[ 横浜人物伝 ]
★この本から感じる「横浜」:映画文化を創造するまち・横浜
1920年(大正9年)4月20日、大正活動写真株式会社が創立された。本社は山下町31番地、撮影所は山手町77番地。
後に大正活映と名を変えるこの会社は、浅野総一郎の二男、浅野良三の出資による映画製作・配給会社であった。
東洋汽船の経営者だった浅野は、海外航路の客船で外国人観光客に見せるためにニューヨーク封切りの映画を購入していたが、
映画の自社製作を思い立ったのだ。
その大正活映を支えた中心人物が二人いた。
一人は当時映画というメディアに入れ込んでいた文芸顧問・谷崎潤一郎。当時35歳。
そしてもう一人が本書の主人公、アメリカ帰りの監督、トーマス栗原であった。
1885年(明治18年)1月24日、現・神奈川県秦野に生まれたトーマス栗原、
本名・栗原喜三郎は、家業の材木問屋が傾く中、1902年、アメリカに渡る。
当初サンフランシスコの農園などで働いたが、自転車事故で胸を骨折して
激しい労働が禁じられ、気候のよいロサンゼルスに転居したのが一大転機となる。
1912年(明治45年)、栗原はロス北西部のハリウッドの映画俳優養成所に入り、
エキストラ出演や小道具作りなどの経験を積み始める。
そこで出会ったのが大物映画監督、トーマス・ハーパー・インスである。
後に栗原がその名にあやかり「トーマス栗原」と名乗るようになるインスは、
日本人俳優を使ってエキゾチックな作品を撮るためのプロダクションを設立する。
そこで栗原は撮影ノウハウを学び、1918年(大正7年)に日本へ帰国する。
帰国後、大正活映での初作品が鎌倉を舞台にした喜劇『アマチュア倶楽部』である。
1920年(大正9年)11月封切り、谷崎原作によるこの作品は、
アメリカ帰りの栗原がシーンごとのカットやカメラアングルを指定するコンテを
作成したり、二つ以上の事件が並行して進むクロス・カッティングを導入するなど、
日本の映画製作における「監督」の地位を確立するものとなったほか、
主人公の葉山三千子(谷崎の義妹、『痴人の愛』のモデル)が水着姿で登場するなど、
栗原の技術と従来の映画を超えようとする谷崎の想いが一体となり、
「日本映画史上初」尽くしの記念碑的なものとなった。
しかし、その後の栗原の監督人生は順風満帆というわけにはいかなかった。
「アマチュア倶楽部」に続き、谷崎脚色による「葛飾砂子」「雛祭りの夜」「蛇性の婬」を
製作するが、興行的に「アマチュア倶楽部」を超えることはなかった。
東洋汽船の投資緊縮もあり、1922年(大正11年)、大正活映はわずか2年間余で
オリジナル映画の製作を中止し、西洋映画興行の会社へと事業を縮小してしまう。
栗原はその後数本の監督作品を撮るものの、アメリカ以来の持病である胸患により、
1926年(大正15年)9月8日、本牧町で逝去した。41歳の若さだった。
残念ながら大正活映で栗原が制作した4本の作品は、フィルムが現存していない。
しかし、この短命ながら日本映画史上に大きな足跡を残した会社を記念するため、
現在中区の元町公園には「大正活映撮影所跡」の碑が立っている。
さて、大正活映から80年を経て、横浜は再び「映画のまち」への道を歩み始めている。
その中核施設は2005年4月に馬車道に開校した東京藝術大学大学院映像研究科。
北野武を学部長に据え、映画製作に係わる人材の輩出をミッションとする映画専攻は、
5月に第1期生修了制作展を行うようであるが、横浜と藝大とのコラボレーションが、
新たな映画のあり方を創造する日を楽しみに待ちたい。
【書誌データ】
書 名:トーマス栗原 日本映画の革命児
著 者:服部宏
出 版:夢工房
出版年:1993年11月
価 格:1,200円
ISBN: 978-4-86158-006-2
