いま、読みたい本が山積みになっている。アマゾンで注文したものや、以前図書館にリクエストしておいたもの、などなど。その中でも、一番先に読んでいるのが、『ハリウッドリライティングバイブル』(リンダ・シガー著、愛育社)だ。映画の脚本をリライトするために書かれたものだが、物語を書く人にとっては、とても参考になると思う。ストーリー展開について、多くの人が感動するときの、セオリーのようなものがあるだろうとは思っていたが、この本は、まさにそういうことが書いてある。私がずっと知りたいと思っていたことだ。
この本は、映画の脚本を書くということが前提なのだが、小説と脚本などの違いにも触れているし、ストーリー(物語)を作るという観点からは、とても参考になると思う。
その次に読みたいのが、『童話の書き方』(寺村輝夫、講談社現代新書)。アマゾンの中古品で手に入れた。やっぱり、ハリウッド流のエンターテイメントを学んだ後は、日本の童話の書き方も学ばなきゃ。日本の童話などには、ハリウッド流の感動とは違うもので、日本人の心に残るような作品がたくさんあると思うからだ。それから、心理学関係の本も、また読んでみたいと思う。やっぱり、人の心を深く学ぶことは、物語を書く上でも、本当に重要なことだと思うし。
そのほかに、まだある。岡崎ひでたか先生の『鬼が瀬物語 夕焼け里に東風よ吹け』(くもん出版)、それから、高楼方子さんの『十一月の扉』(新潮文庫)、それから、それから……と。
普段、あまり多読する方でもなく、読むスピードが早いわけでもないので、気持ちばかりが急いて、少し落ち着かない。とくに、図書館から借りている本は、期限もあるし。
やりたいことがあるときには、他にもやることや、気になることが出てきて、そのやりたいことに集中できないという事は多々ある。今回もそんな感じだ。
読み聞かせの活動で、新しい大型のペープサート(というより、大道具)をつくる作業もあるし、人権擁護委員の仕事や、荒れ放題の庭も気になる。
それに、夫の仕事の方でもいろいろとあるらしく、家族に影響を及ぼす大きな変化が、あるかもしれないようだし。
そんなこんなで、ちょっと落ち着かない日々だけれど、やりたいことが、たくさんあるというのは悪いことじゃない。しかも、どんなに時間がかかったとしても、それをやることができるのだから。マイペースでやっていこう。一つずつ。
もともと、この作品は小学校の読み聞かせの時に、素話で子どもたちに10分程度で聞かせていたお話なのだが、ここまでの作品に仕上がったことに、自分でも感激だ。
合評会でお世話になった先生が、出版社に持ち込んでくださり、第2話も読みたいと言ってもらったことが、かなり励みになった。その上、この2週間、東京で創作活動をしている先輩がこちらに滞在していて、合評会をしたり、食事会をしたりして、背中を押されているような感じがした。
知人の子どもをホームステイさせたり、宮古島のトライアスロンがあったり、人権擁護委員の総会の準備をしながらの創作だったが、こまぎれの時間を利用しながらも、これだけ出来た自分を、またほめてあげたいような気分だ。私は、すぐに、自分をほめたくなってしまうんだな。
夕べ、作品を夫にも読んでもらい、なかなかいい反応だったので、さらにうれしさも増している。
結果がすぐに出なくても、いまこうして頑張った時間が、必ず実を結ぶことを信じて、これからも書き続けようと思う。
第3話、番外編の構想もあるので、また、書くぞ! でも今は、ちょっと一息。机の周りの散らばった書類や、ほったらかしの庭や多肉植物の手入れもしたいし。
今日は、心地よい脱力感が漂っている。
ふと、思うと、インターネットテレビの仕事が、2月で終わったので、仕事らしい仕事をしていないのだが、最近は、書くことが仕事のようになっているなあ。これが、収入につながれば、ほんとにうれしいことだ。
東京から来ていた先輩の創作にかける意気込みや、日々の、ほとんど作家のような生活をうかがうと、本当に刺激になった。
本気で作家になろうと思うからには、ここまでするんだということを、話をしているだけで教えてもらっている。
