真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

       ☆       ☆       ☆

 最近、若い女性の間で「フリーハグ(freehug)」というのが流行っているそうです。日本語で言えば「自由抱擁」とでもいうのでしょうか。通りすがりの見知らぬ人と抱き合って、人間どうしの温もりを伝え合おうということで、街路でプラカードを持って実際に相手を募っている女性たちをテレビが映していました。

 抱き合って挨拶する習慣のない日本人が、いきなりこんなスキンシップをして、自然な態度でいられるのだろうかと思って見ていたのですが、なぜか彼女たちの相手は若い男性が多く、しかもその男性たちには、妙にはしゃいだり興奮している様子が見えました。

 やはり日本人にとっては、抱擁というのがまだまだ非日常的な行為であり、異性であることを意識させずにはおかないのではないかと思ったしだいです。

 彼女たちにちょっと意地悪く、「あなたは誰とでも、たとえば相手がお乞食さんでもフリーハグできますか?」と聞いてみたい気持ちになりました。

 というのも、フランスでは、エスデーフと呼ばれる浮浪者やお乞食さんとビズーしている男女を何度か見かけたからです。

 「ビズー」というのは、キッスを意味する幼児語ですが、最近のフランスでは、軽く抱擁し合い、互いの頬にキッスし合う挨拶の仕方という意味で、一般に使われています。

 キッスと言っても、頬と頬を接触させ、チュッと擬音を出すのが普通ですから、フリーハグとあまり変わりません。親しい者どうしなら男女の区別なくビズーしますから、それこそ互いの温もりを伝え合うだけのいたって人間的な挨拶の仕方と言えます。

 それでも、汚れた身なりで、体を洗ったこともないような路上生活者とビズーするには、かなりの勇気が必要でしょう。

 私は、普通の身なりをした人が、そういった路上生活者とビズーしているのを二、三度見たことがあるのですが、その中でも特に感動的だったのは、深夜のパリの街で、ホームレスの救援活動にあたっている女性が、これ以上はないほど汚れた一人の男とビズーし合っている光景を目にした時でした。

 その時の複雑な気持ちは、拙著『清潔マニアの快的人生─永遠のキレイを求めて』(ビワコ・エディション版87頁、www.e-biwaco.com)に書きましたが、ビズーの習慣が人間関係のギリギリの面ではどうなるのか、色々と考えさせられたものです。

 フリーハグの運動が、人間関係の回復を目指すならば、やはりそこまで行くくらいの気構えが必要でしょう。どんなに不潔な人間とでも抱き合えるだけの意志がなければ、単なる理想で終わってしまいます。

 フリーハグが、見知らぬ相手との抱擁を視野に入れているのに対して、ビズーのほうは人を選びます。親しい相手でなければ、普通はビズーをしません。さほど親しくないか、あるいは男どうしの場合は、握手で済ませることもあります。

 フランス人の中には、いくら親しくなっても、日本人はビズーを好まない民族だと思うのか、そういう態度はまったく取らない人もいます。

 確かに、日本人にとっては、それを好むと好まないとにかかわらず、非日常的な行為であることには間違いありません。私自身、ビズーの習慣に慣れるのにはかなりの日時を必要としました。男どうしのビズーにはいまだに違和感があります。

 日本人の男なら、みんな似たり寄ったりでしょう。フランスに長く住んでいる人でも、ビズーをする時には、何となくぎこちない感じが目につきます。

 それに比べますと、女性のほうが適応能力があるのでしょうか。ごく自然な感じで、慣れきった様子で、フランス人男性とビズーしている姿をよく見かけます。

 しかし、彼女たちにとっても、それがやはり非日常的なよそゆきの行為であることには間違いありません。その証拠に、彼女たちが日本人男性とビズーするところは滅多に見ないからです。

 日本人にとって、ビズーはしょせん外国人向けか、あるいはお祭り騒ぎの非日常的な雰囲気の中でしか行われない、異質な生活習慣と言えるのではないでしょうか。

 いつでもどこでも、ごく自然に抱擁し合い、キッスし合って日常の挨拶を交わしているフランス人を見ますと、彼らと日本人とを決定的に隔てている、簡単には模倣することのできない精神構造がそこにはあるような気がします。

