「イメトレ英語学習法」日本実業出版社、「7つの動詞で身につける英語感覚」はまの出版などによってわが国の英語・英会話学習に発想の転換をもたらす著者、中嶋太一郎のブログ

●「英会話の九九」を生み出すきっかけになったのは

 私には忘れられない光景があります。そしてそれが私に「英会話の九九」というものを生み出すきっかけとなりました。それはずっと以前の映画のワンシーンです。この映画は南アフリカの人種隔離政策(アパルトヘイト)を扱ったものですが、ある教会で白人学生が黒人の子供たちを集めて英語を教えているシーンがありました。一人の青年が多くの子供たちを前にして、Iと言い、彼らにI amと答えさせていました。次にYouと言い、You areと、さらにWeと言い、We areなどと続けていたのです。このシーンを見て、私は、「これは英会話の九九だ!」と思わず叫んだことを今でも覚えています。

  I → I am, We → We are, You → You are, She → She is

「私」「私たち」「あなた」と、身の回りのすべての「存在」を認めることによって。あなたの英語発想に身を置いた学習が始まります。
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すでにお気づきの方もおられると思いますが、この指導法はETP=English Through PicturesというC.K.Ogden氏のBasic Englishによるものです。
この指導法は、教えるものが英語だけで指導するもので、すでに明治時代に日本に紹介されています。現在でもこの教授法はなされていますが、それほど広がっていないのが現実です。私自身もこのBasic Englishに多大の影響を受けていますが、その指導法において大きな欠点があると思います。それは「教えるものは英語だけで教える」という一点です。このことは現在のAETやネイティブ完備の町の英会話学校でも同じことですが、この指導法はイギリスの中国侵略と共になされたもので、つまり英語を学ぶものの母国語を無視したものなのです。
もちろん町の英会話学校のように、「ネイティブが教えたら英語が話せる」といった乱暴なものではありませんが、私は学ぶ者の母国語の論理、発想を無視した指導法、あるいはわからないところは「きちちんと日本語で説明してやれよ」と思います。

最近、「中学からの英語教育は遅すぎる」といった風潮があり、児童英語や小学生の1年から教えている所もあると聞きます。母国語もままならない子供たちに、いくら「頭が柔らかい」とか「記憶力がいい」などとの理屈をつけてもしょせんは、単なるセリフの丸暗記の指導に過ぎないことは、明らかです。

この風潮は、逆に日本の中学や高校の英語教育の効果にその問題があると言えるでしょう。もっと言えば、すでに母国語の論理、発想を身につけた子供たちに、どのようにして英語の論理、発想を教えるか、という課題に答えていないと言えるでしょう。

さて、このことについてはいずれきちんと述べたいと思いますが、今回はこの「英語、英会話の九九ドリル」について述べたいと思います。

今回も、下記のアドレスをクリックして、「英会話の九九」[Table No.1]をご覧ください。
 http://homepage3.nifty.com/cominica/muli-table/multi-table-1.html


映画で、青年が子供たちに教えていたのは私が理解するところでは、「身の回りの人を存在させろ」、「存在させたら、それはどんな状態かを説明することができる」ということだと思います。これは[Table No.1]の[Group A]にあたります。
また[Group B]ではその否定表現、Group C]ではその疑問表現、そしてGroup D]ではその否定疑問表現となっています。
もちろん、教える生徒たちの進度にもよりますが、なにより大切なことは教える立場の者がその全体像(=ここではbe動詞の現在形の表現)を知っておくこと、一方教えられる者も自分がとどこを学んでいるかを認識できることにあります。

映画では、I am, You are,などて終わっていましたが、私ならさらに、I→I am not, You→You are notや、You→Are you, he→Is heなどと答えさせるべきだと思います。

最後に、ここでも日本の英語教育の欠点を述べざるを得ません。
先にあげた、「英会話の九九ドリル」をもう一度ご覧ください。そこにbe動詞の6つの補語のタイプをあげています。
ここには、教育文法で言う場所句やイディオム、あるいは進行形や受身形のものがありますが、これも私は補語ととらえています。教育文法では進行形や受身形を動詞の変化ととらえていますが、このようにとらえるとその度ごとにam, are,isの選択が必要となったり、そもそもこれは読解のための理解のしかたです。英語の発想にでは補語は「独立したもの」です。例えば、相手が目の前にいたら、(Are you) Doing the cleaning?とか、(Are you) liked by everyone?などと表現します。
さらにこのようにとらえる習慣がついていれば、(Do you) do the cleaning everydayや?(Will you) do the cleaning?とか、(You will) be liked by everyone.などとも簡単に展開できます。
これが私の提唱する「ひとまとまりの行為・状態論」です。

最後になりましたが、この6つの補語のタイプで、子供たちが表現で間違うのは補語が名詞であるもの、つまり主語に応じてその複数か単数かを使わなければならないことになりますが、ここで重要なのは彼らはたとえ文法上間違っても文は生産できる、ということです。こんなときには教える者はきちんと日本語で説明してあげましょう。

ちなみに前回の記事の続きですが、likeとwantでは目的語の形に違いが出てくるということを述べました。つまりlikeは数量を問題にしないことが多く、一方wantでは、数量を明確にさせる必要があるということです。これはEnglish Treckig教材を見てぃただくと簡単にわかります。
今回さらに述べたいのは、like juiceとlike dogsとの違いをどのように教えるかということです。文法では「不可算名詞」と「可算名詞」ということですが、私は前者のものは、「切っても切っても元のもの」、さらに「絵が描けないもの」と教え、後者は「特定の個性を持つもの」、さらに「絵が描けるもの」といった説明をします。つまり例えばジュースや水はそのもの自体は絵に描けないし、切っても切ってもそのものです。一方犬の絵は描けるし、犬を切ったら「犬肉」となってしまいます。犬という個性を持ったa dogが、犬、犬、犬などが好きだはdogsとなるべきてすね。

またこれを使った学習を展開したブログもあります。ぜひ訪れてください。

http://blog.mag2.com/m/log/0000197217