった。
上林氏の人選で平成5年の6月、銀座4丁目の画廊に集合したのは、大岡信・
加島祥造・宗左近・粒来哲蔵・原子朗・三ツ村繁各氏であった。
この日、その席上で、この会の運営など話し合われたわけだが、その名称は、
宗氏の提案された「雲の会」となった。
雲という、漠然としたとりとめもないモノに、表現活動がふさわしかったから
にちがいない。満場一致で決まり、ぼくが世話人として、第一回展は9月に開催
された。ちなみに、それは第二回展から那珂太郎・疋田寛吉各氏が、第三回展に
は松永伍一氏が参加されている。
これだけのメンバーが揃えば、この展覧会への客足は画廊にとって予想以上に
あったものの、作品が売れるものでもなければ、画廊企画に甘えるのもそこまで
としたが、それを喫機としてこの種の催しはその後は、宗氏をはじめ個人展など
になって開催されるようになったことは良かった。
そのような宗氏との関わりは、その後も、ぼくの企画による書画展にはいつも
出品をいただいていた。
また氏の仕事の一つとして、先の「慰霊の日俳句大会」の選者にも名前を連ね
ていたように、俳句の見直しというのがあったと思う。
俳句評論集には「さらば現代俳句よ」「二十一世紀の俳句」など多々あるが、
氏自身も一行詩集「藤の花」「響灘」などを刊行している。
それら作品は『俳句以前であって現代詩以前、そして両者の中間、よって中句
と名付けます。』と後記に書いている。
大瀑布 地球に寄らず堕ちてゆく
さようならはないさようならよさようなら
ぼくの手元にある氏の著書に、この二句がサインと共に書かれている。またこ
れは両句とも、機会を違えて二度づつ書かれてあったことをみると、氏のお気に
入りだったにちがいない。
この他にも、紹介したい極々個人的思い出もたくさんあるが、ここでは割愛さ
せて頂きますが、ぼくが四十代の始め俳句に断念しかけていたとき、氏からなに
げなく語り聞かせていただいた言葉が、はげまし以上にそれからの再出発に大き
な影響を与えて下さったことを明記しておきたい。そんなことなど感謝し、ご冥
福をお祈りいたします。 (市原 正直)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
編 集 後 記
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今回は、宗左近氏の突然の訃報のためその紹介のみとなりましたが、氏の俳句
へのいろいろな提言は、実は俳句への憧憬だったと思える。戦後の現代詩が多行
口語表記・散文表記など取り入れたことにより、叙情叙事、思想表現の多様を可
能にした。その変革は、新しい詩のカタチが、一般人にも難なく受け入れられて
いる状況をしれば、俳句における社会性・造型の論議以上に歴史的評価は高くあ
って良いとおもう。しかしそれがどうであったか。詩人のインテリ化がますます
進んでくると、その作品は非日常化してそのコトバは照明の切れたトンネルの中
で足掻いているだけにみえる。俳句はとみればこれも迷路の中。とはいえ、こち
らはまぶしい太陽の下。この違いは何かといわれれば、歴史の違いだといえる。
先祖の遺産に胡坐をかいている俳人が、多くあれば、詩人が苦言を言いたくなる
のもさりありなん。なお、宗氏は俳人に向かって俳句をやめろとはいっていない。
句の投稿・句会情報はこちら⇒omiyage@kai-raku.net
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー