<< 前のページ  |最新号|  次のページ >>
[ 語り部倶楽部 ] [ 2008/03/11 10:03更新 ]  

先日、文京シビックセンターで水島総監督作品の映画「南京の真実」・第一部“七人の死刑囚”の試写会を観賞することができた。

この映画は三部作になる予定であるという。その三部作の第一弾として極東軍事裁判において“平和に対する罪”という事後法によって死刑になった“七人の死刑囚”が絞首刑になるまでの模様が花山信勝教誨師との会話をとうして克明にえがかれている。

映画は日本の敗戦が色濃くなった昭和20年3月10日の東京大空襲の実写映像からはじまる。この夜、一夜にして十万人の東京都民が無差別爆撃で亡くなった。さらに八月6日には広島、八月9日には長崎への原爆投下により30万人の市民が亡くなる。

これをおおい隠すように、極東軍事裁判において突然に南京において大虐殺があったと告発されたのである。これが“南京大虐殺”という虚構の始まりである。日本が南京を陥落させたのは、日米両国が干戈をまじえる四年も前の出来事である。

“事件”があったという昭和12年から昭和20年の終戦にいたるまで、中華民国政府も中国共産党も、欧米政府も、まったく取り上げなかった“事件”であったのである。

しかし、極東軍事裁判において南京攻略戦の軍司令官だった松井石根大将は、その戦争責任を問われ絞首刑となった。

「南京の真実」第一部“七人の死刑囚”は、この大将松井石根軍司令官を主人公として当時の実写フィルムを交えて構成されており、これらの映像が書籍からはうかがい知る事の出来ないような事実関係を如実に物語っている。この映像は、日本国民のみならず、世界中の人々にもぜひ見てもらいたいものである。

南京陥落の翌日昭和12年12月14日には、早くも記録映画撮影隊が南京に入っている。そしてその翌日である15日からお正月にかけて撮影隊は、南京城内の様子をくまなく撮影している。その模様は、いたって平穏そのものである。

しかしアイリス・チャンや南京大虐殺を既成事実化しようと躍起になっている中国政府は「三十万人虐殺、八万人強姦」説をいまだに言い募っている。

南京陥落の直前の人口は二十万人だと国際委員会はいっているが、それが一ヵ月後には二十五万人に増えているということである。

当時撮影されたフィルムのなかにも良民証という身分証明書を貰うために長蛇の列をなしている穏やかな表情の中国人が写し出されている。それを四人ずつ並ばせて整理している日本兵は全員兵器をもたず丸腰である。
松井石根大将は南京陥落の直後に奈良38連隊・津32連隊の二個連隊から4000名の兵だけを南京の警備に残してその他の部隊は他の戦場に転進させている。

警備に残った4000名の兵で25万を警備していたことになる。その兵がその後年末年始にかけての数週間で三十万人を虐殺し八万人の女性をレイプできるものであろうか。

南京城内の映像には年末でお正月の準備をする部隊の様子が映し出されている。また日本の従軍看護婦が傷病兵を看護する姿や兵とともに記念撮影をしている場面も映し出されている。

さらに、蒋介石政府は、南京陥落の後の十ヶ月の間に、毎日のように外国人記者会見をし、その数三百回もあったという。しかし、「南京で何がおきたか」という事に関しては一切言及していないという。

このような内容をナレーションによらず、字幕で訴えかけていた。映像の力と文字の力が相まって強烈なインパクトがあった。
私もいままで書籍の上で“南京”について読んで知っていたつもりであったが、「百聞は一見に如かず」とはまさにこのことである。あの記録映像を見て“南京の真実”を正しく理解することができた。

この映画“南京の真実”の圧巻は被告側アメリカ人弁護士ブレークニーが東京極東裁判の無効と被告達の無罪を主張する場面である。
「キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪ならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることが出来る。投下を計画した参謀長の名前も承知している。その国の元首の名前も承知している。・・・この裁判はその人たちが裁いているのだ」(映画南京の真実より引用)
映画の最後に渡辺はま子の“愛国の花”が突然流れ出した。渡辺はま子が歌うこの歌を聴いたのは本当に久しぶりである。私にとってこの歌は、子供のころ毎日聴いていた懐かしい歌でもある。

終戦間際のころ、私の家の前にある洋裁学校の生徒たちが昼休みに毎日歌っていた。なぜか毎日おなじように三曲歌っていた。はじめに従軍看護婦の歌である“従軍婦人歌”、つぎに“蘇州夜曲”、最後に“愛国の花”が歌われていた。彼女達の声が天使の歌声におもえたものである。

ところが、このすばらしい歌が毎年年末の恒例になっている“懐かしのメロディー”に登場しないのだ。長い間、この事を疑問におもっていたのだが、櫻井よしこ氏の著書を読んで合点がいった。

この歌は終戦直後、一時、NHKのテーマミュージックになっていたという、そして当時GHQでも非常に良い曲だということで何の問題もなかったということである。しかし、この曲は戦時歌謡だとGHQに“御注進”した者がいたという、いわゆる“チクリ”である。そのため、その後この曲が封鎖されつつ”けたのだということだ。

江藤淳がいうところの「閉ざされた言語空間」が歌にまで及んで今日まで続いていたとは驚きである。

63年前、こんなメロディーで愛国の花を歌っていました。



[ 語り部倶楽部 ]  
あるお年寄から、「ところで、あの食事訓は、いったいどうなったんでしょうね、まだ覚えていますか?」と聞かれた。
久しぶりに“食事訓”という言葉を聞いた。
知っているもなにも、いまでも食事のたびに口には出さながよく心の中で唱えている。たぶん、年配者のほとんどの人がいまだに記憶していることだと思う。
巣鴨にお参りに来られるいろいろな人達に聞いたところ“食事訓”を知っている年令の分岐点は、70才といったところだった。
かつては、“いただきます”をいう前に祖父母や父母の口まねで“食事訓”を唱えた。「箸とらば 天地御代(あめつちみよ)の御恵み(おんめぐみ) 父母や衆生(しゅじょう)の ご恩味わい」というものである。
地方によっては、いくぶん言い方や言い回しが異なるようであるが、その意味するところはまったく同じである。

