真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

       ☆       ☆       ☆

 あなたは、ハエ叩きを持って走り回ったことがありますか?

 確か「母を尋ねて三千里」という本がありましたね。生き別れの母を探すことに情熱を燃やす少年の話です。私の義兄は、「ハエを叩いて三千里」なんです。

 義兄には妙な癖がありました。ハエを見ただけでジンマ疹が出るほどの大のハエ嫌いでしたが、ハエ叩きを持って追いかけ始めると、もう止まることを知りません。家の中のハエを全部やっつけると、今度はハエ叩きを持ったまま家の外へ飛び出してきます。

 ふだんはかなり身なりを気にするほうなのに、この時ばかりはなりふりかまいません。ワイシャツにステテコといった格好もものかは、木の幹や石垣などをキョロキョロと眺め回し、自然の中で一服しているハエを見つけてはパチリとやります。

 世界中のハエを撲滅するんだと言わんばかりに、執念深くハエ叩きを手にして、庭や空き地や道路をうろつき回ります。時には、隣家の塀や壁まで叩きに行くのですから、その情熱たるや、たいへんなものです。

 これも一種の清潔願望と言ってもよいのではないでしょうか。たいていは食卓の上を飛ぶ一匹のハエを追いかけることから始まります。不潔な虫はやっつけねばならない。それは人類の敵なのだ、とでも言わんばかりの勢いです。

 敵か味方かという二つの価値観が義兄を動かしていることは、その対人関係を見てもよく分かります。彼にとって、人間は「良い人」か「悪い人」かのどちらかで、中間はありませんでした。
 それが、今や人間ではなくて、虫が敵になるか味方になるかということが、彼にとっては一大事だったのです。

 ハエは不潔さを運んでくる醜い存在であり、憎むべき敵、悪の権化でした。正義のためには、ハエ叩きの一撃を加えて懲らしめてやらなければなりません。

 そして、真に清潔な人間の世界を創り出すために、彼は家の中から外へ走り出て、敵を一匹残らず掃討しようとするのです。

 まさしく、ハエを追い回すことのうちに、彼は、美と醜の、善と悪の、真と偽の、そして愛と憎しみの理想を見ていたのにちがいありません。

 義兄がハエ叩きを持って走っている姿に、私はふと自分の姿をダブらせてしまいます。私にも似たような性向がないとは言えないからです。

 ハエ叩きと殺虫剤の違いはあるものの、私もスプレーを持ってハエやカを追い回し、庭まで出ていったことも一度や二度ではありません。

 そして、おそらく、あなたにも同じような経験があるのではないでしょうか?

 このような行動のうちに、人間の原初的な衝動に近いものを見ると言ったら、自分にはそんな傾向はないぞと言って怒る人が出てくるかも知れません。

 しかし、人間の文化も、その起原を辿ってみれば、このような一見異常とも思える情熱、このような清潔願望を出発点にしていることは間違いないように思えるのです。

 ここで、アダムとイブの例を出して話を進めることにしましょう。ただ、これはよく誤解されることなのですが、私は別にユダヤ教やキリスト教を信じているわけではありません。

 アダムとイブの話は完全な神話です。ただ、この神話は、古代の人々が人間をどのように理解していたかを知る上でたいへん役に立つのです。

 それを、むしろ無神論の立場で合理的に解釈していくと、古代人の人間理解や直感が、驚くほど明瞭に見えてきます。そこに隠れている真理を発見することができます。

 そして、ユダヤ教やキリスト教の聖書であるバイブルは、そのような文献の中でも超一級のものと言えましょう。そこに最初の人類として描かれているアダムとイブの話は、人間とは何かということを象徴的に教えてくれます。

 さて、神に創造されたアダムとイブが、最初に自分たちを意識した時、彼らはどんなことをしたのでしょうか。聖書の記述では、彼らはイチジクの葉で自分たちの秘部を隠したとされています。

 彼らの人間としての自覚は、自分たちの何かを隠し、何かを見られるがままにすることから始まりました。しかし、見られてはならないと彼らが感じたものは、いったい何だったのでしょうか。

