[ 横浜人物伝 ]
★この本から感じる「横浜」:英語を通して世界とつながるまち・横浜
突然ですが、2月14日は何の日でしょう?
言うまでもなく、「バレンタインデー」という答えは期待していません。
横浜では、2月14日は「岡倉天心の生まれた日」として共有したい。
岡倉天心、幼名角蔵は、1863年2月14日(文久2年12月26日)、横浜本町五丁目(現一丁目)に生まれた。
横浜開港記念会館の脇に岡倉天心生誕記念碑があるのをご存知の方も多いと思う。
岡倉天心の父は福井藩の下級武士、岡倉覚右衛門。
福井藩は幕府の命で太田村に兵を駐留させるうちに海外貿易の重要性に気づいており、
覚右衛門に海外情報収集などの藩命を与え、1860年に横浜で石川屋を開店させる。
横浜石川屋で生まれ、外国人を相手に生糸を販売する父を見ながら育った角蔵は、
7歳のときに居留地でジェームズ・バラの英語塾で学び始める。
その後、里子に出された神奈川宿場の長延寺から高島嘉右衛門が私財を投じて作った
高島学校などに通い、英語や漢学を身に付けていく。
1873年(明治6年)、角蔵11歳のとき、廃藩置県に伴い石川屋が廃業となり、
覚右衛門は日本橋蛎殻町で旅館業を始めることとなり、父とともに東京へ行くことに。
角蔵の横浜での生活は終止符を迎えることになる。
その後の天心の活躍は周知の通り。
東京大学でお雇い外国人教師フェノロサの日本美術蒐集の手伝いをしたのがきっかけで、
当時低く見られていた日本の美術への関心を深め、日本美術史研究に取り組む。
1890年に校長に就任した東京美術学校は女性スキャンダル等で辞任することになるが、
横山大観、下村観山ら自分を慕う画家を従えて、1898年、36歳で日本美術院を設立、
洋画ブームという逆風の中で日本美術の新しい担い手を育てる。
天心は世界レベルの問題意識を持ち続け、日本美術をアジア美術史の中に
位置づけて、中国やインドを美術品を蒐集しながら旅した。
ボストン美術館中国日本部部長などとしても活躍、1913年(大正2年)逝去。
なお、天心は横浜が誇る生糸商・美術愛好家である原三渓との親交もあり、
晩年には若手美術家を支援する組織「観山会」を設立している。
さて、ここで岡倉天心を「横浜人」として読み解くことを試みたい。
天心の「横浜らしさ」として、私の頭には「英語」というキーワードが浮かんでくる。
幼少期に横浜に住んだおかげで外国人が使う「ネイティヴ」の英語を習得できたのだが、
フェノロサの助手になれたのはその英語力を見出されたからである。
また、海外にも臆せず視察に出て行き、日本美術を世界美術の中に相対化した。
さらに、『東洋の理想』
当時インドや中国や支配下に置き、文化的な優越感を抱いていた欧米に対し、
日本やアジアの文化の価値を訴えた。
こうした天心の事跡の基礎には横浜居留地で磨かれた英語力があったのである。
なお、これはあくまで補足情報として紹介するのだが、
木下長宏『岡倉天心』
それも、馬喰町、常盤橋内と二つの説があり、横浜本町説と並び立っている。
しかし仮にそうだとしても、天心、いや角蔵が幼少期を横浜で過ごし、
ワールドワイドな活躍をするための素養を身に付けたことには変わりない。
私としては、本書を「ハマっ子にとっての天心本のスタンダード」と考えたい。
【書誌データ】
書 名:岡倉天心物語
著 者:新井恵美子
出 版:神奈川新聞社
出版年:2004年12月
価 格:1,500円
ISBN: 978-4-87645-355-9