ところが70才以下の人達がこれを知らないのは“食事訓”も“いただきます”も宗教的であり、上下の支配関係を示すものだ、ということで、いわゆる“進歩的教師”たちが学校で子供たちに禁じたことによる。
子供は、家に帰り学校で教わったとうり、「食事訓は悪いことだ」という。私もそのように言った覚えがある。今考えると、子供を人質に取ったこの“食事訓”つぶしは“国旗”や“君が代”をつぶしたと同じように大成功に終わった。
だが、さすがに“いただきます”は、つぶしそこねたようだ。しかし“食事訓”は、いまでは確実に跡形もなく消えてしまったといういうわけである。

当然、現在40−50才の世代の人達に我々は伝えそびれてしまった。まして、20歳以下の孫の世代などは、これを知るよしもない。

外国映画を見ると食事の前にあたりまえのように神に祈りを捧げる。それが、あたりまえで自然な光景である。とくに宗教的というほどのものでもあるまい。若者の中には、よく自分は無宗教だ、と平気でいう者もいるが、そんなことは決してない。自分で気つ”かないだけである。
元旦には、鎮守の森の氏神様にお参りする。家の玄関先には、ご先祖が集う“依り代”の門松と注連縄を飾り、御供をそなえる。
いまでも町工場では、動く一つ一つの機械に御供えをそなえるという。大手の会社でも工業用ロボットにさえお供えを供えると聞く。マイカーにお飾りを付け、高尾山で安全祈願をする。子供でさえ自分“シマノ”のハイテク自転車にお飾りを付け正月を迎えるほどである。春には、田の神様に五穀豊饒を祈り、早乙女が田植えをする。
山開き、海開きまた然り。地鎮祭のない建築工事はない。科学の最先端の原子力発電所の建設でさえ地鎮祭を行う。このあいだ打ち上げに成功したロケットの場合どうだっただろう。何もせずに、宇宙の大空の大自然に向かって打ち上げるほど傲慢不遜ではあるまい。
鯨塚を造り、針供養をする。田舎に行くと、よく見晴らしの良い南斜面に馬頭観音がある。古老の話によると、天明の飢饉の時不本意ながら先祖が食べた償いだという。
熊を狩るマタギは、熊が遡上するサケを沢山食べられる様に、上顎と下顎を川の両岸に供えるそうだ。宗教律とか道徳律が生活と渾然一体となり、伝統 文化 習慣 風習 風俗の形を取っているから実感がないのかも知れない。

名著“日本人とユダヤ人”の著者イザヤ・ベンダサンこと山本七平が著書の中でこんな面白い逸話を紹介している。
エジプトで発掘調査をしていた日本人十数名が、来る日も来る日も白骨ばかり出るので一人また一人と倒れる。カイロの病院で調べるが、全員異常は、認められない。そこで、急遽日本から神主を呼び、お祓をしてもらったところ全員ケロリと完治したという。
その調査隊は、全員キリスト教徒ということである。これは日本人の宗教観をとても良く表わした逸話であるとおもう。

巣鴨の“とげぬき地蔵尊”がにぎわっているのも単純にして明快に心に積もる“心のトゲ”を抜いてくれるからである。これで救われている人が、数多くいる。“これでホットした”と言う人が沢山いる。

食事訓が、いまさらどうなると言うものでもないだろうが、むかし“食事訓”という習俗というか美俗というか、そんなものが有ったことをご記憶いただきたい。

「箸とらば天地御代の 御恵み 父母や衆生のご恩味わい」



[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:43更新 ]  
今年の終戦記念日も例年どうりの晴天であった。過去62年間、どういうものか曇りにあたった記憶がない。抜けるような青空と真黄色な向日葵と蝉時雨が自分にとっての八月十五日の記憶である。あの日とまったく同じ天気でおんなじ風景である。おなじ青空でも八月十五日の青空は妙にもの悲しく感じられてならない。今日、時あたかもお盆の真っ只中である。

今年の終戦記念日にむけて、産経新聞では8月1日から15日まで大戦末期に生還できないことをわかって出撃した兵士が、家族にあてた“最後の手紙”(遺書)を紹介していた。この15通の手紙は靖国神社の社頭に月替わりで掲示されたものだ、という。この“手紙”をぜひ多くの人にも読んでもらいたいとおもって引用したいとおもう。
かつて、名コラムニストの山本夏彦氏は「人間は二度死ぬ、一度目は普通に言うところ死である。だが人間はそれだけでは死なない。人の記憶のなかで生きつつ”ける。ほんとうの死とは人の記憶から消えたときである」という。せめて終戦記念日の“八月十五日”だけでも静かに御魂を祭ってあげたいものである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  海軍兵曹長  近藤八郎 命(みこと)
  第66警備隊 昭和19年2月6日 マーシャル群島クェゼリン島にて戦死
  長崎県出身  27歳

短期間の実に楽しい結婚生活であった。厚く御礼を申す。俺も此の度は生還は帰し難し。武人の妻として誇りを持ち絶対に取乱してならぬ。七転八起の精神を振ひ起し、世の荒波を乗切る様。くどい事は申さぬ。幾時も申していた言の葉を思い起こし、老先短き両親に仕える様。尚坊やの顔も見たいけど致方ない。清く美しく育てて呉れ。男子の場合は姓名近藤征一郎。女子の場合は姓名近藤洋子と命名して呉れ。暑さ寒さに留意され自愛専一に。二十二日夜認ム 
                                      敬具
                       夫より    マスエ殿 
       (靖国神社・平成十八年四月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  陸軍中佐  沼田正春 命(みこと)
  昭和19年12月2日 レイテ島リモン西南方面にて戦死
  神奈川県出身  31歳

大命に依り、父は沢山の将兵をお預かりして、更に更に難しい戦場に赴く事となった。故に多忙中であるが一言申し述べて置く。 
若し父亡くしても、節夫には立派な祖父母があり優しい母がある。お世話下さる叔父や叔母がある。又幾百年来の先祖がお前の事を一生懸命見ていて下さるのだ。それ故、皆に有難く感謝しつつ安心して征くのである。祖父母や母の教えに従がい清く正しく如何なる事にも負けぬ強さ優しさを持って育てよ。
父の骨は遥か南の果てに埋まるとも、常に常に、お前が成育する勇姿を見守っている。秋色濃き孫呉の平原に虫声も寂しく、北斗星は真上に輝き、月は興安嶺の彼方に傾く。冷気強き灯火に下、遥かにお前の姿が目に浮ぶ。どうか祖父母を大切に母を労わるよう。他の事は祖父母様お母さんよりお聞きなさい。

