[ 横浜人物伝 ]
★この本から感じる「横浜」:「学長・三枝博音」がいた横浜市大
67冊目に引き続き、今回も松岡正剛氏の「千夜千冊」に導かれてみたい。
「千夜千冊」1211冊目では、戦後直後に生まれ、今も伝説的に語られる学校「鎌倉アカデミア」の校長を務めた三枝博音(さいぐさ・ひろと)の『日本の思想文化』
そこで今回は、三枝に師事した技術史家、飯田賢一氏による伝記的人物論
『回想の三枝博音』を片手に、三枝と横浜のかかわりを紹介しようと思う。
1892年(明治25年)5月20日、広島の浄土真宗寺院に生まれた三枝は、
熊本の五高を経て、1918年(大正7年)、東京帝大文学部に入学、西洋哲学を学ぶ。
東洋大、立正大、法政大などで教鞭を執り、1931年(昭和6年)にはドイツへ留学。
1933年に治安維持法により1ヶ月間拘禁されたため、教職を辞して文筆活動に入る。
その後、日本哲学思想史・科学技術史の研究を開始し、日本人の学問的遺産の
世界的な普遍性を探求、『日本哲学全書』全12巻(1936−37年)などを世に問う。
松岡正剛氏の言葉を借りるならば、「三枝こそが日本思想の本格的発見者だった」。
その三枝の人生が終戦前後から横浜と交わりを見せ始める。
1945年7月、東亜冶金専門学校(戸塚区矢部町)の開校と同時に理事兼教授に就任。
1946年9月には、鎌倉の光明寺境内に同年5月開校した鎌倉大学校の校長に就任。
1948年に校舎を横浜市戸塚区小菅ヶ谷の海軍燃料廠跡に移転すると同時に、
古代ギリシャでプラトンが創設したアカデメイアにちなみ、「鎌倉アカデミア」と改称。
学校の経営・運営に教授会と学生自治会、父兄会が共同で取り組み、
入試の面接試験への学生参加、公開講座の開催など、ユニークな取り組みを行った。
授業料を検討した際には、教授陣の案より学生の案の方が値上げ額が高かったという。
鎌倉アカデミアは「赤狩り」の余波で1950年に廃校を余儀なくされるが、
三枝は1952年、横浜市立大学文理学部の発足ともに教授に就任する。
日本の技術史の底にある「開明・開物思想」を追及してきた人物である三枝は、
「開国・開物・開成・開港の日本の第一の発祥の地である横浜市のきんじと自覚」を
基礎とした「日本の全民衆のための」横浜市立大学の完成を主張し、
1956年には文理学部長、そして1961年には学長に就任した。
学長として『生協のしおり』に寄せた一文では、古典を引きつつ、
大学のなかは、実践的な体験ということでは足りぬところが大いにある(略)
実践で躓くのは、たいていの場合、知識足らずや用意足らずで、いやいやで
かかっていくからではないか。すきなところまでもってゆく。これが大切なのでは
ないか。いやもっと、それが楽しいところまでもってゆく。これが大切だとおもう。
と述べているが、三枝はことあるごとに学ぶことと実践することの本質を説いたという。
そんな三枝学長が、1963年11月9日、不幸にして横須賀線の列車事故で死亡する。
同月25日、横浜市立大学は、活躍の途上にあった三枝を大学葬で送った。
以上、駆け足で三枝博音の来し方を辿ってきたが、三枝の「輪郭」を追ったのみで、
三枝の豊穣な思想や人格について、その片鱗すら匂わすことができていないと思う。
私の筆力不足はもちろんあるが、「日本と世界」、「思想と技術」、「歴史と実践」という
両極を内包した稀有な人格ゆえ限られた行数での紹介が困難だったという面も大きい。
三枝の日本思想研究については千夜千冊1211冊目を、また、鎌倉アカデミアに
ついては前川清治『三枝博音と鎌倉アカデミア』
今年の4月、横浜市大の学長が替わるというが、
「三枝学長」だったら今の横浜市大をどう導くか、想像せずにはいられない。
横浜市大には三枝の蔵書から成る「三枝博音文庫」が所蔵されているという。
三枝博音の「遺産」が横浜市大で深められていくことを強く期待したい。
【書誌データ】
書 名:回想の三枝博音 人間と技術と教育
著 者:飯田賢一
出 版:こぶし書房
出版年:1996年6月
価 格:2,000円
ISBN: 978-48755-9-094-1
