★この本から感じる「横浜」:谷崎潤一郎が映画に取り組んだまち・横浜
佐藤春夫とくれば谷崎である。(笑)
1920年(大正9年)4月20日、映画製作・配給会社である大正活動写真株式会社、後の大正活映が山下町で設立された。
87周年にあたる昨年は大正活映の映画監督・トーマス栗原の伝記を取り上げたが、88周年の今年は、大正活映もう一人の主要人物である文芸顧問・谷崎潤一郎に関する本を紹介したい。
本書は大正活映時代を中心に、谷崎の生涯にわたる映画とのかかわりを追ったもの。
1886年(明治19年)7月24日、東京市日本橋蠣殻町に生まれた谷崎は、
1910年に『誕生』『刺青』など、視覚美を意図する作品でデビューを遂げる。
1913年(大正2年)頃から日本映画の近代化運動が広がる中で、
1917年、映画についての最初のエッセイ「活動写真の現在と将来」を発表。
欧米の映画を鑑賞する中で映画という芸術の将来性への確信を表明するとともに、
「機会があればPhotoplayを書いて見たい」と述べていた。
本ブログ41冊目で触れたように、大正活映で谷崎は1920年11月公開の
『アマチュア倶楽部』を皮切りに、泉鏡花の原作を谷崎が脚色した『葛飾砂子』
(同12月公開)、原作谷崎の『雛祭りの夜』(1921年3月公開)、上田秋成の
『雨月物語』に題材を得た『蛇性の淫』(同9月公開)と矢継ぎ早に4作を世に送る。
谷崎が大正活映に関わりを持っていたのはおよそ1年半と短い期間だったが、
著者の千葉氏によると、この映画制作体験は谷崎にとって二つの転機を成した。
一つは、1919年に「幻覚の世界もまた経験の一部」と述べた谷崎が、
文学で果たせなかった視覚的イメージの構築に実験的に取り組んだ結果として、
幻想的な文学からモノローグを主とした文学へと還っていったこと。
このことは大正活映での映画制作体験を幻想的に描いた『肉塊』(1923年)が
「失敗」であったのに対し、横浜での体験を客観化することで1925年の『痴人の愛』や
翌年の『友田と松永の話』という「成果」が得られたことに表れているという。
(注:私にとっては『肉塊』も貴重な「谷崎版・横浜本」です。)
もう一つは、日本の近代化の急激な流れの中で、自らが欧米や日本の文化に
引き裂かれる「文化的多重人格」であることを認識したこと。
『雛祭りの夜』を撮影していた頃に書いた映画論「日本の活動写真」の中で、
「ただ米国のそれを真似る事は禁物で、何処迄も固有なのが望ましい」とした
谷崎は、次作の題材を古典『雨月物語』に求めることになるのだが、こうした方向性は
日本の独自性を陰翳の美に求める1933年の『陰翳礼讃』などに結実していく。
このように分析されると人に歴史あり、谷崎成長せりと納得するのだが、その一方で、
谷崎が映画にのめり込んだ理由について、佐藤春夫の興味深いコメントが残されている。
谷崎からの千代夫人の「譲渡未遂」により谷崎と絶交した佐藤の観察では、
谷崎は千代夫人の妹で結婚さえ考えたという「掌中の玉」葉山三千子の姿を
スクリーンに投じたいがために映画製作に熱中したという。
実際、葉山三千子は『アマチュア倶楽部』で主役を演じ、読売新聞による
1921年3月の女優人気投票で6位にランクインする健闘ぶりを見せている。
ちなみに谷崎は大正活映の撮影所に通うのに不便を感じて1921年9月に小田原から
本牧宮原に移り住み、大正活映との関係を絶った後も、関東大震災を受け関西に
移るまでは山手に家を構えていたのだから、佐藤春夫説を採るならば、
谷崎と横浜を結びつけたのは葉山三千子に対する執着と言うこともできそうだ。
そのおかげをもって、横浜をモチーフにした谷崎作品が多数生まれたわけだ。
ありがとう、葉山三千子!
【書誌データ】
書 名:映画と谷崎
著 者:千葉伸夫
出 版:青蛙房
出版年:1999年12月
価 格:2,000円
ISBN: 978-4790503408![]()
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