真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

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 清潔マニアなんていうと、何か悪いイメージで見られることが多いようですね。

 自分だけがキレイだと思っていて、他の人はみんなキタナイと思っている。だから、他の人が触れたものをイヤがって、自分から触ろうとはしない。
 うっかり触ってしまったら、ティッシュやハンカチで拭いたり、それでも気がすまなかったら、こっそり手を洗いに行く。
 要するに、この世で清潔なのは自分だけだと思っているエゴイストなんだ、と思われることが多いんです。

 でも、それは違っています。清潔マニアとは、清潔好きの延長だと思っていいんです。
 日本人はみんな清潔好きだから、あまりその微妙なところが分からないけれど、外国へ行ったら、かならず清潔マニア扱いされてしまいますよ。

 フランスの果物屋や野菜屋へ行くと、店員がオレンジやクレマンティーヌといわれるミカンの皮をむいて、試食を勧めることがあるんです。
 黒ずんだ汚い手でむいて、指でじかにつかんで、味を見てみなと差し出します。
 日本人ならたいてい尻込みをしますよ。一瞬ためらった後、受け取る人もいれば、ノン・メルシと言って断る人もいます。

 受け取って、観念したように口に入れる人もいれば、相手が触っていないような所を選んで、そこだけ食べる人もいます。
 メルシと言って貰っておいて、あとはいくら勧められても、ニヤニヤするだけで決して食べようとはしない、変わった人もいます。

 ところがですよ。向こうの人たちはどうでしょう。
 立派な服を着た紳士や淑女がやって来て、差し出されたミカンの房を無造作につかみ、何のけれんみも無く、パクパク食べてしまうのが普通なんです。
 陽気な声をあげて、ボン!(うまい)などと言っているのを見ますと、これこそが自然体での生き方なのだろうか、などとさえ思ってしまいます。

 こういう人たちから見ると、日本人はみんな異常に清潔好きだということになるでしょう。
 私などは、イチゴをつまんで出されても食べられません。
 というのも、洗ったイチゴでなければ食べないという習慣が、母のしつけによってすっかり身についてしまったからです。

 しかし、こうなると、もう清潔好きを通り越して、正真正銘の清潔マニアということになってしまうでしょう。
 私はそう思われるのがイヤなので、めったにこのことを人に言わないようにしているのですが、洗わないと食べられないものは、けっこう色々とあるんです。

 ただ、社会生活をしている以上、どっかで妥協しなければならないこともあります。
 そこで、比較的清潔と判断できる場合には、このルールをあまり厳格には守りません。

 例えば、ケーキの上に乗っているイチゴなどは、まあまあ無難なものとして、食べることにしています。
 日本のケーキ職人がそんなに不潔なことはしないだろうという、国民性への信頼や、文化社会に対する安心感のようなものが、心のどこかにあることも確かです。

 おそらく、みんな口にこそ出しませんが、私ぐらいの清潔好きは、日本にはいくらでもいるんではないでしょうか。
 それをいちいちマニア扱いしていたら、キリが無いんではないでしょうか。

 ところが、日本というのは妙な国で、清潔好きな人間が、少しでも清潔好きな態度を人々に見せますと、たちまちマニア呼ばわりをされてしまうんです。

 誰かと食事に行って、食事の前にかならず手を洗いに立ってごらんなさい。それを十回やったら、かならず清潔マニアだと陰口を叩かれます。
 食事に行って、テーブルの上にじかに置かれたフォークやナイフをアルコール綿で拭きだしたら、もう完全に清潔マニア扱いされます。

 しかし、それが清潔マニアのやり方だとしたら、清潔マニアは決してエゴイストではありません。
 というのは、この人はかならず、みんなのフォークやナイフも拭こうとしますし、また、そうしないではいられないというのが清潔マニアの心理状態だからです。
 他人のものが汚れていても気になって仕方がないというのが、清潔好きの本性だからです。

 あなたは、BSテレビの海外ドラマ、名探偵モンクという連続シリーズを知っていますか? 探偵モンクはれっきとした清潔マニアです。
 ただし、欧米人の考える清潔と日本人の考える清潔には若干違いがあるんです。

 モンクが気にするのは、何よりも「整頓」ですね、彼は、事件の現場へ行っても、乱雑に置かれているものをすぐに直します。
 机の上の鉛筆立てに、鉛筆が一本斜めに差してあるのを見ると、もうジッとしていられないんです。まっすぐに入れ直します。セイケツよりもセイトンなんですね。