いろんなご縁に感謝、感謝。自分にとって、この島に暮らしていることが、ここ数年の苦い経験も含めて、とてもいい風をもたらしてくれていると、今心から思う。
「あなたはこういうことが書きたいんじゃないの?」と言われ、なるほど、と私自身が感服した。
どうして、自分の作品となると、客観的に見ることができないのだろう。できない自分にちょっと落ち込んだ。
人の作品だったら、ちゃんと見れるというわけではないが、自分のものよりも、「もっとこうした方がいいのでは?」ということが、多少なりとも浮かんでくる。
ところが、自分の作品となると、その多少なりともが、浮かんでこないのだ。「もう、これでいい」と思った時点で、何も考えが及ばない。時間が経って、しばらく後に見直して、見えてくることはある。それは、たしかにある。時間が客観性を育ててくれるのかもしれない。でも、書き終えた後、すぐには、どうしてもできない。
自分のことは、自分が一番良く知っているつもりでも、自分には分からない、人からしか見えない自分がいるのと、同じようなことなのだろう。ジョハリの窓を思いながら、その日は眠った。
自分だけでは、自分という人間も作品も、完結しないんだなあ、と改めて思った。
もし、自分の力だけで、いいものが書けると思える日が来たら、それは小さな窓になっているときかもしれない。
いまの気持ち、忘れないでおこうと思う。
講談社の児童文学新人賞へ提出するのは今回が初めてなので、いろいろネットで情報を収集するのだが、過去の受賞は200枚以上の大作が多いとか、YA(ヤングアダルト)といわれる、思春期の内面をつづったものがうけるようだとか、個人のブログなどを見る限りでは、自分のものとはまったく違う作品傾向のような気もする。
でも、過去の受賞作品を見たり、審査員の選評などを読むと、私はそうとも思わない。ただ、個人のブログなどを見て思うことは、だれもみな自分に都合の良い情報を選択しているのでは?ということ。もちろん、自分も含めてなのだが。
どちらにせよ、出してみなければ分からないのだから、ここまできたら、もうまな板の鯉だ。
作家志望の個人のブログを見ていると、いろいろ感じることがある。みな、すごい真剣に取り組んでいて、何年もその思いを抱き続け、必死に取り組んでいるんだなあということ。簡単に作家にはなれないんだなあということ。自分の作品をみな一番だと思っているということ。
もちろん、どの作品もオンリー1の作品であって、ナンバー1とは違う価値があるものだと思う。けれど、自分のオンリー1がナンバー1になって欲しいと、強く思うことに、少し矛盾のようなものを感じることがある。
自分のオンリー1を、だれだって多くの人に認めてもらいたい。そしてできれば、それこそがナンバー1になって欲しいと思う。そういうたくさんのオンリー1がひしめきあっているところから、自分だけ脱出して、ナンバー1、もしくは2、3に入るように、しのぎを削っている。オンリー1にも、じつはナンバーをつけようとすることこそが、作家になるということのように、私は思う。
ただ、それは、オンリー1を追求した結果得られるものなのだが。
結局、あまり他の人のことを気にしないのがよいのだと思う。気にしないということと、刺激を受けながら、互いに切磋琢磨するというのとは違う。これもまた、微妙な難しい違いだ。
作家の仕事というのは、そんな微妙な繊細なところにある仕事なのだろう。
「私はワタシ」と思いながらも、人のことにも関心がなければできないのだと思う。
とりとめないことを書きながら、つぎの作品に取り組もうと、いま気持ちを新たにしている。
どうも、ここのところイライラというのか、モヤモヤというのか、気分がすぐれない。理由はいろいろあるように思う。たぶん、いろいろあるから、すっきりしないのだと思う。カウンセリングの勉強会の世話役をしているとはいえ、最近は童話の方に力を入れるあまり、カウンセリングの勉強がおろそかになっている。
先日、カウンセリングの勉強会があり、仲間が来るのを待つ間、久しぶりにカウンセリングの本を開いた。以前読んだことのある本なのに、まったく新鮮だった。それだけ、カウンセラーとしての気構えがなくなっていたのだと思う。
