[ 横浜エッセイ ]

 
★この本から感じる「横浜」:夜更けに汽車が走ったかもしれない都筑郡

佐藤春夫に『田園の憂鬱』という作品がある。
1917年(大正6年)6月にその原型を雑誌に発表し、1919年(大正8年)に新潮社から刊行された佐藤の代表作で、「都会のただ中では息がつまった」という主人公(すなわち佐藤春夫)が移り住んだ農村での生活を描いた作品。
その舞台となった農村とは、当時の都筑郡中里村。
現在、「田園の憂鬱由縁の地」の碑が立つ青葉区鉄(くろがね)町の辺りである。

今回紹介するのは、有栖川有栖氏による鉄道ミステリのアンソロジー。
本書には、英文学者にして熱烈な鉄道ファンの小池滋氏が『田園の憂鬱』に潜む謎
解き明かそうとしたエッセイ「田園を憂鬱にした汽車の音は何か」が収録されている。
小池氏の着眼は、主人公が夜更けに耳にする汽車の音は幻聴なのか現実なのか
それを探ろうというもの。
主人公が住んでいる村(すなわち都筑郡中里村)は、作中次のように描かれている。

 それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬えば三つの激しい
 旋風の境目に出来た真空のように、世紀からは置きっ放しにされ、世界からは
 忘れられ、文明からは押流されて、しょんぼりと置かれているのであった。

念のため、Tは東京、Yは横浜、Hは八王子である。
このような場所で南の丘の向う側を汽車が走る音を主人公は聞きつける。
可能性があるのは1908年(明治41年)に私鉄横浜鉄道として開通し、
後に鉄道院が買収した横浜線で、1里ほど離れた場所を通っているのだが、
音が聞こえるのは、明らかに終列車が通り過ぎた後の時間帯。
しかも、彼の妻は聞こえないという。

『田園の憂鬱』には他にも幻聴が登場するので幻聴であっても設定上は自然であり、
当時の鉄道の状況からすれば幻聴と考えるほかない、という結論になりそうなのだが、
小池氏はそこにもう一つの可能性を見出そうとする。
ここで結論を書くわけにはいかないが、有栖川氏が「針の穴を通すようなギリギリの
推理であり、その結論の説得力は申し分がない」
とコメントしているように、
私はこの作品を読んで、夜更けの都筑郡を汽車が疾走する映像が見えた気がした。

当初このブログでは、定番とも言える『田園の憂鬱』を取り上げ、
『有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー』は文中で触れる程度を考えていた。
しかし、横浜線が今年9月23日に開通100周年を迎えるということや、
何より「名探偵・小池滋」の名推理にミステリ好きの私がしびれたという理由により、
あえて本書を84冊目の「横浜本」に選定させていただいた。
18ページの掌編なので、ぜひご一読の上、感想をお聞かせください。


【書誌データ】
書 名:有栖川有栖の鉄道ミステリ・ライブラリー
著 者:有栖川有栖
出 版:角川文庫
出版年:2004年10月
価 格:667円
ISBN: 978-4041913086