 私のフランスの友人は、「清潔マニア」という言葉を聞くと、さっそくその真似を始めました。
 時々、言葉よりも体のほうが先に動き出すというのが彼らの特徴でもあるんです。

 友人のやったことは、灰皿を動かして机のふちと平行に並べたり、それに合わせてタバコの箱をまっすぐにしたり、ライターの正しい置き場所を決めることでした。
 三人の友人が三人とも同じことをしたのです。それも、別の場所にいた、別の時にです。

 そして、その中の一人が言いました。清潔マニアとは、人のネクタイが曲がっていたら、直さずにはいられなくなる人間なんだ、と。

 自分のネクタイよりもむしろ人のネクタイなんです。
 自分のネクタイが曲がっていても、鏡で見ないかぎり、あまり気がつかない。
 人のネクタイの結び方や曲がり具合はよく目につきますから、気になって仕方がない。つい手を伸ばして、友だちのネクタイを直してやろうとする。

 これが清潔マニアだとしたら、エゴイストとは違いますよね。
 人のネクタイが曲がっていると、直したくなる人はけっこう多いようです。でも、そう思うだけだったらただの清潔好きで、マニアとは言われないでしょう。
 マニアと言われるのは、曲がっているのを見たら、実際に直さずにはいられなくなる人のようです。
 しかし、そうなると、清潔マニアのほうがむしろ他人思いということになるでしょう。

 日本の電車やバスの中でよく見かける吊革嫌いのお嬢さんたちだって、良く解釈すれば、自分だけをキレイだと思っているエゴイストではないのかも知れませんね。

 自分の手のヌルヌルには気がつかないで、オジサンたちのヌルヌルだけが気になる。
 除菌ティッシュで拭いてやりたいのは、吊革よりもオジサンたちの手だったりして。

 そのついでに、オジサンのネクタイを直してやったり、顔の汗を拭いてやったり、曲がっている上着を引っ張ってやったりすれば、オジサンたちは喜びますよ。
 「何て優しい子だ」と。
(cf:小野しまと著『清潔マニアの快的人生─永遠のキレイを求めて─』ビワコ・エディション版143頁、www.e-biwaco. com)

 ここで、ちょっと断っておきたいのは、私も清潔好きですけど、人のネクタイが気になったことなど一度もありません。
 そこがやはり、セイケツよりもセイトンを真っ先に思い浮かべる彼らの感覚とは違うのでしょうね。

 ネクタイの結び方など各人の自由だと思っていますから、曲がっていようが緩んでいようが、これもファッションのひとつだぐらいの感覚で、全く気になりません。

 気になることがあるとすれば、色彩の面白さとか、デザインの斬新さといったことぐらいです。
 そんな時はむしろ、曲がったネクタイのアンバランスを格好いいと思ったりするのです。

 フランスの三人の友人と話していてよく判ったことは、彼らの清潔感と日本人の清潔感を分け隔てている微妙な違いでした。

 フランス語では「清潔」のことをプロプルテと言います。
 彼らは、この言葉を聞くと、どうしてもセイトンの意識から入ってしまうようです。それから、次がセイケツ。
 でも、このセイケツには、目に見えない菌から自分を守ろうとする、はっきりした意志が必要になります。

 どうも、こういう点が、日本人の清潔感とはちょっと違うようですね。
 日本人には、見えない菌を除くという医学的な、はっきりした意志よりも、むしろ気分的なところがあるようです。

 食事の前に手を洗いに行くといっても、手を消毒して除菌しようなどといちいち考えているわけではありません。
 ちょっと手を洗っておこう、外で何に触っているか分からないから、といった程度の軽い気持ちのことが多いのです。

 これは、別段変わったところのない、ただの清潔好きの生活態度だと言ってよいでしょう。
 ところが、日本では、人の見ている前で、これを十回繰り返すと、清潔マニアにされてしまうことは確実です。

 日本人には妙なところがあります。自分独りで清潔を追求していれば、清潔好きですむのです。
 ところが、それを堂々と人に見せると、とたんに清潔マニアのレッテルを貼られてしまいます。
 つまり、自分独りの問題にしておけば良いのですが、対人関係の中に持ち込むといけないのです。

 つまり、清潔という問題は、個人生活と社会生活とでは、ニュアンスが、色合いが変わってきます。
 それと、日本人の古来の性格がからまって、日本人に独特の清潔感を与えています。

 日本人の古来の性格と言いましたのは、日本人の思想の根源には、ケガレの思想があるからです。
 古代の日本人は、ケガレから身を清めるために、清流でよく手を洗いました。この伝統が日本人独特の清潔感を作り出してきたと言えます。