イライラ、モヤモヤの一つは親子関係だ。ここのところ、自我が強くなり、自己主張が強くなっている息子との関係に、多少なりとも悩んでいる。これは成長の一過程なのだ、と自分に言い聞かせても、自己主張ばかりで、自分のことがまだまだできていない息子を見ていると、どうしてもイライラしてしまうのだ。
今度小5になる息子にはアトピーがあり、季節の変わり目だからか、それとも私との関係にストレスを感じてか、一時期より悪化している。そのこともまた、私をモヤモヤとさせている。悪循環だ。
そんな最中、昨日は短編の作品を推敲して、公募に提出した。正直自信はない。お話の構成も、文章も、悪くないと思うし、私的には、面白いと思うのだが、以前夫に見せたときには「好きじゃない」と言っていたし、題材がちょっと気になる。おじいさんとおばあさんの笑い話なのだが、お年寄りを題材に笑っていいものか? まあ、これはダメもとだ、と思いながらも、いざ提出するとなると、賞が気になるのは、やはり正直なところ。
さてさて、まだ長編の作品も終わっていないので、そっちもこれからとりかからなくては。
そんなこんな、自分のことと家族のことで、いっぱいいっぱいなのかもしれない。
リラックスが必要だ。そういえば、息子が春休みで、私一人になる時間がここのところ、まったくなかったことを思い出した。私は一人になる時間が必要なタイプ。そのことに気がついただけでも、自分を休めることができそうだ。
私は、昨年、沖縄の童話賞である「ふくふく童話大賞」で優秀賞を受賞した「オバーの宝物」を朗読した。衣装は、親戚のおじさんにもらった絣(かすり)の着物に、手ぬぐい頭で、昔のオバーを思わせるような姿になった。
音楽や効果音などを、数日前からあれこれ試し、沖縄音楽のインストゥルメンタルを選曲して、本番にのぞんだ。参加人数は数十人のこじんまりとした集まりで、スポットライトをあびながらも、近くにいる人たちの表情はなんとなく伝わってきた。
近くには、友人のお母さん(おばあちゃん)も座っていて、私の話にいちいちうなずきながら、まるで「よく分かるよ」と言ってくれているように、聞いてくれていた。
小学校の読み聞かせ活動の成果か、人権擁護委員としての活動の成果か、人前で朗読することに、さほど緊張は感じなかった。けれど、自分で選んだ音楽を聞きながら、お話を読んでいるうちに、近くでうなずいてくれるオバーの気持ちも重なってか、主人公のオバーの気持ちがどんどん伝わってきて、自分で自分の書いたものに、感動して涙がこみ上げそうになってしまった。
のどのあたりが苦しくなり、涙がこぼれそうになった。これはいけない、ここで私が泣いても、会場の人たちは何事かと思うだろう。自分の感情を沈めなければ。朗読しながら、そんな思いを必死にコントロールして、最後まで読み終えた。
エンディングに選んだ曲は、「黄金三星(くがにみちぶし)」という三線の曲なのだが、これがなかなかいいのだ。
主人公のオバーが、家族との思い出すべてを大事な宝物として、家の上に載せてしまった庭の上で眠っている様子と、夜空に輝く金色の三星が、この話にピッタリだなあと、我ながらしみじみと思った。
かなり、自己陶酔をした、アホな作家かもしれないが、参加するより、出演した私の方が、何倍も心地よい思いをしたような気がする。
イベントを終えて、多くの人に「朗読が本当に上手いですねえ」「落ち着いた声が素敵でしたよ」などと感想をもらったが、お世辞やウソをつかない、うちの子どもとその友だちに「面白かったよ!」と言われたことが、何よりうれしかった。子どもたちの評価がよければ、大人の評価も、あながちお世辞ではなかったのだろうと思えるからだ。
なかなか気持ちいい体験をしたのだが、じつは、ここ数日、腹痛に悩まされている。日曜日のイベントも、多少の痛みを抱えながらだった。痛みを感じ始めてからもう今日で6日。我慢できない痛みではなく、熱もないのだが、心配なので、昨日は内科へ。すると、泌尿器科をすすめられ、泌尿器科では、婦人科かも?ということで、病院をはしごした。