 ビズーは、普通、対人関係による差別を伴います。誰とするか、どの程度の親しみを込めてやるかといったことを、とっさに選んでいると言えます。

 そのような差別なしに、傍にいる者なら誰彼かまわずビズーできる瞬間があります。元旦を迎えた午前零時がその時で、この時ばかりは知らない同士でも、無差別の挨拶を互いに交わすことになります。

 いつか私と妻が夜道を歩いていますと、通りすがりの男がいきなり妻にビズーをしましたので、妻はもちろん、横にいた私も度肝を抜かれたことがありました。

 ちょうど新年を迎えた瞬間で、男は近所のカフェのマスターでした。彼が笑顔で「新年おめでとう」と言わなければ、私たちの驚きは止まらなかったでしょう。

 ただし、これは非日常的な場面でのビズーです。その意味では、フリーハグも非日常的な行為と言えます。ホームレスと抱き合う救助隊員の行為もそれに近いと言えましょう。

 日常生活でのビズーの習慣なしに、一気にこのような非日常性の次元にまで飛んでしまうことには、いささか無理があるのではないでしょうか。人間どうしの生きた触れ合いを回復するためには、まずは日常生活での身体的接触を可能にする段階が必要なのではないか、と私は思うのです。

 親子や、兄弟姉妹や、親しい知人の間で、気軽に抱擁し合い、キッスし合う習慣もないのに、一足飛びに見ず知らずの他人との身体的触れ合いに飛び込むというのは、決して自然なことではありません。

 まずは身近にいる人間との温もりがあってこそ、それと同じ世界を無差別に一気に作ろうとする、お祭りや祝福の特別な瞬間が訪れるのだと思います。

 その極限にあるのが、浮浪者やお乞食さんとのビズーでしょう。清潔や不潔といった観念を乗り越えて、彼らと家族や友人と同じように温もりを分かち合えるかどうかということが問題です。無差別な人間愛があるかどうか試される時だと言えましょう。

 まあ、今は、そこまで厳しいことは考えなくてもよいと思うのですが、私のフランスでの経験から言いますと、日常生活におけるビズーの習慣にはなかなか捨て難いものがあります。

 最初は、私のほうからすることはまったく無く、いつも相手からの誘導だったのですが、次の回には私のほうからも自然に体が動くようになり、だんだんと慣れていきました。

 相手は、圧倒的多数が女性で、男性とやったのは二、三度しかありません。例外は、コンシエルジュの末の男の子で、この子は、私が手を握ろうとしても、下の方から頬を突き出してくるので、どうしてもビズーということになります。

 私がいちばん沢山ビズーをした相手は誰だったか考えてみたのですが、それは、近くのスペイン・レストランでよく出会うビッキーというロシア系の女性でした。

 そのレストランは、私の家の近くのムフタール街にあったのですが、ビッキーはその店の常連で、ほとんど毎晩のように、そこで演奏されるスペイン語の歌を聴きに来ていました。

 年齢は五十の前半ぐらいだったでしょうか、近くのラジオ局に勤めていて、仕事が終わると、夫のマルクと一緒にこの店へ来るのです。

 私もこの店へはよく行っていたので、いつのまにか彼女と顔馴染みとなり、話し合うようになり、会えばかならずビズーし合う仲になっていました。夫のマルクとはもっぱら握手です。

 私が一時日本に帰国して戻ってきた時、花の絵で飾られた小箱を買ってきて、彼女にプレゼントしたのですが、彼女はこれには大変な喜びようで、さっそく私と妻を自分のアパートへ招待してくれたのです。

 小さな部屋でしたが、彼女に贈った小箱とマルクに贈った浮き世絵入りのカレンダーとが飾ってありました。アルバムやビデオを見せてもらって知ったことは、二人がかつてはパンテオンの近くで大きなロシア・レストランをやっていて、マルクはそこでは歌手の一人としてロシア歌曲を歌っていたということです。

 この店が倒産した後は、マルクが脚を痛めて歩行困難になったこともあって、妻のビッキーがラジオ局に勤めて生計を支えていたのです。勤めから帰ると、彼女は、脚の不自由な夫を助けて、近所のスペイン・レストランへ来るのが習慣になっていました。

 彼らが、この店に入りびたり、そこで演奏されるラテンアメリカやスペインの歌曲に慰めを見いだしていた理由が判ります。二人はそこで、かつては自分たちの店で演じていたロシア舞踊や歌曲へのノスタルジーを満たしていたのです。

