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★この本から感じる「横浜」:歴史の「生き証人」・氷川丸

1930年(昭和5年)4月25日の竣工から78年。
2008年(平成20年)4月25日、本ブログ27冊目で触れたように、
氷川丸は日本郵船という竣工当初の船主による運営の下、「日本
郵船氷川丸」
というミュージアムとしてリニューアルを果たした
海上で保存している遠洋航路の定期船としては世界最古の文化遺産である。
私も早速足を運んだが、今回新たに一等読書室が公開されるなど、大いに「船の旅」への
憧れがかき立てられる
施設となっていた。

大宮の氷川神社にちなんで命名された氷川丸は、現在のランドマークタワー付近にあった
横浜船渠株式会社の造船所で、シアトル航路の貨客船として建造された。
処女航海は5月13日に神戸を出航、17日に横浜を経由して太平洋を10日間で横断し、
寄航したシアトルやバンクーバーでは現地市民の熱烈な歓迎を受ける。
日米関係の悪化で航路を休止する1941年までの11年間に太平洋の横断は146回
その間、チャップリン秩父宮殿下夫妻、講道館の創立者嘉納治五郎も乗船している。

しかし、太平洋戦争の開始とともに氷川丸の運命に急展開が訪れる。
氷川丸は「海軍特設病院船」として徴用され、1945年に舞鶴で終戦を迎えるまでに
24航海を行い、ビスマルク諸島や東南アジアなどで傷病兵を収容、日本へ輸送する。
戦後は復員軍人の帰還輸送を7航海と一般邦人の引き揚げ輸送を3航海。
ちなみに氷川丸は戦前・戦中・戦後の30年間で約9万人を輸送したが、
うち約6万人は戦中の傷病兵と終戦直後に輸送した復員兵、一般邦人
だった。
その後1953年にシアトル航路に復帰して「太平洋の女王」の称号を獲得するものの、
飛行機時代の到来により1960年に引退、山下公園前に係留されて現在に至っている。

本書では氷川丸以外の客船にも触れているが、戦時中の記述は読後に強い印象を残す。
氷川丸と同様にシアトル航路で活躍した日枝丸や平安丸など、
海軍の運送船、特設潜水母艦などとして徴用された名だたる客船たちが、
ことごとく米軍の魚雷攻撃や空爆を受けて沈没
した様子が描かれているのだ。
3度の触雷などの危機に遭遇しながらも、病院船として終戦まで「生き残る」ことが
できた氷川丸が、極めて幸運かつ例外的な存在だったことがよく分かるのである。

日本海運は戦争で2,568隻を失い、外航に堪えうる船は氷川丸を含め3〜4隻だけが
残ったというが、こうした全体像を知ると、氷川丸という存在の見方も変わってくる。
今日、われわれが山下公園で氷川丸の雄姿を仰ぎ見るとき、
日枝丸、平安丸などの「不在」も同時に見るべき
なのだ。
氷川丸は決して単なる一観光施設ではなく、文字通り、歴史の「生き証人」なのである。

最後におまけ情報を一つ。
若竹七海『海神(ネプチューン)の晩餐』は1932年3月6日、バンクーバーに向けて
横浜を出航した氷川丸を舞台にした長編ミステリーである。
本ブログ78冊目の『横浜QE2号殺人事件』では事件は船の外で起こる設定だったが、
『海神の晩餐』は氷川丸の船内で怪事件が続発する正統派の「船上ミステリー」。
日本郵船氷川丸を見て構造を把握した後に読むと臨場感は倍増となるので、
ぜひ氷川丸の見学とセットでお楽しみいただきたい。


【書誌データ】
書 名:氷川丸とその時代
著 者:郵船OB氷川丸研究会編
出 版:海文堂出版
出版年:2008年2月
価 格:3,500円
ISBN: 978-4303634452

 
★この本から感じる「横浜」:天皇賞発祥の地・横浜

ちょうど1年前の本ブログ43冊目で、横浜は日本で始めて近代競馬が行われた地であるとともに、戦前までは日本の近代競馬の開拓者であったことに触れ た。
その記事で紹介したように、日本初の近代競馬は1862年(文久2年)5月1日に外国人居留地裏、現在の中華街エリアで行われ、
1867年(慶応2年)からは根岸競馬場(現在の根岸森林公園)で
おおむね毎年春と秋に競馬が開催されていた。
かつて「競馬のまち」といえば横浜だったのだ。

