[ 自分のこと ]
昨日、気功の教室におじゃました。インターネットの番組の取材で、そこに参加している人を取材するためだったが、私も体験することができた。取材対象の彼女が、その日はすごいパワーのある先生がくる日なので、その日にくれば、私にもいいエネルギーがいっぱいもらえるはずだから、とわざわざ誘ってくれたのだ。
取材といっても、インタービューをするわけでもなく、カメラマンが、カメラを回すだけだったので、私はほとんど体験教室みたいな感じだった。
夜の8時ということだったので、8時数分過ぎくらいに行くと、もうしっかり呼吸法が始まっていた。見慣れない人にとっては、少し異様な雰囲気で、それをひたすら30分、その後、体をほぐす体操のようなものを約30分した。
そして、いよいよ、人を飛ばす気功になった。一体、どんな風に飛ばすのか? よく飛ぶ人は、体育館の端のほうまで飛んでいくという。
私は、フリスビーかボールのように、空中を飛んでいる状態をイメージしていた。そんなに飛んだら、危なくないか? と心配していた自分の想像は、まったくの杞憂だった。
先生と向かい合って、手をふれた人たちが、次々と、小走りに体育館を駆け巡っている。踊るように手を振る人、おかしな笑い声をあげながら走る人、首のあたりを傾けて硬直したまま、走っていく人、じつにさまざまで、先生のそばでは、床に倒れこむ人や、どうみても不自然に体が動いている人など、さまざまだった。
取材対象の彼女が、気がとおる人ほど、笑うのだと解説してくれた。その日は、小さな子どもも数人いて、何回か来ている小学1年生の子は、迷うことなく、体育館の隅のほうまで、走って(飛んで)行った。
遠くで見ていたのだが、参加者の中には、私の知人もいて、私にも「先生にやってもらって」と声を掛けてくれた。
体験してみたいけど、ちょっとこわいような、抵抗したいような、複雑な気持ちのまま、体験してみたいという好奇心の方が勝って、先生のそばに近づいた。
そばで、他の人が先生の気を受けているのを見ているだけで、なんだか立ちくらみがするような、グラグラするような、普段あまり感じない、軽いめまいがした。
先生と向かい合って両手に触れると、ん〜、とくに感じない。う〜、このまま何も感じないのだろうか? としばし思っていると、先生の「気合い」のようなものを感じてきた。「気」というより、ほら、飛んで行け!みたいな、「気合い」のようなものだと思う。とりあえず、飛んでいった。その状態が、変に面白くて、笑いが出た。
取材対象の彼女が、「すごいよ。初めての人は普通飛ばないよ。」という。内心、あれは、飛ばされたというより、自分で飛んだに近いような気がしていた。
その後も、子どもと一緒に先生の気を受けたりしているうちに、子どもに引っ張られるように飛んで(走って)、私もだんだん雰囲気になれてきた。
そして、全員が自由に体育館をぐるぐる動きながら、先生の気のパワーを受けているときだった。私にも先生が近づいてきて、軽く手を触れたとき、何かに押されるような感じがした。その感じに抵抗せずに身をまかせると、私は、体育館の端っこまで、まさに、飛んだのだった。壁にかるくぶつかるほどの衝撃があった。
これだ! これに違いにない。これが気だ。というのが、やっと本当に感じることができた瞬間だった。
そのときの心の状態は、すごく愉快で、楽しくて、童心に返るような感じ、というのかなあ。一言で言えば、心が解放されているような感じだった。
数年前、やっと、すべれるようになったスケートにも、少し似ていると思う。こわい、できない、無理と思ったら、氷に抵抗してすべることはできない。でも、氷に抵抗することなく、自分の身をゆだねれば、スーッとすべることができたあの感覚だ。
最初は、自分の意思で飛んだような状態だったが、周囲の流れに逆らわず、とくに、子どもに引っ張られるようにして飛んだことなどが、私の気をとおりやすくしてくれたのだと思う。
大切なのは、身をゆだねることかな、と思った。
ただ、気の世界を感じることが難しい理由は、大人としての理性や疑念や自分を守る術が働きすぎることなんだと思う。心を解放することは、すごく気持ちがいいことなのだが、解放すること自体に、恐怖もある。昨日の教室で、私はその両方を感じていた。
おそらく、その場に対する慣れや信頼感が高まれば、もっと気を感じることができるのだろうと思う。そして、もう一つ、心を解放しても自分は大丈夫だ(何者にも、自分を奪われることはない)という、自分に対する自信、信頼のようなものがもっと強くなれば、もっともっと「気」感じて、使えるようになるのかもしれない。
「気」というものが、本当は自分のすぐそばにあって、自分が感じようと思えば感じることができて、それは、自分の意思で感じることも、感じないこともできるものなんだ、ということが少し、分かったような気がした。
終わったあと、心地よい脱力感があった。その晩は、冷え性の私が、ほかほかと温かい感じだった。とくに頭が熱くて、頭皮がやたら、かゆかった。あれも、気のせいだったのだろうか。
取材対象の彼女には、いい出会いを導いていただいた。すごく、そんな感じがする。あの、心を解放した状態は、創作をするときの、ひらめきがわく瞬間にも似ていると思った。気をとおりやすくするということは、そういう世界にも通じていると感じた。
