真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと
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デパートやスーパーの食品売場を歩いていると、試食を勧められることがありますね。そういう時、あなたならどうするでしょう。
あなたは、何を出されても喜んで食べてしまうほうでしょうか。それとも、そんなものは一切お断りだとばかりに、試食を拒否するほうでしょうか。
清潔とか不潔といったことを考えないで、何でも口に入れてしまうのは一つの極端ですし、そうかといって、最初からすげなく何でも断って、さっさと通り過ぎてしまうのも一つの極端です。
爪楊枝に刺してくれたり、試食用の小さな器に入れて出してくれたら喜んで食べるほうだけど、手づかみで出されたものはゴメンだと言う人もいるでしょう。
若いキレイな女性が、まるでシラウオのような指の先にシラウオをつまんで出してくれたら話は別だよ、とあなたは言うかも知れませんね。
でも、キタナイおじさんが、いくら洗ってもキレイにならないような手で、ダシジャコをつかんで差し出したら、あなたはどうするでしょう。多分、逃げ出すんじゃないでしょうか。
こういう時は、あなたが味を試すんではなくて、むしろあなたの方が試されていると言ってもよいくらいです。
あなたは、不潔とか清潔とかがまったく気にならない、何でもサッと口に入れてしまうような天真爛漫な自然児なんでしょうか。
それとも、汚れているかも知れないと思うだけでもゾッとして、自分の口に入れるどころか手に触れるのさえイヤだという潔癖症なんでしょうか。
おそらく、たいていの日本人はそのどちらでもないでしょう。極端と極端の中間にあって、キレーっぽいものなら良いけれど、どう見てもキタナイものはイヤだという、いわば部分的なキレイ好きなんだと思います。
つまり、完全な潔癖症ではないけれど、条件付きのキレイ好きというのが、平均的な日本人ではないでしょうか。
私は、長い間パリで生活したことがありますが、驚いたことにパリジャンやパリジェンヌの中には、何でもパクパク食べてしまう自然児が多いということに気がつきました。
パリの市場へ行くと、ブドウやイチゴ、ミカンやオレンジの試食をよく勧められます。
男の店員が、ゴツゴツした無骨な手でミカンの皮をむいたりして、いくつかの房に分け、お客に食べてみるようにと差し出してきます。
お客は、手づかみで渡されたものを、これまた無造作に手づかみにして、口の中に放り込みます。
ネクタイをきっちり結んだ紳士やドレッシーなご婦人が、ボン(うまい)!などと言って、嬉しそうに味わっている姿を見ると、やはり日本人とは違うな、とつくづく思うのです。
こういう人たちから見ると、日本人の大半は「過剰に」キレイ好きだということになるでしょう。つまり、日本人の大半は、彼らに言わせれば、単に清潔好きというレベルを越えて、「清潔マニア」の集まりだということになります。
私も、ミカンやブドウの試食をよく勧められたものですが、商人たちの指を見ますと、どうしても単純にイタダキマスと言う気分にはなれませんでした。
その指でお札や小銭を数えたり、果物や野菜を運んだり、掃除をしたり、ヘタや枝葉をもいだりしているんですから、お世辞にだってキレイとは言えません。それに、手を洗った形跡などどこにもないんですから。
相手の善意はよく分かるんですが、こういう時は、いろんな仕草をしたり、いろんな言葉を使って断るしかありません。
どんな仕草をして、どんな言葉を使えばよいかということは、また別の機会にお話しすることにしましょう。態度や言葉の「清潔」ということも大問題だからです。
でも、フランスの良いところは、店員たちが実にアッケラカンとしていて、断ってもまったく気にしないことです。世の中には、試食の嫌いなお客もいるんだろう、ぐらいにしか思わないようです。
パリの果物屋さんには、マグレブと言われる人々、つまりチュニジアやアルジェリアやモロッコの人が圧倒的に多いので、差別していると思われたくはないんですが、本人たちは、そんなことまったく気にしてはいません。食べるのも食べないのもお客の自由だぐらいに思っているのでしょう。
ところが、日本人の店員にはけっこう気にする人が多くて困るのです。断るとエッという顔をする人がいて、「わたしがイヤなの?」といったこわばった表情を見せたりします。特に年輩の女性がそうです。
でも、あなたもそうだと思いますが、試食を断る時は、相手がイヤだというわけではなくて、自分自身の指が汚れているからイヤだということもあります。
いまトイレへ行ったばかりだが、実は手を洗ってこなかったとか、汚れた手提げ袋をぶら下げているから、こんな手では持てないとか、理由はいろいろあります。
こういう時には、自分の親指と人差し指でちょいとつまんで食べるだけだといっても、かなり抵抗感がありますよね。それで、首を振ってイラナイという合図をして通り過ぎてしまいます。
断られた女店員は、くやしそうな顔をしてこちらを睨みつけています。
こういう時、日本人の大半が清潔好きで、多少なりともキレイ・キタナイにこだわっていることがよく分かりますね。
試食を勧める方もすぐにピンと来て、このお客はキタナがっているんだと見抜いてしまいます。フランスでは、店員もお客もそんなこと考えもしない人が多いんです。
ところが、日本人の店員は、お客がイヤがっているのは不潔さなんだとすぐに思い込んでしまいます。
いま食事をしてきたばかりだとか、ダイエット中だとか、他の理由もあるはずなんですが、そんなことは考えてもくれません。この人はキタナがっているんだ、と真っ先に感じてしまいます。
何をキタナがっているんでしょう。出された食べ物ということもあるし、お客が自分自身の手や指を気にしているということもあります。
ところが、そんなものは全て飛び越えて、一直線に、短絡的に、イヤがられているのは自分だと思い込んでしまう人が多いのです。