本書は、小説家である著者の競馬好きが高じて生まれた歴史時代小説
馬産のまち・三春を故郷とする主人公・富樫裕三郎が、幕末に外国奉行などとして
活躍する小栗忠順(お ぐり・ただまさ)に、とある巡り合わせで仕えることとなり、
小栗の命により日本初となる根岸の競馬場開設に奔走する物語である。
著者が創造したキャラクターである富樫裕三郎は騎手としても一流であり、
物語が進むうちに、幾多の「レース」で騎乗することなる。

その手初めが本書のタイトルにもなっている1861年(文久元年)のレース
幕府の役人が練習場として使用していた弁天社裏の馬場※で行われたこの競馬は
組織的に行われたものではないとされるが、時期的には居留地裏の競馬に先立ち
43冊目の早坂氏はむしろこちらを近代競馬の発祥と位置づけている重要なレース。
富樫はこのレースに腹痛の騎手の代役として急遽参加することになる。
その結果は一応伏せておくが、その後富樫は名騎手として居留地の外国人たちに
親しまれながら、競馬場の開設という自らの職務を遂行していく。

本書の眼目は、何より富樫裕三郎という主人公を設定したことにある。
1860年の遣米使節団、1861年の弁天社裏での競馬、1862年の「初競馬」と
生麦事件、1865年の山手駐屯地競馬と弁天社脇への横浜仏国語学伝習所の開校、
1866年の根岸競馬場の完成などに富樫がことごとく居合わせることにより、
「馬」に関するあらゆる出来事が縦糸でつながれていく。
本書は大半がノンフィクションでありながら、富樫が狂言回しを務めることにより、
読者は開港・明治期の日本競馬史の流れに「並走」することができるのである。
これは本書が「小説」であるからこそ成しえたことであり、岳氏に賛辞を送りたい。

ちなみに本書の終盤で、1905年(明治38年)春の「皇帝陛下御賞杯競争」の
模様が描かれるが、これは現在の天皇賞の起源とされるレースであり、
本書が紡ぎ上げた物語は、正に現在につながっているものであると言えよう。
本日の天皇賞、「天皇賞発祥のまち」横浜のみなさまはきっと勝利を収めましたよ ね?

※弁天社裏の馬場
 一川芳員「横浜明細全図」(横浜市立図書館ホ ームページ)
 リンク先地図の中央の島(関内地区)右端の緑色のエリアにズームインすると
 「馬場」の文字を見ることができます。


【書誌データ】
書 名:文久元年の万馬券 日本競馬事始め
著 者:岳真也
出 版:祥伝社文庫
出版年:2007年10月(単行本2003年)
価 格:743円
ISBN: 978-4396333881

 
★この本から感じる「横浜」:重大鉄道事故が二度起こったまち・横浜

残念ながら、これも横浜本である。
本書は、元JR東日本会長の山之内氏が、19世紀以降に国内外で
起きた鉄道事故と、それらの事故を契機として生まれてきた安全システムの歴史を辿った一冊。
40年以上を超える国鉄・JRでの経験談も随所に織り込まれ、「安全」についての生々しくも地に足の着いた議論が展開されている。
なぜ本書が横浜本なのか。
死亡者数で見た日本の鉄道10大事故に、横浜で起こったものが2件も
ランクイン
しているのである。

一つは1951年(昭和26年)4月24日に起こった「桜木町事故」
この日午後、5両編成の京浜東北線が横浜駅を発車し、桜木町駅にさしかかったとき、
作業の誤りで切れて垂れ下がっていた高電圧の送電線(架線)にパンタグラフが絡まり、
電圧1,500ボルトもの電気が鋼体製の車体に接触した。
こうした場合に瞬時に送電を停める遮断機は十分に動作せず、大電流が流れ続け、
屋根が木製であった電車はたちまちのうちに炎に包まれた。
この事故で日本鉄道史上7番目に多い106人の乗客が亡くなった。

そしてもう一つは1963年11月9日に起こった「鶴見事故」
夜の9時51分、東海道線の鶴見と新子安の間を走っていた45両編成の貨物列車の
43両目が突然脱線して左側に傾き、電柱に衝突し、続く2両も脱線した。
並行して走っていた横須賀線の下り電車の運転士は架線の揺れを見て急停止したが、
この電車と貨物列車の間に走ってきた上り横須賀線が脱線した貨車に衝突。
上り電車の先頭車が脱線し、停車していた下り電車の4両目と5両目に突っ込んだ。
この事故での死者は日本鉄道史上3番目の161人。
本ブログ68冊目で触れたが、横浜市大の三枝博音学長もこの事故で亡くなっている。

