[ 横浜ドキュメント ]
8月15日を目前に控えた「ンボマハコヨ」10冊目には何冊もの候補があったが、発売されたばかりの本書を選んだ。
今月の初めに入手したのだが、奥付には、
「2006年8月15日 第1版第1刷発行」
と記されており、本書を編纂した「日吉台地下壕保存の会」の方々の思い入れが伝わってくる。
太平洋戦争末期、東急東横線日吉駅からすぐの慶応義塾大学日吉キャンパスに日本帝国海軍の司令部がおかれていたこと、
そして、その日吉の司令部においてレイテ戦や沖縄戦の作戦、特攻隊の出撃、
戦艦大和の出撃などが決定されていたことは、
その歴史的な意味の大きさと比べ、あまりにも知られていない。
しかし、その歴史的事実の一端をわれわれは今なお「見る」ことができる。
慶應義塾大学日吉キャンパスの地下に、当時建設され、待避用として使われた、
延長2.6キロにもわたる海軍司令部用の地下壕が残されているのである。
慶應義塾の日吉キャンパスは1934年(昭和9年)に開設され、
大学予科(大学へ進学するための3年間の準備教育)の授業が行われていた。
ところが戦争末期の戦況の悪化を受け、それまで艦上に連合艦隊司令部がおかれていた
軽巡洋艦「大淀」を戦闘に回すとともに、連合艦隊司令部が日吉に移転される。
移転先としては大倉山なども候補に挙がっていたが、日吉が選ばれるに当たっては、
学徒出陣と勤労動員で学生が減った慶應義塾の堅固な建物が使えること、
キャンパスが広く地下壕が掘りやすいこと、
高台にあって無線の受信状態が良好なことなどが決め手になった。
まず1944年(昭和19年)3月に軍令部第三部(国際情報)が第一校舎に入り、
9月29日には豊田副武指令長官以下およそ420人の連合艦隊司令部が、
軽巡洋艦「大淀」の艦上から慶應義塾の寄宿舎に移ってきた。
1945年(昭和20年)4月25日には、連合艦隊、海軍護衛総司令部、鎮守府、
支那方面艦隊などを指揮するために設置されたばかりの海軍総隊の司令部も置かれた。
地下壕は、7月7日のサイパン島陥落により本土空襲の危険が高まったことを受け、
1944年「8月15日」から建設が開始された(1945年2月に完成)。
そして1年後の1945年8月15日、連合艦隊司令部は日吉で終戦を迎えることになる。
敗戦後すぐに、慶應義塾日吉キャンパスはアメリカ軍の接収を受け、
9月7日から騎兵第一師団と第十一兵団、自動車整備学校などが入り、
空き地になったところには「カマボコ兵舎」がいくつも建設された。
日吉キャンパスがすべて返還されたのは1949年10月1日のことだった。
地下壕は戦後長らく封鎖されており、本格的な調査が行われてこなかったが、
1985年にようやく教職員有志らによる壕内調査等が始まり、
「日吉台地下壕保存の会」が発足したのは1989年4月のこと。
本書のようなすばらしいハンドブックが作られたのも、この「保存の会」の力による。
その後慶應義塾による整備が進み、2000年の春には小学生も見学可能になった。
横浜が、大空襲や接収を受けた街であったということに加え、
日本軍の司令組織の拠点でもあったことを語り継いでいくことは、
横浜市民に課せられた大きな歴史的役割だと思う。
★この本から感じる「横浜」:重要な戦跡を背負うまち・横浜
【書誌データ】
書 名:フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕
著 者:日吉台地下壕保存の会(編)
出 版:平和文化
出版年:2006年8月25日
価 格:600円
ISBN: 4894880326

今月の初めに入手したのだが、奥付には、
「2006年8月15日 第1版第1刷発行」
と記されており、本書を編纂した「日吉台地下壕保存の会」の方々の思い入れが伝わってくる。
太平洋戦争末期、東急東横線日吉駅からすぐの慶応義塾大学日吉キャンパスに日本帝国海軍の司令部がおかれていたこと、
そして、その日吉の司令部においてレイテ戦や沖縄戦の作戦、特攻隊の出撃、
戦艦大和の出撃などが決定されていたことは、
その歴史的な意味の大きさと比べ、あまりにも知られていない。
しかし、その歴史的事実の一端をわれわれは今なお「見る」ことができる。
慶應義塾大学日吉キャンパスの地下に、当時建設され、待避用として使われた、
延長2.6キロにもわたる海軍司令部用の地下壕が残されているのである。
慶應義塾の日吉キャンパスは1934年(昭和9年)に開設され、
大学予科(大学へ進学するための3年間の準備教育)の授業が行われていた。
ところが戦争末期の戦況の悪化を受け、それまで艦上に連合艦隊司令部がおかれていた
軽巡洋艦「大淀」を戦闘に回すとともに、連合艦隊司令部が日吉に移転される。
移転先としては大倉山なども候補に挙がっていたが、日吉が選ばれるに当たっては、
学徒出陣と勤労動員で学生が減った慶應義塾の堅固な建物が使えること、
キャンパスが広く地下壕が掘りやすいこと、
高台にあって無線の受信状態が良好なことなどが決め手になった。
まず1944年(昭和19年)3月に軍令部第三部(国際情報)が第一校舎に入り、
9月29日には豊田副武指令長官以下およそ420人の連合艦隊司令部が、
軽巡洋艦「大淀」の艦上から慶應義塾の寄宿舎に移ってきた。
1945年(昭和20年)4月25日には、連合艦隊、海軍護衛総司令部、鎮守府、
支那方面艦隊などを指揮するために設置されたばかりの海軍総隊の司令部も置かれた。
地下壕は、7月7日のサイパン島陥落により本土空襲の危険が高まったことを受け、
1944年「8月15日」から建設が開始された(1945年2月に完成)。
そして1年後の1945年8月15日、連合艦隊司令部は日吉で終戦を迎えることになる。
敗戦後すぐに、慶應義塾日吉キャンパスはアメリカ軍の接収を受け、
9月7日から騎兵第一師団と第十一兵団、自動車整備学校などが入り、
空き地になったところには「カマボコ兵舎」がいくつも建設された。
日吉キャンパスがすべて返還されたのは1949年10月1日のことだった。
地下壕は戦後長らく封鎖されており、本格的な調査が行われてこなかったが、
1985年にようやく教職員有志らによる壕内調査等が始まり、
「日吉台地下壕保存の会」が発足したのは1989年4月のこと。
本書のようなすばらしいハンドブックが作られたのも、この「保存の会」の力による。
その後慶應義塾による整備が進み、2000年の春には小学生も見学可能になった。
横浜が、大空襲や接収を受けた街であったということに加え、
日本軍の司令組織の拠点でもあったことを語り継いでいくことは、
横浜市民に課せられた大きな歴史的役割だと思う。
★この本から感じる「横浜」:重要な戦跡を背負うまち・横浜
【書誌データ】
書 名:フィールドワーク 日吉・帝国海軍大地下壕
著 者:日吉台地下壕保存の会(編)
出 版:平和文化
出版年:2006年8月25日
価 格:600円
ISBN: 4894880326