         (靖国神社・平成十七年八月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                   最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  陸軍中尉  山下 瀞 命(みこと)
  昭和19年12月7日 サイパン島にて戦死
  静岡県出身  23歳

  父上母上様 

瀞は幸者でした 喜んで笑って行きました 最大の親孝行も致しました 安心して行きました
専門教育迄受けさせて戴き我儘をやって来ました
故郷の山河、浜名の湖水に、遠州灘に、瀞の魂は幸福に寝っています。
姉様楽しき日を御祝致します
満雄、後は頼んだぞ 士郎、俺の分まで孝行してくれ 益雄、しっかり勉強して偉い人になれよ 多可士、御母様の手伝をしなさいよ 悟朗よ、益雄、多可士の面倒を見てやれよ
瀞様は皆を何時もあの青空で見ていますよ

     一億の人に一億の母あれど  吾が母に優れる母あらめやも
御母様古賀幸子様に宜しく御伝へ下さい
                        では さやうなら

       (靖国神社・平成十九年一月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                                                                          最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  海軍小佐  久保田 長 命(みこと)
  特設潜水母艦靖国丸
  昭和19年1月31日 トラック諸島西洋上にて戦死
  茨木県出身  45歳

応召以来満一ヵ年ではあるが、及ばず乍ら日ごろの体験と努力とによって、思う存分忠勤を尽くして来たと確信する。
                   (中略)
靖国丸の航海長として応召し、靖国丸と共に働き、死して靖国神社に祀られる。これ以上の名誉があらうか。
一生を契って十幾年、随分苦労も多かったらう。然し満足に生育して行く子等に就いては些かの心配もない。我が亡きあとは定めし骨も折れる事だらうがよろしく頼む。我れ戦死すと雖も霊は常に御身を守っている。
決して悲しんでくれるな、むしろ喜んでくれ。
                               さらば
              昭和16年12月6日  長 出
  
  淨子様
               (最後の日迄開封すべからず)

       (靖国神社・平成十八年二月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                            最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
  海軍工作兵曹長  小笠原嘉明 命(みこと)
  戦艦大和乗艦
  昭和20年4月7日 九州坊ノ岬南方沖合にて戦死
  愛知県出身  29歳

我、軍人としての本分を立派に果たし、神風大和艦上に最後を飾るは、我、無上の上誉れと深く心に銘記し笑って死すものなり。 
御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。夫婦の契りを立て、二世を誓いし以上は、我と一心同体なりし事は申すまでもないと存じまする。ましてや我は国難に殉じる軍人です。其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、此に一言遺書を記すものなり。                 (中略)
一、里へ帰るも可なれど、里方御迷惑せられますれば、我家にいては居辛く本人としては我家を出て静かに自活したき希望なれば、本人の希望通りに自力自活の道を進む様御願ひ申し上げます。其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置いて戴きたく御願ひ申し上げます。
一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、可愛がれば愛子とても孝養せなくてはならなくなると我は存じますれば、嫁と思はず、我子と思われまして可愛がって下さいます様御願ひ申し上げます。(後略)
         (靖国神社・平成十九年三月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                             最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
  海軍工作兵曹長  小笠原嘉明 命(みこと)
  戦艦大和乗艦
  昭和20年4月7日 九州坊ノ岬南方沖合にて戦死
  愛知県出身  29歳

我、軍人としての本分を立派に果たし、神風大和艦上に最後を飾るは、我、無上の上誉れと深く心に銘記し笑って死すものなり。 
御両親様、妻愛子は良嫁になかりしが、我の妻で御座居ます。夫婦の契りを立て、二世を誓いし以上は、我と一心同体なりし事は申すまでもないと存じまする。ましてや我は国難に殉じる軍人です。其の家族が軍人の家族らしからぬ事、此の世に多しと承り、此に一言遺書を記すものなり。                 (中略)
一、里へ帰るも可なれど、里方御迷惑せられますれば、我家にいては居辛く本人としては我家を出て静かに自活したき希望なれば、本人の希望通りに自力自活の道を進む様御願ひ申し上げます。其の上にて再婚の道有ればお進め下さい。再婚致す迄は愛子の籍は我が妻として置いて戴きたく御願ひ申し上げます。
一、人間は感情の動物なれば、憎きやつと思へばだんだんと遠ざかり、可愛がれば愛子とても孝養せなくてはならなくなると我は存じますれば、嫁と思はず、我子と思われまして可愛がって下さいます様御願ひ申し上げます。(後略)
         (靖国神社・平成十九年三月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                             最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
  海軍少尉 服部壽宗 命(みこと)
  神風特別攻撃隊「菊水部隊天櫻隊」
  昭和20年4月16日 南方諸島方面にて戦死
  三重県出身  

  節子殿 

兄は神風特別攻撃隊の一員として明日敵艦と共に、我が愛機電撃機天山に特攻用爆弾を抱きて命中、男一匹玉と砕け散るのだ、最後にのぞみ一筆書遺し置くことあり。
          節子も今では立派な可愛い女学生となったことであろう。兄は節子の女学生姿が見られずに死んで行くのが残念だ。兄の一人ぐらいが死んだとて何も悲しみなげく事はない。      
兄は喜んで天皇陛下の為め、重大危機に直面して居る日本の為め、一億国民の盾となって散って行くのだ。少しも悲しまずに笑って兄の魂を迎えて呉れ。(中略)兄は常に九段の社の櫻の木の枝に咲いている。裏の元屋敷の櫻の木にも咲きますよ。櫻が咲いたら兄だと思って見て下さい。
             さやうなら。母上を御願ひ致します。
                                 出撃前夜 兄
                                 親愛なる妹 節子殿            (靖国神社・平成十五年四月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                 最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                    
   海軍少佐  篠崎真一 命(みこと)
   昭和19年6月29日 内南洋方面にて戦死
   東京都出身  二十四歳 

  玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思っている。苦労のみかけ、厄介ばかりかけ、何等尽くし得なかった事済まなく思っている。 
四月十五日以来僅かな月日であったが、私の一生の半分に値する月日であった。父母に孝養を尽くしてくれ、私の分迄。
私に逢い度ば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きている。
結婚のすべての手続き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を頼むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。
後顧の憂、一つなく征ける身の幸せを感謝している。最愛の玲子、御身を常に見守っているよ。
                                出撃前夜
                                  海軍大尉 篠崎真一
         (靖国神社・平成十八年三月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                最後の手紙 
            千の風になった御霊(みたま)たち
   海軍大尉  林 市造 命(みこと)
   昭和20年4月12日 西南諸島方面にて戦死 
   福岡県出身  23歳 京都帝国大学 海軍第十四期飛行科予備学生
                             
一足さきに天国に参ります。
天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈ってください。お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。お母さん、さようなら。

・・・・・ 母マツエさんの手記・・・・
泰平の世なら 市造は、嫁や子供があって、おだやかな家庭の主人になっていたでしょう。けれども、国をあげて戦っていたときに 生まれ合わせたのが運命です。
日本に生まれた以上、その母国が、危うくなった時、腕をこまねいて、見ていることはできません。そのときは、やはり出られる者が出て防がねばなりません。

            一億の人を救ふはこの道と
                   母をもおきて君は征きけり
           (靖国神社・平成十四年六月社頭掲示)
                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                  最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                               陸軍衛生少尉     谷口 吉元 命(みこと)
       昭和20年2月27日 フィリピン群島ルソン島クラーク方面にて戦死
   三重県出身  二十九歳

いよいよ 動員下令になった 明日又は明後日は出発する事と思う 男子の本懐之に過ぎるものはない 勇躍して征途に着く 目的地は日米の決戦場「レイテ」島であろうと予想せられる お前の最後の手紙を今日手にした女々しいかもしれぬが持参して行く 恵まれぬ夫婦生活だったね しかしくれぐれも体を大切にして父母上の事を宜しく頼む 又子供の養育を御願ひする
私は今お前の強い 意志を信じて心置きなく大命の下 決戦場に身を挺する事が出来る 運命は神が支配せらる 私の肉体は何処に在ろうとも 心は必ずお前達母子三人の上に永遠の幸福を祈りてあるぞ(中略)
くれぐれも御自愛を祈る
                久子殿
                                  吉元
                                                   (靖国神社・平成十六年十一月社頭掲示)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                  最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
                                               陸軍大尉     横山 善次 命(みこと)
   昭和20年8月13日 犬吠埼東方洋上にて戦死
   茨木県出身  二十二歳
私は突然征く事になりました。何も言ひ残す事は有りません。只戦が勝つまで頑張って下さい。充分健康に注意して・・・。
私は必ず立派に目的を達成します。私が今頃只本当に御両親様に御世話になり、又数々の御心配をおかけした事は御許し下さい。今迄御両親には何とかして安らかな生活をさせたいと思って居りました。それも出来ませんでした。愚人の空想でした。
ホンノ少しでは有りますが、このトランクに入って居る品、私が一生懸命にためたものです。食べたかったのを食べずにためました。
大きな箱の中に入って居る清酒其の他の品は、七月三十日、出撃準備命令と同時に出撃者のみ頂いたものです。生缶等皆様と一緒に食べたかったのですが、それもできませんでした。本当につまらぬものばかりですが、これが私の最初で最後の心からの品です。箱の中の品は私の写真と一緒に食べて下さい(中略)。
では皆様、充分健康に注意され、最後まで頑張って下さい。私は立派にやります。
さやうなら
              (靖国神社・平成十五年八月社頭掲示)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                               最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち
   陸軍大尉 川合四郎 命(みこと)
   昭和20年6月16日 沖縄にて戦死
   東京都出身  36歳
お手紙ありがたう。東京も梅雨がもう少しであけるさうですが、防空壕の中に水がたまってさぞ困るでせう。防空壕の上の木にもやがて蝉がみんみん鳴くことでせう。
こうして手紙をかきながら眼をつぶりますと、そのときの光景は見へるやうです。もう今頃は一学期も終わりに近つ”いて水泳のできる頃になりましたが、お父さんが居れば多摩川へでも行って泳ぎを教へてあげるのですが、満州にいてはそれもできず残念ですね。 
お手紙を見ていますと文章は短いですが、誤った字もなく仲仲よくかけています。毎日どんなにしているかよく分かります。その調子で良く勉強するんですよ。 (中略) 
昔の武士の子供は腹がすいても「ひもじい」と言っては親からしかられたものです。では今日はこれで終わり。 
                                さようなら 
   お父さんより      雄二郎君 
                                                                                                   (靖国神社・平成十五年八月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                                              最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

    陸軍大尉  枝 幹二 命(みこと)
    昭和二十年六月六日 沖縄方面にて戦死
    富山県出身  二十三歳

六月六日
あんまり緑が美しい 今日これから死に行くことすら忘れてしまいさうだ  真青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲 六月のチランはもうセミの声がして夏を思はせる
   “小鳥の声がたのしそう 俺もこんどは小鳥になるよ”
日のあたる草の上にねころんで杉本がこんなことを云っている笑わせるな
本日十四、五五分
いよいよ知ランを離陸するなつかしの祖国よ さらば
使ひなれた万年筆を“かたみ”に送ります。
             (靖国神社・平成十五年六月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

               最後の手紙
             千の風になった御霊(みたま)たち

  海軍上等主計兵曹  白井 武男 命(みこと)
  軍艦摩耶乗員    昭和17年11月14日 ソロモン諸島方面にて戦死
  茨木県出身     21歳

(前略)
かわいい弟達、我が家には我が家のハッキリした精神がある。何年か後は貴殿等も軍人に成るはずなり。それまでは一心不乱あの精神守り通すべし。
  (中略)
軍人としては戦場に臨むからは万一の場合を予期せねば成らん。されど幸いにして永らえる者は必ず白井家の意思をガッチリと後世に申し送るべし。父母の孝養にいそしむべし。父母の心安んずる事が子としての最大の孝行なる。困しさも難しい所を笑って切りぬけるべし。己を困難は練磨してくれる。御互に口をつつしむべし。口はわざわいの素なり。一家の秘は決して外言するべからず。功をほこらず。死を悲しまず、武人の家人らしくすべし。涙は絶対禁物なり。泣くは子供の時なり。泣く分笑ふ事が第一なり。絶対軍人の家人らしく態度を保持すべし。
              (靖国神社・平成十八年四月社頭掲示)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                     最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