この2つの事故は、それぞれ国鉄が安全確保を推進する大きなきっかけとなった。
桜木町事故については、戦中の資材不足の中で作られた電車の屋根に鉄板を張り、
幌がないため開けられなかった車両間の連結部には通路用の幌を取り付け、
事故時に乗務員が操作を怠った非常用の扉操作レバー「Dコック」は赤ペンキで塗られた。
さらに国鉄は、安全の憲法と言われる「安全の確保に関する規定」を初めて定め、
「安全は、輸送業務の最大の使命である」との原則を基本綱領の冒頭に掲げた。

鶴見事故後の対策は一筋縄ではいかなかった。
事故直後に鶴見事故技術調査委員会を設置し、試験走行なども実施するが、
車両が脱線した原因を解明できず、複数の要因による「競合脱線」という結論となった。
そこで1968年に脱線事故技術調査委員会を新たに設置し、北海道の廃線を使って
積荷や車両寸法などの条件を変えて試験走行を行った
結果、脱線を防ぐための
技術的課題を把握することにつながり、競合脱線事故の大幅減に寄与した。
山之内氏が言うように、大事故が、結果として安全技術の蓄積につながってきた。
それが鉄道史の現実なのだ。

事故で亡くなられた方のご遺族は、きっとまだ多く横浜に住まわれているのだと思う。
桜木町事故、鶴見事故とも横浜の地域特性が原因で起こったものではないと思うが、
2つの大事故の舞台となった横浜は、鉄道の安全について高い問題意識を持つまち
あるべきだと考える。
一昨年12月に、市営地下鉄の点検中の事故で交通局の職員が亡くなったという。
横浜が「鉄道事故のないまち」となる日まで、語り継ぐべきことは多い。


【書誌データ】
書 名:なぜ起こる鉄道事故
著 者:山之内秀一郎
出 版:朝日文庫
出版年:2005年7月(単行本2000年)
価 格:700円
ISBN: 978-4022614797

[ 横浜人物伝 ] [ 2008/05/03 13:29更新 ]  

 
★この本から感じる「横浜」:谷崎潤一郎が映画に取り組んだまち・横浜

佐藤春夫とくれば谷崎である。(笑)
1920年(大正9年)4月20日、映画製作・配給会社である大正活動写真株式会社、後の大正活映が山下町で設立された。
87周年にあたる昨年は大正活映の映画監督・トーマス栗原の伝記を取り上げたが、88周年の今年は、大正活映もう一人の主要人物である文芸顧問・谷崎潤一郎に関する本を紹介したい。

本書は大正活映時代を中心に、谷崎の生涯にわたる映画とのかかわりを追ったもの。
1886年(明治19年)7月24日、東京市日本橋蠣殻町に生まれた谷崎は、
1910年に『誕生』『刺青』など、視覚美を意図する作品でデビューを遂げる。
1913年(大正2年)頃から日本映画の近代化運動が広がる中で、
1917年、映画についての最初のエッセイ「活動写真の現在と将来」を発表。
欧米の映画を鑑賞する中で映画という芸術の将来性への確信を表明するとともに、
「機会があればPhotoplayを書いて見たい」と述べていた。

本ブログ41冊目で触れたように、大正活映で谷崎は1920年11月公開の
『アマチュア倶楽部』を皮切りに、泉鏡花の原作を谷崎が脚色した『葛飾砂子』
(同12月公開)、原作谷崎の『雛祭りの夜』(1921年3月公開)、上田秋成の
『雨月物語』に題材を得た『蛇性の淫』(同9月公開)と矢継ぎ早に4作を世に送る。
谷崎が大正活映に関わりを持っていたのはおよそ1年半と短い期間だったが、
著者の千葉氏によると、この映画制作体験は谷崎にとって二つの転機を成した。

一つは、1919年に「幻覚の世界もまた経験の一部」と述べた谷崎が、
文学で果たせなかった視覚的イメージの構築に実験的に取り組んだ結果として、
幻想的な文学からモノローグを主とした文学へと還っていったこと。
このことは大正活映での映画制作体験を幻想的に描いた『肉塊』(1923年)が
「失敗」であったのに対し、横浜での体験を客観化することで1925年の『痴人の愛』
翌年の『友田と松永の話』という「成果」が得られたことに表れているという。
(注:私にとっては『肉塊』も貴重な「谷崎版・横浜本」です。)

もう一つは、日本の近代化の急激な流れの中で、自らが欧米や日本の文化に
引き裂かれる「文化的多重人格」であることを認識
したこと。
『雛祭りの夜』を撮影していた頃に書いた映画論「日本の活動写真」の中で、
「ただ米国のそれを真似る事は禁物で、何処迄も固有なのが望ましい」とした
谷崎は、次作の題材を古典『雨月物語』に求めることになるのだが、こうした方向性は
日本の独自性を陰翳の美に求める1933年の『陰翳礼讃』などに結実していく。