 この二人を今度は私たちのアパートに招待しようと、妻と私は考えていました。ところが、私たちは再び日本に帰国しなければならないことになりました。そして、十か月後、パリに戻ったのです。

 久し振りにムフタール街のスペイン・レストランへ行き、ビッキーたちを待っていたのですが、いつもの時間になっても現れません。彼女が元気かどうかと何とはなしに店のマダムに聞いたのですが、返ってきた答はまさに晴天のへきれきでした。

 「エレ・モルト(彼女は死んだ)」という短く単調な答を聞いて、私は唖然としたのです。一瞬、この言葉の重い意味を見失っていました。マダムがふざけているのではないかと思ったのです。

 たった十か月の間に起こるはずのないこと、また起こってはならないことが起こってしまったのです。再会するのが当たり前のように思っていたビッキーがもうこの世にはいない。もう二度とこの店に現れることがない。もう二度とビズーし合うこともない。

 十か月というのは短いようでいて、何が起こるか分からないという、人生の無常を秘めた時でもあることを実感しました。

 ビッキーの死因は肺ガンでした。マダムの話によれば、もうかなり前からその症状が現れていたということでしたが、私はうかつにもまったく気がつかないでいたのです。ビッキーもそんなことは素振りにも出しませんでした。

 ビッキーとは永遠に会えなくなったのですが、マルクとももう二度と会う機会はないでしょう。彼は息子のアパートに引き取られたそうですが、ムフタール街のこの店まで来ることはおそらく無理だと思います。歩行困難な彼は、ビッキーの助けで、やっとのことで、近所のこの店へ来ていたのですから。息子のアパートがどこにあるのかは誰も知りませんでした。

 こういう別れを私はすでに何度となく経験しています。その多くは日本で経験したことですが、フランスで知り合った人たちの中にも、もう二度と会うことはないだろうと思われる人が大勢います。

 そういう人たちを思い出そうとする時、目で見ただけの記憶がいかに曖昧で頼りないものかということを実感します。どんどん記憶が薄れていき、今では顔も思い出せないという人が増えるいっぽうです。

 写真やフイルムなどの映像があれば、少しはつなぎ止めることもできるのですが、目に映ったものはしょせん消え去っていく運命にあります。画像が残っていても、思い出すのはその画像を見た時だけで、相手の存在感はどんどん失われていきます。

 ところが、ビッキーを失って、私が新たに発見したことがありました。触覚を通して得られた身体的なイメージは、視覚によるイメージよりもはるかに強烈に生き残るということです。

 ビッキーと何度も交わしたビズーの感触は、今も私の内に強く残っていて、それを思い出すという以前に、いつでも彼女がそこにいるようなビビッドな存在感を与え続けています。

 それも、単に触覚を通して得られたイメージだからというだけではなくて、あの軽く抱き合い、頬を寄せ合うという形の中に秘められた何かが、その触れ合いの記憶をいつまでも生き生きとしたものに保っているように思われます。

 マルクとも何度となく握手を交わしましたが、握手とビズーでは、相手の存在感を残すという点では格段の差があるように思います。

 今は亡き父や母とも身体的な接触はありましたが、それだけでは得られない死者との観念的な接点が、ビズーの思い出の中には残されているような気がします。

 それは、西欧やその他の世界にはあっても、日本人の世界にはいまだ無いものと言えるのではないでしょうか。

 ビッキーの死を知った夜、私は帰り道にあるカフェでもう一人のマルクに会いました。このマルクは、隣のアパートの一階に独り住んでいて、いつも窓から外を眺めているのです。十か月前に会った時は、川端康成の小説をフランス語で読んでいると言っていました。

 「やあマルク」と言って、私がカフェに入っていきますと、彼は、「私はレオンだ。マルクは私の従兄弟の名前だ」と叫びました。十か月の間に、彼は気が狂っていたのです。

 何とも大変な夜でした。私は隣のアパートまで、この可哀想なマルクを送って行きました。彼と会った時は、いつも握手するのが習慣になっていたのですが、この夜にかぎって最後に別れる時、彼は大きな声で私の名を呼びながら、抱きついてビズーをしたのです。不思議と私の名は覚えていました。

-------------------------------------------------------------------
清潔クラブ─清潔について語ろう
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000216973.html
-------------------------------------------------------------------