いただいたご恩を、彼女に返せるかどうか分からないが、私ができることを、私にできるかたちで、他の人に返していこうと改めて思ったのだった。
取材といっても、インタービューをするわけでもなく、カメラマンが、カメラを回すだけだったので、私はほとんど体験教室みたいな感じだった。
夜の8時ということだったので、8時数分過ぎくらいに行くと、もうしっかり呼吸法が始まっていた。見慣れない人にとっては、少し異様な雰囲気で、それをひたすら30分、その後、体をほぐす体操のようなものを約30分した。
そして、いよいよ、人を飛ばす気功になった。一体、どんな風に飛ばすのか? よく飛ぶ人は、体育館の端のほうまで飛んでいくという。
私は、フリスビーかボールのように、空中を飛んでいる状態をイメージしていた。そんなに飛んだら、危なくないか? と心配していた自分の想像は、まったくの杞憂だった。
先生と向かい合って、手をふれた人たちが、次々と、小走りに体育館を駆け巡っている。踊るように手を振る人、おかしな笑い声をあげながら走る人、首のあたりを傾けて硬直したまま、走っていく人、じつにさまざまで、先生のそばでは、床に倒れこむ人や、どうみても不自然に体が動いている人など、さまざまだった。
取材対象の彼女が、気がとおる人ほど、笑うのだと解説してくれた。その日は、小さな子どもも数人いて、何回か来ている小学1年生の子は、迷うことなく、体育館の隅のほうまで、走って(飛んで)行った。
遠くで見ていたのだが、参加者の中には、私の知人もいて、私にも「先生にやってもらって」と声を掛けてくれた。
体験してみたいけど、ちょっとこわいような、抵抗したいような、複雑な気持ちのまま、体験してみたいという好奇心の方が勝って、先生のそばに近づいた。
そばで、他の人が先生の気を受けているのを見ているだけで、なんだか立ちくらみがするような、グラグラするような、普段あまり感じない、軽いめまいがした。
先生と向かい合って両手に触れると、ん〜、とくに感じない。う〜、このまま何も感じないのだろうか? としばし思っていると、先生の「気合い」のようなものを感じてきた。「気」というより、ほら、飛んで行け!みたいな、「気合い」のようなものだと思う。とりあえず、飛んでいった。その状態が、変に面白くて、笑いが出た。
取材対象の彼女が、「すごいよ。初めての人は普通飛ばないよ。」という。内心、あれは、飛ばされたというより、自分で飛んだに近いような気がしていた。
その後も、子どもと一緒に先生の気を受けたりしているうちに、子どもに引っ張られるように飛んで(走って)、私もだんだん雰囲気になれてきた。
そして、全員が自由に体育館をぐるぐる動きながら、先生の気のパワーを受けているときだった。私にも先生が近づいてきて、軽く手を触れたとき、何かに押されるような感じがした。その感じに抵抗せずに身をまかせると、私は、体育館の端っこまで、まさに、飛んだのだった。壁にかるくぶつかるほどの衝撃があった。
これだ! これに違いにない。これが気だ。というのが、やっと本当に感じることができた瞬間だった。
そのときの心の状態は、すごく愉快で、楽しくて、童心に返るような感じ、というのかなあ。一言で言えば、心が解放されているような感じだった。
数年前、やっと、すべれるようになったスケートにも、少し似ていると思う。こわい、できない、無理と思ったら、氷に抵抗してすべることはできない。でも、氷に抵抗することなく、自分の身をゆだねれば、スーッとすべることができたあの感覚だ。
最初は、自分の意思で飛んだような状態だったが、周囲の流れに逆らわず、とくに、子どもに引っ張られるようにして飛んだことなどが、私の気をとおりやすくしてくれたのだと思う。
大切なのは、身をゆだねることかな、と思った。
ただ、気の世界を感じることが難しい理由は、大人としての理性や疑念や自分を守る術が働きすぎることなんだと思う。心を解放することは、すごく気持ちがいいことなのだが、解放すること自体に、恐怖もある。昨日の教室で、私はその両方を感じていた。
おそらく、その場に対する慣れや信頼感が高まれば、もっと気を感じることができるのだろうと思う。そして、もう一つ、心を解放しても自分は大丈夫だ(何者にも、自分を奪われることはない)という、自分に対する自信、信頼のようなものがもっと強くなれば、もっともっと「気」感じて、使えるようになるのかもしれない。
「気」というものが、本当は自分のすぐそばにあって、自分が感じようと思えば感じることができて、それは、自分の意思で感じることも、感じないこともできるものなんだ、ということが少し、分かったような気がした。
終わったあと、心地よい脱力感があった。その晩は、冷え性の私が、ほかほかと温かい感じだった。とくに頭が熱くて、頭皮がやたら、かゆかった。あれも、気のせいだったのだろうか。
取材対象の彼女には、いい出会いを導いていただいた。すごく、そんな感じがする。あの、心を解放した状態は、創作をするときの、ひらめきがわく瞬間にも似ていると思った。気をとおりやすくするということは、そういう世界にも通じていると感じた。
いただいたご恩を、彼女に返せるかどうか分からないが、私ができることを、私にできるかたちで、他の人に返していこうと改めて思ったのだった。