  陸軍中佐  伍井 芳夫 命(みこと)
  特別攻撃隊第二十三振武隊 昭和20年4月1日 沖縄慶良間海上にて戦死
  埼玉県出身  32歳

親愛ナル真智子智子ヨ オ父サンハ 大東亜戦争ノ勝利ノ為 昭和二十年ノ春 特別攻撃隊第二十三振武隊隊長トシテ 日本男子ノ最大ニノ誉ヲ得テ立派ナ戦果ノ下ニ散リマス 
オ父サンハ 姿コソ見エナイケレド 護国ノ霊トナッテ 何時マデモ何時マデモ生キテ居リマス
真智子モ智子モオ母サンノ謂ヒ付ヲ守ツテ立派ナ人トナリナサイ 弟ノ芳則ヲ援ケテ軍人ノ遺族トシテ立派ニ成人シテ下サイ オ母サンハ オ前達ノ養育ノ為 言葉ニ云ヒ表セナイ非常ナ苦労ヲシテ来タノデス 大キクナツタラ此ノ御恩ヲ忘レズ必ズ孝行シテオ母サンヲ楽ニシテ差上ゲナケレバイケマセン 
オ父サン オ前達ノ成長ヲ見守ツテオリマス 良ク勉強シテ立派ナ人トナリナサイ 病気ニナラナイ様体を丈夫ニナサイ
            真智子智子殿      父ヨリ
                                                                                                 (靖国神社・平成十五年五月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                                                              最後の手紙 
             千の風になった御霊(みたま)たち

    海軍大佐  堀内 豊秋 命(みこと)
    昭和二十三年九月二十五日 セレベス島メナドにて法務死
    熊本県出身  

(前略)
人がなんと言っても恥ずかしいことはありません。皆母様の教えを守り良く勉強をし、立派な人になってください。日本を救う道は立派な人間になること、よく学問して、偉くなることです。体は若いうちに作らねば後で後悔します。監房の生活は少しも苦しくないからお父様のことは全く心配いりません。お父様に対する孝行は、ただ勉強して立派な人になることです。特に一人息子の一坊は一家の柱です。呑気すぎてはなりません。それでこせこせしたり、卑しくなってもいけません。(中略)
くれぐれも心配するな母ちゃん。少しでも仕事があるようなら知らしてくれ。筍生活には限りがある。小生の帰り何時か解らん。健康に特に気をつけ無理するな。
神の正しい裁きを待つばかり。
                         下壽殿 一坊外子供達一同殿
             (靖国神社・平成十五年五月社頭掲示)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:47更新 ]  
巣鴨は、今では最後の路線になってしまった懐かしの都電“チンチン”電車が通る町である。往時の最盛期には都内を42路線で縦横無尽に走りまわった都電も、時の流れかこの都電荒川線を残すのみだ。早稲田から三ノ輪橋までの12Kmの距離を約1時間で結んでいる。早稲田から神田川沿いに思案橋 鬼子母神 学習院下 大塚 飛鳥山 王子 荒川遊園 町屋 三ノ輪橋 と続く。東京の繁華街を避け路地裏を走る姿は、丁度、昭和30年から昭和40年の趣がある。この路線が生き残ったのは、繁華街をはずれていたのが幸いしたのかも知れない。“あの時代”を知らない若者達も懐かしさを感じる日本の原風景である。電車沿いの裏路地の風景は昔のままで、植込み、盆栽、鉢植や水遣りの光景や線路脇の遊び場、通りすがりに家の中まで見えてしまう家並は、“足るを知る”という言葉がぴったりの清潔で心地よいたたずまいである。南こうせつの“神田川”に歌われている「貴方は、もう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーして 二人で行った横丁の風呂屋・・・・・」のメロディーがお似合な路線である。

全線160円だが1日400円の乗り放題の切符は、中高年だけではなく若者達にも都電の“小さな旅”として、なかなか人気がある。巣鴨の東の玄関口は、JRと地下鉄三田線の巣鴨駅だが、旧中仙道沿いに東西に一直線に伸びる商店街の西の入口が、都電巣鴨の庚申塚駅ということになる。庚申塚は、言わずと知れた庚申様である猿田彦を祭っている。今年で開基504年になるという小さな社がある。日本の習俗として「勧請」と言って特に来てもらいたい神様に御出で願うのである。

昔々の巣鴨の住民は、猿田彦と大己貴(おおなむち)と小名彦名(すくなびこな)の神様を勧請して御出で願った。猿田彦は、鼻の長い異相で天狗のような大男である。天照大神の孫の“ニニギノミコト”が地上に降臨する時に道の先導をした事で“道の神様”とされている。大己貴(おおなむち)はまたの名を大国主と言う。大国主が国を治める時、何処からともなくガガイモと言うイモの実の船に乗ってチッチャナ神様である“小名彦名(すくなびこな)”が手伝いにやってくる。橋の懸け方や病気の治療、農作物の栽培方法、病虫害の駆除などの技術指導をして秋の実りの後、稗の穂先をしならせてヒョイと天上に帰って行った神様である。

猿田彦は、どこの田舎の祭でも天狗の恰好で祭の先導を勤めている。小名彦名は、一寸法師や福助の形で今に伝わっている。これが、古事記や日本書紀に書かれた神代の時代の民族の物語である。どこの村にも町にも、お社が有り、道標の庚申様やお地蔵さんや氏神様や御神木などがあるはずである。元朝参りに土地の由緒や言伝えを語りたいものである。どこから話始めても記紀の物語に行きつくはずである。皇后陛下は、お若い頃に「神代の物語は“事実”でなくともその中に“真実”が含まれていると思う」と話されていたが、古くからの言伝えは大切に残したいものである。