 それは、おそらく彼らが、見られることを不快と感じた部分なのでしょう。人類の最初の意識が、このように不快感と快感から始まったとする理解はたいへん重要です。

 これは、「キタナイ」とか「キレイ」といった感覚に通じる意識であり、「不潔」と「清潔」という区別に通じる意識です。

 この世に姿を現したばかりの人間が、最初に意識したものが、キレイとキタナイの二分法であったということは、人間の思考の出発点が、清潔願望と不潔拒否にあったということを象徴しています。

 人間の行動は、不快なものを「隠す」ことと、快的なものを「見せる」ことから始まったと言わなければなりません。

 私がここで用いている「キレイ」「キタナイ」、「清潔」「不潔」、「快的」「不快」といった対語は、私たちが日常使っている語の意味よりも、もっと根源的な意味で理解してください。

 「汚れていない」「汚れている」といった表面的な意味ではなくて、むしろ「イイ感じ」「ワルイ感じ」と言ったらよいでしょうか。汚れていないものをイイ感じと意識し、汚れているものワルイ感じと意識する私たちのおおもとにある感覚、或る種の直感と考えてください。

 最初の人類は、自分の存在を意識したとたんに、ワルイ感じのものを隠し、イイ感じのものを見せるという行動を開始したというのが、バイブルの人間理解です。そして、私は、この意味での「清潔志向」が、人間の思考と行動の根本原理になっていると考えます。

 私の知るかぎり、これまでにこのような根本原理を考えた哲学はありませんでした。プラトンもアリストテレスもこのようなことは書いていませんし、デカルトもカントも書いていません。

 彼らの出発点は、善と悪であり、真と偽であり、美と醜でした。愛と憎もこれに加わります。デカルトは、善悪や真偽を区別する能力を「良識」とか「理性」と呼び、バイブルの「禁断の果実」と同じものと理解しました。

 人間は、禁断の果実を食べることによって、これらの判断能力を手に入れたというのが、バイブルの創造神話の意味だと考えたからです。西洋哲学の聖書解釈はみなこの域を出ませんでした。

 しかし、人間はなぜ禁断の果実を食べたのでしょう。それが「イイ感じ」だったからではないでしょうか。聖書の記述にしたがえば、「食べるのによさそうで、見る目を誘うので」、最初にイブが食べてしまったとあります。

 禁断の果実を食べる以前に、「イイ感じ」という直感がすでにあったのです。そして、この直感が、善悪や真偽、美醜や愛憎の価値を人間に教えたと言えましょう。善はなぜ善と言えるのか。なぜなら、善は「イイ感じ」で、キレイで、快的で、清潔だと感じられるからです。

 清潔を人間の思考や行動の根本原理とする哲学を、私は「清潔の哲学」と名付けましたが、これは、バイブルの新しい読み方によって生まれました。

 それは、私がいつも用いている「遅読術」によって可能となるものです。わらし仙人の言葉に倣って言えば、哲学は究極の「隙間情報」と言えます。その隙間情報を見つけるためには、速読術も役に立つ側面はありますが、何よりも、ゆっくり時間をかけて読むこと、すなわち遅読術が必要です。
(遅読術については、私のブックレット「速読術プラス遅読術で成功しよう」を読んでください。www.e-biwaco.com)

 この遅読術によって『古事記』や『日本書紀』を読んでみることをお勧めします。日本には、古代からの伝統として、常に「清潔の哲学」があったことを発見するでしょう。

 さて、もう少し、アダムとイブの行動の意味を見ておくことにしましょう。

 彼らが最初に示した「隠す」ことと「見せる」ことを求める願望は、人間の「造る」「壊す」という本能に先立って存在しているように思われます。

 あるいは、むしろ、そういう本能を作り出す原因なのかも知れません。隠したり見せたりする欲求は、文化を創造したり、破壊したりする行為を人間から引き出し、導いていく根源的な衝動と言ってもよいからです。

 私たちは、見せたいものをただ見せるだけでは収まらず、最終的には、自ら創造してでも見せようとします。また、隠したいものをただ隠すだけでは収まらず、最終的には、破壊してでも隠そうとします。

 さらに、見せる、隠すという行為は、それぞれ単独に成立するものではなく、或るものを見せる時には、他のものを隠さねばならず、或るものを隠す時には、他のものを見せなければなりません。