このように分析されると人に歴史あり、谷崎成長せりと納得するのだが、その一方で、
谷崎が映画にのめり込んだ理由について、佐藤春夫の興味深いコメントが残されている。
谷崎からの千代夫人の「譲渡未遂」により谷崎と絶交した佐藤の観察では、
谷崎は千代夫人の妹で結婚さえ考えたという「掌中の玉」葉山三千子の姿を
スクリーンに投じたいがために映画製作に熱中した
という。
実際、葉山三千子は『アマチュア倶楽部』で主役を演じ、読売新聞による
1921年3月の女優人気投票で6位にランクインする健闘ぶりを見せている。

ちなみに谷崎は大正活映の撮影所に通うのに不便を感じて1921年9月に小田原から
本牧宮原に移り住み、大正活映との関係を絶った後も、関東大震災を受け関西に
移るまでは山手
に家を構えていたのだから、佐藤春夫説を採るならば、
谷崎と横浜を結びつけたのは葉山三千子に対する執着と言うこともできそうだ。
そのおかげをもって、横浜をモチーフにした谷崎作品が多数生まれたわけだ。
ありがとう、葉山三千子!


【書誌データ】
書 名:映画と谷崎
著 者:千葉伸夫
出 版:青蛙房
出版年:1999年12月
価 格:2,000円
ISBN: 978-4790503408

 
★この本から感じる「横浜」:夜更けに汽車が走ったかもしれない都筑郡

佐藤春夫に『田園の憂鬱』という作品がある。
1917年(大正6年)6月にその原型を雑誌に発表し、1919年(大正8年)に新潮社から刊行された佐藤の代表作で、「都会のただ中では息がつまった」という主人公(すなわち佐藤春夫)が移り住んだ農村での生活を描いた作品。
その舞台となった農村とは、当時の都筑郡中里村。
現在、「田園の憂鬱由縁の地」の碑が立つ青葉区鉄(くろがね)町の辺りである。

今回紹介するのは、有栖川有栖氏による鉄道ミステリのアンソロジー。
本書には、英文学者にして熱烈な鉄道ファンの小池滋氏が『田園の憂鬱』に潜む謎
解き明かそうとしたエッセイ「田園を憂鬱にした汽車の音は何か」が収録されている。
小池氏の着眼は、主人公が夜更けに耳にする汽車の音は幻聴なのか現実なのか
それを探ろうというもの。
主人公が住んでいる村(すなわち都筑郡中里村)は、作中次のように描かれている。

 それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬えば三つの激しい
 旋風の境目に出来た真空のように、世紀からは置きっ放しにされ、世界からは
 忘れられ、文明からは押流されて、しょんぼりと置かれているのであった。

念のため、Tは東京、Yは横浜、Hは八王子である。
このような場所で南の丘の向う側を汽車が走る音を主人公は聞きつける。
可能性があるのは1908年(明治41年)に私鉄横浜鉄道として開通し、
後に鉄道院が買収した横浜線で、1里ほど離れた場所を通っているのだが、
音が聞こえるのは、明らかに終列車が通り過ぎた後の時間帯。
しかも、彼の妻は聞こえないという。

『田園の憂鬱』には他にも幻聴が登場するので幻聴であっても設定上は自然であり、
当時の鉄道の状況からすれば幻聴と考えるほかない、という結論になりそうなのだが、
小池氏はそこにもう一つの可能性を見出そうとする。
ここで結論を書くわけにはいかないが、有栖川氏が「針の穴を通すようなギリギリの
推理であり、その結論の説得力は申し分がない」
とコメントしているように、
私はこの作品を読んで、夜更けの都筑郡を汽車が疾走する映像が見えた気がした。

当初このブログでは、定番とも言える『田園の憂鬱』を取り上げ、
『有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー』は文中で触れる程度を考えていた。
しかし、横浜線が今年9月23日に開通100周年を迎えるということや、
何より「名探偵・小池滋」の名推理にミステリ好きの私がしびれたという理由により、
あえて本書を84冊目の「横浜本」に選定させていただいた。
18ページの掌編なので、ぜひご一読の上、感想をお聞かせください。


【書誌データ】
書 名:有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー
著 者:有栖川有栖
出 版:角川文庫
出版年:2004年10月
価 格:667円
ISBN: 978-4041913086

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