[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:49更新 ]  
ことしの“酉の市”も先月の28日の“三の酉”をもって終った。これで、東京でも本格的に冬の到来ということになる。巣鴨にも大鳥神社という“小さいお社”があり、毎年恒例の“酉の市”が立つ。今年の“三の酉”は、雨で心配されたのだが夕刻から雨も上がり、久しぶりに大変な人出であった。“小さいお社”ながら“酉の市”の露店は狭い路地をギッシリと埋め尽くしている。商売繁盛の神様ということで、かっ込みの“熊手”が大小所狭しと並んでいる。三、三、七拍子の手拍子がにぎやかに聞こえる明るい祭りである。もともと、この界隈には大塚の三業地があり花町のにぎわいを見せていたという。かの幸徳秋水も大塚三業地の遊郭に入り浸りながら“女性解放運動”をしていたという逸話も残っている。

関東では“酉の市”というが、全国的には“えびす講”という言い方が一般的である。いずれにしても“えびす様”をおまつりする祭りである。

ところで、先日の新聞でテレビでもお馴染の漫画家の“蛭子”さんが結婚する、という記事をみた。テレビで春風駘蕩としたキャラクターでよく登場する。苗字を耳で聞いていた時は何とも思わなかったが“蛭子”という字をよくよく見ると、とても“エビス”とは読めない。普通に読むとどうしても“ひるこ”である。

“ひるこ”と読んでやっと“えびす”の由来に気がついた。出典は“古事記”であろう。“古事記”には、天地開闢から日本列島の形成と国土が整備されてゆく様子が語られている。いわゆる“日本神話”である。“あめつちの始めの時”いろいろな神様が生まれ、その最後にイザナギ(男)イザナミ(女)が生まれた。二神は高天原から地上世界に降たつのである。“イザナギ”と“イザナミ”は、全く自然に自分の体を確認する、そして“イザナギ”は自分の体が“成り成りて成りあまるところ”があることに気がつく、“イザナミ”は“成り成りて成り合わぬところ”ありと気がつくのである。お互いの存在の確認であり“ジェンダー”は“フリー”ではない。

そして“まぐあう”のである。(昔はマグアウという漢字があったが、今は辞書にも見当たらない、本当は女偏に溝と書く。字を見た通りで分かりやすかったのに残念である。)しかし“まぐあい”の作法にかなわず、不具の子が生まれる。これが“蛭子”である。この子を水子として水に流すのである。この神話を悲しんで日本全国、この水子の“蛭子”が“えびす様”になって戻ってきたという伝説が各地に残っている。

ついでながら、放送禁止用語の第一位に位する“卑猥”の4文字“00んこ”もここから由来する。“まぐあいっこ”の鼻音の“グ”が“ン”に変化したものであろう。はじめて、古事記を読んだ時に気付いていたが学者先生も“恥ずかしい”のか誰も言わないので私が書く。古くから伝わる“由緒正しい”日本語である。最後の“コ”は平安朝のころの宮廷用語では言葉の最後に“コ”をつけるのが流行ったらしい。このことは、夢の中で清少納言と紫式部に教えてもらった。今では東北にだけ、この名残が吹溜まって残っている。東北では何にでも“コ”をつける。動物の子供を言う時がなかなか面白い。犬っこの子っこ、猫っこの子っこ、馬っこの子っこ、熊っこの子っことなる。

[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:49更新 ]  
秋風が吹いたと思ったら、たちまち11月も下旬を向かえることになってしまった。人形町の“べったら市”が終り、“一の酉”も“二の酉”も済んだ。今年は“三の酉”まであるそうだ。巣鴨では、恒例の菊祭も終った。気の早い所では“クリスマス・ツリー”の飾りつけさえ行われている。まあ、どちらかというと最早、冬の季節感のほうが漂う。と、こんな時期に我が家では、なんと今日も朝顔が咲いた。あと3芽残っているのでいつまで咲き続けるか楽しみである。

もう、26年間も朝顔と付き合っているが、こんな年は初めてである。毎年決まったように浅草の“朝顔市”に出店している巣鴨の露天商の親方からの頂き物である。巣鴨の全商店がその頂き物の朝顔を毎年店頭に飾っている。巣鴨の街の“夏の風物詩”の一つでもある。夏は見事に朝顔のオンパレードとなるが、店頭から一つ欠け二つ欠けてしまって残るは、私の所だけのようだ。毎年、遅い時期までもたせている方なのだが、今年はどうしたことか9月に入るやほとんどの葉がなくなってしまった。

「今年は、終わりが早いね」と言っていたが、その原因は青虫だった。綺麗に食べられてしまい枝を残すだけの無残な姿である。捨ててしまっても惜しくない様な鉢だが、とりあえず残しておいた。そして、10月に入ると、驚くなかれ毎日花を付け出したではないか。なんとも奇妙な生命力であると感心しきりである。

生命力というと、二つの生命力の話がある。今年のはじめに友人がきて「癌という診断がでて、今年いっぱいと言われたので、お別れに来た」という。こんな場合なんと慰めていいのか言葉につまる。だが、この宣告されていた死期を前にして全身に転位していたという彼の癌はがだんだんなくなってきている、というのだ。思うに、彼が以前から生活信条のようにしている“世の中、なんとかなる”という言葉が支えのようだ。彼が中学校で苦しかった時、先生が“世の中、なんとかなる”という言葉を教えてくれた、そうだ。それ以来、彼は、事ある毎にこの言葉を呪文のように唱えるのだという。“なんとかなる”という大いなる“楽観”が生命の復活をもたらしたものだと思えてならない。

いまひとつの話は、近所にいた新聞配達の“お兄ちゃん”の話である。大塚に癌研があった当時のことである。彼の父親が癌研に入院した。ある時、彼は嬉しげに「父はほとんど治りました」といった。そして、しばらく後、悲しげな顔をして「父が亡くなりました」と話した。当然癌で亡くなったものだと思い「やっぱりだめでしたか」と慰めた。しかし、彼の話は「いえ、癌で死んだのではありません。癌はほとんど完治してました」という。「ではなぜ」と聞き返す。「癌研の階段で足を滑らせて、頭を打って死にました」という。聞いていて、失礼ながら吹き出しそうになった。