この人はわたしを不潔だと思っているんだ、わたしをキタナイと思っているから、わたしが差し出した試食品もキタナくて食べる気にならないんだ。結局、この人が嫌っているのはわたしなんだ、と。
すこし考えすぎじゃないかな、とあなたは言うかも知れません。でも、あるんですよ、日本人には、そういう性癖が。
自分がキタナイと思われないかということが、いつも心のどこかに引っかかっています。生活が、清潔か不潔かのカテゴリーにいつも分かれているんですね。それが、清潔好きだって言われる原因でもあるんですけど。
だから、他人にちょっとした行動を取られただけでも、妙な被害意識をもってしまうことがあります。自分が不潔あつかいされているんではないかと。
ちょっと実験してみるといいでしょう。食品売場で試食を勧められたら、おもむろにポケットからティッシュペーパーかハンカチを取り出して、それで食べ物をつかむんです。
あなたはいっぺんに変人あつかいされてしまいます。「過剰な」キレイ好き、つまり「清潔マニア」だというレッテルを貼られることは確かです。
あなたが自分の汚れた指をじかに使うのがイヤでそんなことをしたのだとは、普通考えてはくれません。
店員は、一直線に、短絡的に、自分が不潔あつかいされたような被害意識をもってしまうのが常なのです。「フン、自分だけが清潔だと思って、お高く止まっている」と、これが大方の反応です。
この実験でも足りなかったら、知人の家にお客として招かれた時にやってみるとよく分かります。
あんまり清潔好きだということを見せると、たいていの人は、自分たちがキタナイと思われている、自分たちの家で用意した料理が不潔だと思われている、などと感じてしまいます。
だから、日本人には独特の社交術があります。みんな自分が清潔好きだということを表に出さないで、隠そうとする傾向があるんです。
そんなコマゴマしたことに神経を使っているなどとは思われたくない。自分はそんなに神経質ではない、いつも大らかで、小さなことなんか気にしていないんだ、と思わせようとします。
しかし、本音はどこにあるんでしょう。付き合えない人間だと周りから思われたくないという気持ちがあることは確かです。
みんながいくら不潔なことをしたって平気だよ、何とも思わないよ、という社交性を示さないかぎり、仲間に入れてもらえないようなところが日本の社会にはあります。
それが日本人独特の思いやりや優しさを作り出していることも確かですが、とにかく、相手が触れられたくないと思っている清潔意識にまでは入っていこうとしないんです。
相手がつまんで出したものは自分もつまんで受けねばならないとどこかで思っています。だから、こんな時にティッシュやハンカチを出して受け取ると、相手を傷つけると思い、たいていは突出した行動は取らないように気を使っています。
簡単に言えば、多くの日本人は、自分が特に清潔好きだと思われることを嫌がります。自分独りになると、けっこうコマゴマしたことに神経を使っているくせに、人前では清潔好きだということをなるべく見せまいとします。
「あれは清潔マニアだ」と陰口を言われたり、異常あつかいされるのを避けたいんです。でも、そのために、突出した行動を取らないで自分の本音を隠しているのだとしたら、ちょっと偽善っぽい生き方と言えるのではないでしょうか。
もっと自分に正直に、キレイなものはキレイ、キタナイものはキタナイという態度を見せて生きてもいいと思うのです。
清潔マニアと呼ばれても、それは決して異常でも恥ずかしいことでもなくて、むしろ人間にとっては健全な、本質的なことなのではないでしょうか。
フロイトは、『文化のなかの不安』という本の中で、清潔が文化のバロメータであることを述べ、石鹸の使用をそのまま文化のバロメータとしてもおかしくないとまで言っています。
確かに、人類が誕生し、文化を作り始めた出発点には、常に清潔願望があったと言っても過言ではありません。
キレイを求め、キタナイを斥ける欲求は、人間本来のものであり、これがなければ人間は何も作り出せませんでした。
キレイな自己、キレイな人間関係、キレイな社会、キレイな国家、キレイな世界、そしてキレイな宇宙を手に入れるために、人間は懸命に生きてきました。
人間は、生まれながらに清潔マニアだったと言えます。良い意味でも、悪い意味でも。
だから、人間というものを考えるためには、人間の清潔願望というものをうんと掘り下げて、それがどんなものかということを人間の内面で見ると同時に、人間の外面でも知る必要があります。
その探究の方法は、なんの難しさもありません。誰でもできる簡単な問いから出発すれば良いのです。何がキレイで何がキタナイかということを考え始めるだけで充分です。
例えば、食品売場での試食の問題を考えるだけでも、あなたは、日本人と西洋人の清潔感や社会意識が見えてきたでしょうし、これはもっと大きな問題にも発展していく可能性があります。
清潔の問題は、小事を大事に結びつけるところがあります。小さな問題でキレイかキタナイかと考えているうちに、思っても見なかった重要な問題にまで発展していきます。
清潔は、人間の謎を解くキーワードだとさえ言えます。
デパートやスーパーの食料品売場で試食を勧められた時に、あなたならどうするかということを、もう一度考えてみてください。
あなたが、何でも口に入れてしまう極端と、何でも断ってしまう極端の中間にいて、清潔と思われるものは食べるが、不潔と思われるものは食べないというタイプなら、そのことの意味をもう少し考えてみると良いでしょう。
あなたはもう立派な清潔の「哲学者」です。
ビワコ・エディションのサイト(www.e-biwaco. com)で手に入る無料ブックレット「差別のない世界へ(5)味見するのは楽しいけれど」が、この問題について参考になりますから、ぜひ読んでください。
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清潔クラブ─清潔について語ろう
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