 それは、ヨーロッパの清潔感とはだいぶ違います。探偵モンクや私のフランスの友人が、何よりもセイトンを考えるところにヨーロッパ独特の清潔感があります。
 これは序の口の違いにすぎませんが、私はこれを、視覚による清潔感と触覚による清潔感の違いと考えております。

 欧米人は、散らかっている机の上を見ると、灰皿の角度やタバコの箱の位置やライターの置き場所にキタナサを見ます。
 日本人は、タバコの灰が机に落ちている、飲み物のシミが付いている、食べ物のカスでベトベトしているなどと、机に触った時のヨゴレを特に気にしませんか。

 フランス語や英語にも、もちろん、整理・整頓を意味する別の言葉があります。
 しかし、彼らは、ただ整理・整頓されているだけでは清潔だとは思わないようです。すべての物がバランス良く、キレイにセイトンされていて初めて清潔なのです。

 鉛筆立てに鉛筆を入れて机の上に置いてあったら、それでもう充分整頓されていることになります。
 しかし、鉛筆の一本が歪んで差してあったり、鉛筆立ての位置が悪かったら、キレイに片づいているとは言えません。

 本が斜めになって棚に並んでいたら、探偵モンクのような清潔マニアだったら、まっすぐに並べ替えようとするでしょう。
 フランス語の本の間にドイツ語の本が一冊交じっていたら、気になって仕方がないというのも、モンク風の清潔感です。

 こういう清潔感は、整理・整頓の完全性を求める感覚とも言えます。
 完全な秩序と合理性を求める意識で、「清潔は神を敬うことに近い」(Cleanliness is next to Godliness)という諺もあるくらいです。

 日本人のほうは、どちらかというと、本の汚れのほうが気になるのではないでしょうか。
 特に、表紙が傷んでいたり、黒ずんでいたり、カビが生えたりすることを嫌います。

 本にカバーを付けるのが好きなことは、欧米人が驚くことの一つです。
 本の汚れが視覚的にイヤだというよりも、やはり持つのがイヤだという触覚的な清潔感によると言えるのではないでしょうか。

 ヨーロッパの場合、清潔感は、見た目にキレイなセイトンから、いっきょに除菌とか殺菌の医学的なセイケツに飛んでしまいます。
 細菌やウイルスを肉眼で見ることはできませんが、顕微鏡で見ることはできます。したがって、これも視覚による清潔感と考えてよいでしょう。

 もちろん、これらの菌は、触って分かるものでもありませんから、どこで接触するか分からないという恐怖感はあります。
 しかし、顕微鏡検査によって病原菌の存在が証明されないかぎり、触れることを怖がらないという合理性が、ヨーロッパ人の心を支配しているように思われます。

 視覚的なセイトンから視覚的なセイケツまで、いっきょに飛んでしまって、中間が無いというのがヨーロッパ的な清潔感の特徴ではないでしょうか。
 これに対して、日本的な清潔感にはいくつかの中間的な段階があって、ヨゴレやケガレに触れたくないという感情が、小さな事から大きな事へと発展していきます。

 「何となく触りたくない、気持ちが悪いから手を洗っておこう」
 こういった多少曖昧な段階から、除菌や殺菌のために手を洗うという最終的な段階に至るまで、接触を避けようとする清潔感が働き続けます。

 日本人が、フランスの果物屋で見せた態度がこのことを物語っていると言えましょう。
 商人の指に触れたミカンを食べたくないという感情は、何よりもヨゴレやケガレを嫌う清潔感から来ており、特に科学的根拠があってそうなのではありません。
 とにかく、直感的にイヤなんです。

 ところが、そんなミカンをパクパク食べてしまうフランス人のほうは、病原菌を恐れるような状況ではないと信じきっているのでしょう。
 商人の汚い指に触れることも気にならないようです。それをキタナイと思うのは、清潔マニアぐらいのものですから。

 私は、日本とヨーロッパの精神構造を決定的に隔てているものは、清潔の意識だとさえ思っています。
 その清潔の意識が生み出したと言える考え方の違いを、私は、ヨーロッパの接触の思想と、日本の無接触の思想という形で類型化してみました。
 関心のある方はぜひ読んでください。(『清潔マニアの快的人生─永遠のキレイを求めて─』ビワコ・エディション版83頁〜、www.e-biwaco. com)

 とにかく、清潔というのは奥が深い問題だとは思いませんか。
 清潔好きとか清潔マニアということを考えだしただけで、日本人や欧米人の性格や考え方の問題にまで発展してくるのですから。

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清潔クラブ─清潔について語ろう
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