このごろ、諸外国の科学者達もこの世の動きを“サムシィング・グレート(偉大なる者)”の力が働いているとも言っている。私達は、人智の及ばぬ事が多いと知るべきである。まして、人の寿命を断定するなどという“罰当たり”なことは厳に慎むべきである。

[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:51更新 ]  
巣鴨は、とげぬき地藏尊で知られる高岩寺の、いわゆる門前町である。 “お年寄りの原宿”とも呼ばれ、毎月4・14・24日の縁日は、沢山のお年寄りがお参りに集まる。 お伊勢参りや善光寺参りが、女性のレジャーであった事と同じようなものです。 巣鴨の魅力は、何かというと、なんと言っても“よそ行き”を着なくても普段着のまま出かけられるということでしょう。“ちょっと そこまで”の装いで出かけられる、そんな町です。 商店には、今なら“ムームー”と言うのだろうが、昔は「簡単服」とか「アッパッパー」といった洋服やモンペとスラックスのアイノコの“モンスラー”という巣鴨独特のズボンもある。

今は亡き勝新太郎の若かりし頃の写真や、眠狂四郎の市川雷蔵、紅孔雀の中村錦之助、東千代ノ介の白黒の懐かしいプロマイドが店頭を飾っている店もある。そんなセピア色の思い出が沢山のこっている町です。 さらに、「言葉の訛は、お国の手形」とお国訛りが、大手を振ってまかり通る大きな田舎町だと言うこともいえます。 「ノーテンファイラー」(馬鹿)という、いまでは化石のような言葉が“ノテ”という言葉で残り、それが今なお通用する。「後生楽」という言葉も生きている「言葉の依代」の町でもある。 たぶん昭和30年代の面影を残した町の雰囲気が、人を引き付けるのでしょう。

近頃、レトロな町並みがブームのように好んで作られているが、仏造って魂入れずの感を免れない。 巣鴨の町の雰囲気には、お地蔵さんを取り囲んでいる、昔からテキヤ、香具師(ヤシ)と呼ばれ、江戸300年の伝統を今に伝える露天商の存在は、欠く事ができない。 いまだに、サービス品を“御渡品”(オントヒン)と言う“お祭屋集団”の存在は大きい。 かつて、仙台で露天商を排除し、東京では、渋谷で露天商を排除し町の性格と面白味を失ったという。地方出身者、早い話、田舎者にとって露店は地方の町々に、江戸弁のキレイな口上で都会の庶民文化をカーバイトの匂いとともに伝えてくれた懐かしい存在である。日光写真、海ほうずき、地球ゴマ、ベーゴマ、でんすけ、水貼り絵、綿飴、チンドン屋など思い出深い。

この頃テレビでは、世の識者という輩が、したり顔で高齢化社会を、嘆くが、どうしてどうして年寄りとて実際には、なかなか達者なものである。 この頃、「私って、100歳は楽にいけそう」と言う言葉を良く聞くようになつた。 人生125歳説が、現実味を帯びて感じられる。 私は、今年65才になりますが、この町では、いまだに「お兄ちゃん」とすら呼ばれることが多い。まことに有難い町である。他所では、なかなか、こうはいかない。 「六十四、五は鼻タレ小僧 女盛りは七、八十」といったところである。

毎年の初詣で、明治神宮に400万人以上の人々がお参りしている。 その理由は、八万とも言われる全国の鎮守の森と十万以上の里山の樹木と土石を持ち寄って作られた“日本の鎮守の森”だからである。 だから米穀通帳と外食券を持って上京した地方出身の者達は、故郷に帰省できない時には、故郷の香りを求めて神宮の森に集うのである。 その数が、400万である。どこの田舎にも、故郷の鎮守の森から明治神宮の森に樹木を運んだ言い伝えが、必ず残っているはずである。 それと同じように、巣鴨は人と人とが、大きな里山を成し、お国訛りの「言の葉」の幸はう町である。

先日、年寄り仲間で方言の話に及び「気象衛星「アメダス」で話が弾んだ。 「アメデス」「アメダス」「アメデッセ」  「アメドス」「アメダベ」「アメダッペ」 「アメダラ」「アメダニ」「アメダッチャ」 「アメバイ」「アメダガ」「アメダンベ」と・・・・・さて、あなたの町では、なんと言うのでしょうか。

[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:52更新 ]  
巣鴨の“とげぬき地蔵尊”の境内には、古くから続いている露店が、軒をなして並んでいる。まあ“とげぬき地蔵尊”のぐるりを囲む藩屏のようなものである。門前町などは、露店なしでは丸裸みたいなものだ。あります、あります、つぎからつぎに露店が並んでいる。唐辛子屋、根付屋、梅干屋、腰紐屋、古着呉服屋、ぼろ屋、植木屋、綿飴屋、ヤキソバ屋、太鼓焼き屋、暦屋、お好み焼き屋、味噌漬屋、カツラ屋、迷子札屋、馬木の耳掻屋、焼だんご屋、地蔵屋、ヨーヨー屋、家相観屋、おみくじ屋、削り節屋、パンツ屋、つぼばん屋、ペタップ屋、珍味屋、易者、左馬の茶碗屋、健康器具屋、風船屋、焼だんご屋、サンガ屋、お香屋、まむし屋、ラオ屋、占い師などなどのお店が連なっている。昭和30年代の田舎の祭の縁日の風景そのものである。「3丁目の夕日」とかいう映画が人気だそうだが映画そのものの雰囲気がそのまま残っている日本でも数少ない町の一つだろう。

境内には焼き団子の醤油の焼ける香ばしい匂いが漂っている。昔あって、いま巣鴨にないのはカーバイトの“アセチレン・ランプ”の匂いくらいなものだ。参拝客は、それぞれ馴染みの店の前で話込んでいる。その光景は、まるで砂漠から久しぶりに、オアシスに出てきた砂漠の民のようである。人が恋しいのだ。久しぶりに人と話した、と言うお年寄りさえいる。人と会話ができるだけでも御利益のうちなのだろう。だが、参拝に来る年寄りすべてが善男善女とばかりは言えない、たまには“年寄りの不良”も来る。けっこう“年寄りの不良”というのもいるものだ。