 例えば、両眼を手で隠せば、目の代わりに手を見せていることになります。また、鼻や口など他の部分を見せていることにもなります。

 こういう関係は、或るものを見せるために或るものを破壊したり、或るものを隠すために或るものを造り出したりすれば、ますます複雑になり、結局、創造は破壊を伴い、破壊は創造を伴うという矛盾した結果をもたらします。

 アダムとイブの子であるカインが弟のアベルを殺すという話は、聖書に描かれた人類最初の殺人事件として有名ですが、これは、神に愛されている弟を、神の目から遠ざけ「隠す」ためでした。

 神の目の前から邪魔者を抹殺し、自分の世界をキレイ・サッパリしたものに変えること。これが、カインの破壊と創造の願望でした。自分の住みやすい「イイ感じ」な環境を造り出すために、他者の生命を破壊したのです。

 この衝動は、実のところ、ハエ叩きを片手に、虫一匹を追いかける衝動となんら変わるところがありません。

 ここに人間の文化創造の原点があると言えば、人は驚くかも知れません。なぜ、弟殺しやハエ叩きの衝動が、文化を生み出す原点になるのか、と。

 その理由は、キレイ・キタナイの直感に頼って行動する人間は、その衝動を破壊に向けることもできれば、創造に向けることもできるという自由を持っているからです。

 この自由を、ユダヤ・キリスト教では「原罪」と呼びます。人間には、破壊したり、殺したり、罪を犯す自由があるからこそ、文化を創造し、悔い改め、罪を償う自由があるのだ、と考えます。
(原罪やアダムとイブ、カインとアベルについての新しい解釈は、西村浩太郎著『カインの印─殺しの哲学』ビワコ・エディション版18頁以下参照。www.e-biwaco.com)

 人は、文化というものを肯定的な側面からのみ考えようとしますが、創造の一方には破壊があるということを忘れてはならないでしょう。

 人間の文化は、イチジクの葉に象徴される清潔願望から始まり、衣服を作り出し、着飾ることへと発展してきましたが、この創造的な発展の陰には、これと同時に進行する自然破壊があったということを知らねばならないのです。

 イチジクの葉で前を隠すという行為にしても、一方でそれを可能にする破壊行為がなければ成立しないのです。つまり、イチジクの葉を使うためには、それを樹木からちぎり取るという破壊行為が必要です。

 衣服を作るためには、動物を殺してその皮を剥いだり、植物を大量に伐採しなければなりませんし、着飾るためには、岩石を削って貴金属のたぐいを探し求めなければなりません。それだけのためにも、どれだけ多くの人間が犠牲になったことでしょう。

 文化のあらゆる領域において、創造は同時に破壊をもたらさずにはいませんでした。良い住居を造り、良い都市を建設し、良い社会を作り、また学問の真を、道徳の善を、芸術の美を確立するためには、多くのものが犠牲にされましたし、これに反すると思われるものはすべて破壊されたのです。

 そして、このような創造と破壊の先頭に立つ欲求が、清潔への願望であることは注目に値します。キレイなものを実現し、キタナイものを消し去ろうとする衝動が、人間の文化を生み出し、歴史を作ってきたのです。

 自分のキレイな世界を創り出すために、世の中のハエやゴキブリを皆殺しにしようと走りまくる人間のうちにも、これだけの基礎と、これだけの可能性があるのですから、彼らの清潔志向をいちがいにバカにすることはできません。

 彼らのハエを叩いて走り回る行為は、やがては、自分を生み出した根源への回帰、母なる理想の大地を尋ねての「三千里」に変わっていくこともあるでしょう。

 人間の清潔志向とその目標は決して間違ってはいないのです。それがなければ、人間の文化も歴史もありません。人間は、その存在理由を失うとさえ言えます。

 ただ、ここで必要なのは、何が真に清潔で、何がそれを手に入れるための正しい手段になるかという認識でしょう。

 私たちにとっての毎日は、真の清潔を求める試行錯誤のようなものであって、日々発見する新しい事実にどのように対処し、どのように自分たちの生活様式を改善していくかということにかかっています。

 それは、ごく低いレベルでの問題意識のように見えるかも知れませんが、いつのまにか、意外に大きな文化の問題へと発展していることに、私たちは驚かされるのです。

-------------------------------------------------------------------
清潔クラブ─清潔について語ろう
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000216973.html
-------------------------------------------------------------------