[ 横浜人物伝 ]
今年も夏の高校野球が始まった。
私はプロ野球観戦は好きなのだが、高校野球はあまり見ない。
自分の母校が強いチームでないというのが最大の理由だが、野球は
高いレベルのプレーや駆け引きに面白さを感じて見る方なので、
無名の選手たちの試合に関心を持てないということもある。
しかし、そんな私でも、未だに記憶に残っている試合がある。
1998年夏の甲子園大会準々決勝、横浜対PL学園の熱戦
現西武の松坂大輔が横浜高校のエースとして、
延長17回250球を投げぬいた試合である。

この名勝負については、アサヒグラフ特別取材班による優れたドキュメント
『ドキュメント横浜vs.PL学園』がある。
これを読むとよく分かるのだが、この名勝負は、高校野球でありながら、
高度な戦術や心理作戦が積み重ねられた、高校野球の粋とも言える試合だった。
例えば、2回裏に松坂があっさり3点もの先制点を奪われたのは、
PL学園の3塁コーチ平石が、横浜のキャッチャー小山のくせを見破り球種を読み、
しかもそれを武器に松坂・小山のバッテリーに心理的な揺さぶりをかけたからだった。
本書の解説を書いた荒木大輔が「高校生がここまでやるものだろうか」
驚きの言葉を漏らすほどの頭脳戦が行われていた。
野球好きが本書を読めば、必ずや興奮を覚えるはずだ。

さて、そんな名勝負を制した私立横浜高等学校(横浜市金沢区)は、
愛甲猛(元ロッテ)、鈴木尚典、多村仁(ともに横浜)、涌井秀章(西武)などを擁して
甲子園の常連校として春11回夏11回の出場を果たし、
うち5回は見事優勝を飾っている(73年春、80年夏、98年春・夏、06年春)
その「常勝・横浜」を創り上げてきたのが渡辺元智監督である。
渡辺氏は今でこそ還暦を迎えた指導者として揺るぎない名声を手にしているが、
1965年にコーチとして横浜高校に着任した時点では、一人の20歳の若者だった。
それから40年以上もの間、毀誉褒貶を浴びながらも、横浜高校野球部を率いてきた。
渡辺氏の人生は横浜高校野球部とともにあったと言っても過言ではない。

『ドキュメント 横浜vs.PL学園』では「松坂時代の横浜」の強さを描いているが、
今回紹介する「横浜本」である渡辺氏の自叙伝『いつも滑り込みセーフ』を読むと、
「横浜対PL学園」へとつながる歴史の縦糸が見えてくる。
あの名勝負は一朝一夕に生まれたものではなかったことが明らかになるのである。
自叙伝の形をとっている本書には野球の技術論・戦略論はほとんどなく、
渡辺氏が日々何を考え、どのように選手たちに接し、横浜高校野球部を導いてきたかが
時系列に沿って淡々と述べられているが、凄みをすら感じさせる内容となっている。
その過程は、現在の渡辺監督からの風貌からは想像できない、
持てるすべてを野球に打ち込んだ苦難に満ちた半生であった。

渡辺氏は足柄上郡松田町の田中家に生まれ、父母を知らずに幼少期を過ごした後、
学費の高い私立学校で野球をやるために母親の親戚筋である渡辺家の養子に入った。
横浜高校に入学し、選手として甲子園を目指していたがベスト4が最高。
神奈川大学野球部で野球選手になる夢を追うが、肩を痛めリタイアする。
その後も気持ちに整理がつかずいた渡辺氏に母校でのコーチの話が舞い込んだ
だった。

当時の横浜高校はいわゆる「荒れた学校」であり、
初日から部員に「顔を貸せ」と裏山に連れ出されるような野球部だった。
そんな状況だったから、生活面から鍛えなおそうと選手を自宅に引き取り、
新婚の年上の妻と選手と3人で川の字になって眠ったりしていた。
指導方針は「日本一厳しく、日本一長い時間練習することで、日本一になる」
車のライトで照らしながら夜の10時まで練習を続け、さらに帰った後も夜半過ぎまで
素振り、また夜明け前に起きて素振りというような尋常でない練習を行っていた。

このように生徒を「甲子園出場の道具」として鍛え上げていた渡辺氏は、
逸材永川英植を得た1973年に、春の選抜で初出場・初優勝を遂げる。
そしてそれ以降、渡辺氏の指導は徐々に変化を遂げていく
勝ちきれない時期の自問から選手への愛情を持った育成の必要性に目覚め、
教員免許をとるための夜学の間に課した自主練習で選手の自主性を発見し、
そして選手に「人生の勝利者たれ」と説く指導者哲学に行き着く。
松坂らとともに甲子園春夏連覇、無敗の44連勝を達成した1997年秋から
1998年のシーズンは、こうした長年にわたる指導者人生の集大成だった。
現在では、在日朝鮮人などの多い横浜の土地柄を受けて、
野球を通じた日韓交流にも力を入れている。

前回のズーラシアの本もそうだったが、ものごとの裏には語り尽くせない貴重な
エピソード、「物語」が隠れているのだということを実感させられる。
渡辺氏の歩みを描いた本書の魅力をこの短い文章の中で少しでも伝えようと試みたが、
333ページのこの本に含まれているエピソードの深みはまったく伝えきれていない
横浜高校、そして高校野球に興味のある人には、ぜひ本書を手にとって欲しいと思う。
春の選抜を征した横浜高校は、この夏の大会でも活躍するに違いないが、
それは選手たちの3年間の努力だけによるものではない
横浜高校を応援する横浜市民には、そのことを知っていて欲しいと思った。

★この本から感じる「横浜」:高校野球のメッカ・横浜とその歴史の重み


【書誌データ】

書 名:いつも滑り込みセーフ
著 者:渡辺元智
出版社:神奈川新聞社
出版年:2006年7月
価 格:1,400円