お年寄りで偽悪ぶる“不良”もなにか可愛げがある。いまだに若手の“傷痍軍人”などがアコーディオンとハーモニカで「ここは御国の何百里・・・」とか「モンテンルパ・・」などの歌を奏でている。南方戦線に出征した00師団00兵団で名誉の負傷をしたという話をきいて「ウソと分かっていても身につまされてお金を入れてしまいたくなる」と言うお年寄りもいる。こんなところは、全国広しといえども巣鴨くらいのものだろう。

巣鴨のとげぬき地蔵尊の縁日は毎月4日、14日、24日である。まあ、見事なほどの露店の数である。“美は乱調にあり”とも言われるが、とりすましたデパートなどと異なり乱雑、喧騒、ゴチャゴチャさかげんがなかなか良いと人気である。そこんなところが、この町の魅力なのだろう。

[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 13:54更新 ]  
昨年のちょうど今頃のことである、話の種に一度行ってみたいと思っていた北関東の名勝谷川岳の紅葉見物に出かけてみた。11月に入ってしまったので時期を失したかと思いきや、丁度の見頃であった。“一の倉沢”という響きの良い渓谷の眺望は、絢爛豪華という形容がピッタリの絶景だった。葉の落ちない照葉樹林や針葉樹林と異なり落葉する樹林は、なかなか色調が豊かである。街道を暫らく走ると“土合”という名の駅に出た。土地に不案内な為、何と読むのか惑う。訓読ならば“つちあい”音読ならば“どごう”マゼコゼに読む“円高・外為”のような重箱読なら“どあい”である。“成金・消印”のような“湯桶読 (ゆとうよみ)”なら“つちごう”などとも読める。結局、言葉の響きから“どあい”ではならろうかと、見当をつけた。土地の人に聞くと案の定“どあい”でアタリだった。鉄道マニアの間では、上越線のモグラ駅として有名らしい。トンネル駅を見て“土合”という地名に納得がいった。 

昔、子供達の間で言葉の言い換え遊びがあつた。“いにしえ”の昔 武士の“さむらい”が “山に登って”登山して “馬から落ちて”落馬して “おんな”の婦人に笑われて“家に帰って”帰宅して “仏の前”の仏前で “腹を切って”切腹をした。という具合である。一つの事を二通り三通りに言う遊びである。以前、“いわゆる一つの長島語”として有名になった“夢のドリーム”という言い方は、今でも子供達の習字の手本となっている“千字文”を読むよきの“文選読” という読み方とおなじである。“宇宙”の“”おおぞら・・“天地”の“あめつち”・・という読み方である。

長島さんは、イワユルひとつの動物的直感で古代から続く日本本来の学習方法を体得したのかも知れない。しかし、此の頃の新聞を見ると、町村合併で大切な地名が雪崩の如く崩れ始めた。“アホ”な市町村の“バカ”な多数決の成せる業だ。ダシも出ないイワシの頭とタラの頭が寄り合って民主的多数決が、このザマである。市町村議員達の幼児退行ここに至れりといったところである。さいたま市 つがる市 さぬき市などの平仮名系 南アルプス市に負けじと中央アルプス市まで出来るそうだ。成立しないそうだが、南セントレア市 あっぷる市などは、言語道断で開いた口も塞がらない。惜しい事に、奥入瀬も“おいらせ”になるそうだ。奥入瀬の字面からだけでも風景が広がるものを、と惜しまれてならない。以前、私の姉が始めて東京に来て、上野から巣鴨まで山手線で来た時、鶯谷というところを通って“ヒグレサト”とか“ヒグレノサト”とか言う綺麗な地名の所を通って来た、と言う。“日暮里”である。“ニッポリ”と書いてしまえば身もふたも無い。


[ 語り部倶楽部 ] [ 2007/10/11 14:28更新 ]  
染井吉野の発祥の地である巣鴨の桜は、花冷のおかげで今年は、有難いことに強風にも耐えて例年よりもかなり長持している。毎年、我国では桜と共に新しい事柄が始まる、山の神様である桜を田圃に供え、田の神様を招いて田植を始める国である。まさに、桜は事の始まりを象徴する花と言える。入学,入社や事業年度も4月を以って始まる。桜前線という気温を示す目印でもある。古くは、西行法師が「願わくは 花の下にて我死なん その如月の望月のころ」と詠んでいる。桜は咲くもよし、散るもよしの花である。

ところが、外国では入学,入社、事業年度などは、みんな9月から始まるのだから日本も国際化に合せて9月を年度の開始にしよう、といっている評論家とかコメンテイターという輩がいる。昔、外国に行くことを外遊と言っていた時代には「外国では・・」「アメリカでは・・」「フランスでは・・」という“出羽の守”という連中が沢山いたが、この頃、またぞろ「出羽の守」が増え出してきた。新たに“中国出羽の守”や“韓国出羽の守”まで出現してきた。“中国出羽の守”や“韓国出羽の守”は、どこのお国の人かと思えるほど日本を悪し様に罵る。

ただ、“出羽の守”諸君の発言はなかなかどうして立派な反面教師として役立っている。彼等が言えば言うほど物事の真実がシッカリ見えて来るあたりが面白い。“日本では”茶室での会話の心得として言ってはいけない暗黙の禁句がある。「我が仏 隣の宝 婿舅 天下のいくさ 人の善し悪し」という。一般でも日常的に守りたいものだが、なかなか守るのは大変だ。これを守れば、テレビも週刊誌もタブロイド紙も無くなってしまう。

「我が仏」とは、自分の信じる宗教、「隣の宝」とは人様の財産、「婿舅」は今では「嫁姑」ということだろう、「天下のいくさ」とは政治向の話ということになろうか、「人の善し悪し」は今では「男と女」といったところだ、テレビが最も得意とする分野でもある。まあ、ほどほどのガイドラインを以って互いに傷つきあわない様にしよう、とする先人の知恵といえよう。最低限「中国出羽の守」や「韓国出羽の守」の諸君は、諸君の宗主国に我国の格言「我が仏 隣の宝 婿舅 天下のいくさ 人の善し悪し」を教えてやっていただきたい。せめて“我が仏”だけには、絶対に手をかけるな、と。くれぐれも,礼節と節度とコモンセンスをお忘れなきように。

<< 前のページ  | 最新号 |  次のページ>>