今日は、夜まで予定がないので、覚悟を決めて病院へ行ったのだが、結局、診断がつかなった。でもまあ、結石の可能性は低く、婦人科系の方もとりあえずは大丈夫ということで、ここ2年くらい受けていなかったがん検診も受けてきた。
まずは、緊急性の病気ではないということで、ひとまずの安心を、時間とお金をかけて買ったような感じだ。
内科的な病気ではないとすると、一つ思い当たることは、私の中から生まれそうな作品が、あともう少し、あともうひとふんばりというところで、ストップしているからかもしれない、なんて思ったりもする。
もう少し、産みの苦しみを味わって、そうしてこの作品を書き上げなければならないと思っているのだ。
講談社の締め切りまであと、2週間。最後まで、推敲に推敲を重ねて、丁寧に仕上げてから提出しようと思う。
職業といえるものは、「主婦」と書くしかないのに、ここのところ、ほんとうにさまざまな仕事がある。
この前、表彰式から帰省して次の日には、産業カウンセラーとして、講師の仕事があった。これまた仕事といっても、半分はボランティアだが、そういうボランティアの仕事で、私の手帳はいっぱいになっている。
今度の日曜日には、お話の朗読会があり、昨年「ふくふく童話大賞」で優秀賞となった「オバーの宝物」を一般市民の前で読むことになった。
カウンセリングと子どもたちに関わるお話の仕事が、交互に入ってくるというのは、きっとどちらも私には大切、必要だという天からのメッセージなのだと思う。
必要とされる場があるとういことは、天に見放されていないということ。きっといずれ、必要なときには足りるように、お金も回ってきてくれると信じようと思う。
「行きたい」と言っておきながら、ダラダラと不機嫌そうにしていたり、食べ物の好き嫌いも多く、親に反発をする年頃なのだと思ってみても、やはりこちらもカチンときたり、難しいものだ。
さて、表彰式に出てみて、自分の気持ちはどうだったのかといえば、うれしいとか、感激したというより、心の中には静かに燃える闘志というのか、プライドというのか、かならず自分もあちら側の人間になるぞ(選ばれる側ではなく選ぶ側の審査員、つまり作家になるぞ)みたいな思いが、強くあった。あこがれとは全然違う。不遜かもしれない。でも、正直そんな気持ちだった。
いろいろな公募にいえることだと思うが、公募で選ばれた作品は、子どものための作品であるにも関わらず、大人が大人の目で選んだ作品だなあと思うことがある。(もちろん、素晴らしいのだけれど。)
公募で選ばれたい気持ちは山々だけれど、私は子どもが読んで素直に楽しめる作品を書いていきたいし、そのことは忘れないでいようと思う。本当に子どもが楽しめる作品ならば、大人の心だってくすぐるはずだ。
表彰式の後、少し早く切り上げて、横浜から五反田に向かった。劇団四季の「キャッツ」を観るためだ。両親と息子と私の4人で、初めての「キャッツ」を観て来た。思えば、私がこのミュージカルを観たいと思ったのは、中学生の頃からだ。「キャッツ」は今年で25周年になるという。私も25年来の夢が実現した。
たしかに、すごかった。歌も踊りも、音楽も、舞台も。でも、そう、でもと思ってしまう。ストーリーが少し分かりにくかった。私はある程度話も知っているから、分かりはしたが一緒に見ていた親は、途中眠ろうとしていた。休憩時間にパンプレットを買って、息子に説明して、それで息子も理解したようだった。
かなり本格的なミュージカルでセリフの90%以上が歌という感じだし、輸入物なのでカタカナの表現も多く、正直、初めて観る人には、意味の分からないところが多いと思う。
決して批評をするわけではないが、感動を提供する側ならば、という目で見ると、いろんなことを考えてしまう自分がいる。
でも、劇団四季のミュージカルはまた観たいと思う。「キャッツ」ももう一度観たいし、やっぱり「オペラ座の怪人」も観たい。なんだかんだ言っても、感動したことに間違いない。
感動に携わる仕事をしていきたいという思いを、再々確認したような旅だった。