[ 横浜人物伝 ]
 
★この本から感じる「横浜」:豊かさを分かち合うまち・横浜

 「三溪園遊覧御随意」

1906年(明治39年)5月1日、本牧三之谷にある三溪園の門柱に掲げられた看板にはそう書かれていた。
生糸商として巨財を成した原三溪が私庭を開放するという
この行いは、横浜の人々に驚きをもたらした。
庭を開放すれば、誰に荒らされるとも限らなかったが、
「明媚なる自然の風景は別に造物主の領域に属し余の所有にあらざるなり」
というのが三溪の言い分だった。
昨年の5月1日、三溪園はその公開からちょうど100周年を迎えた。

三溪園は、三溪の義父である生糸商の先駆者、原善三郎が手に入れた6万坪の土地に、
三溪がその類まれな美意識を遺憾なく発揮して創り上げた広大な庭園である。
三溪園には、日本全国から移設された建築物が絶妙に配置されている。
臨春閣は紀州徳川家の別邸だったものを和歌山から、
秀吉が母の長寿を祈って建立した天瑞寺寿塔覆堂は京都から、
三溪園のシンボルとなっている三重塔は京都賀茂村の燈明寺からという具合に
買い集められ、三溪の美意識に沿って一つの別世界が創り上げられている。
三溪園は横浜で創られたものでありながら、高い普遍性を備えた庭園となっている。

原三溪こと原富太郎は1868年(慶応4年)8月23日、美濃国に生まれた。
1885年、17歳で上京し、東京専門学校(現早稲田大)に学んだ富太郎は、
1889年(明治22年)、新橋駅で下駄の鼻緒を直したのをきっかけに、
一時全国で20番目の所得があった横浜の豪商・原善三郎の娘、屋寿子と結婚
1899年の善三郎の死去を受けて、原家を、そして原商店を継ぐこととなる。
富太郎は持ち前の商才を発揮し、海外に代理店を設け、生糸の直輸出に取り組むなど、
原輸出店を三井物産などとともに日本五大輸出商社の一つに育て上げた。

そんな富太郎は一度として横浜を離れることなく、1902年、野毛の豪邸から
本牧三之谷に移り住み、以後自らを「三溪」と名乗るようになった。
その後の三溪の事蹟についても、本ブログ35冊目『岡倉天心物語』
少し触れた下村観山や横山大観など若手芸術家のパトロンとしての活動や、
関東大震災後の横浜復興会会長としての奮闘など、語り始めれば枚挙に暇がない。
ビジネス、芸術、まちづくりなど、横浜の歴史に多面的に関わる三溪の生涯について、
『岡倉天心物語』と同じ、青葉区在住の新井恵美子氏による本書をご一読いただきたい。

さて本書では、ブログ冒頭で紹介した「三溪園開放」以外にも、
三溪の「分かち合いスピリット」を示すエピソードがもう一つ紹介されている。
1928年(昭和3年)、冬の湯治場として伊豆長岡の別荘に温泉を引いたときに、
地元長岡の人々に声をかけて、誰でも無料で入浴してもらうことにした
という。
私としては、こうした三溪による豊かさの「分かち合い」を、
ひとり三溪という「偉人」の美談に終わらせるのでなく、
横浜というまちが備え持つべき「横浜らしさ」の一つとして語り継いでいきたい。


【書誌データ】
書 名:原三溪物語
著 者:新井恵美子
出 版:神奈川新聞社
出版年:2003年4月
価 格:1,500円
ISBN: 978-4-87645-329-0