真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

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 子供の頃、近所の遊び仲間と誘い合って、縁日の露店を見て回ったことが何度かあった。ずらりと並んだ屋台で、「寅さん」のようなテキ屋のオジサンたちが、菓子や古本や小間物類を売っていたのを思い出す。

 その中には、飴を売っている店がいくつかあったが、今でも人気があって、テレビの画面にもよく出てくる綿アメ屋は、その頃も、縁日の花形だったように思う。

 赤銅色のタライのような機械に黒砂糖を入れ、吹き出してくる綿のようなかたまりを棒に巻き付ける。この綿アメは、どこの国の発祥なのだろう。最近は、外国の遊園地や競技場でもよく見かけるのである。

 もう一つ、これはアメ菓子屋と呼んだらよいのだろうか。包装されたアメやビスケット類を屋台の上にいっぱいに盛り上げて、歌入りで売っている店があった。
 
 二、三度行っただけだが、歌の節回しから詞まで鮮明に覚えている。
 「最後にマケますのは、
  信州名産、絞りの手拭い、ほっかぶり
  絞り上げたるブドウ入り
  マケとけ、スケとけ、オマケがどっさり……」
 と歌い、「さあ、買った、買った」と囃し立てるのだ。

 さらにもう一つ、アメ細工屋というのがあった。これは、いま言ったアメ菓子屋とは正反対で、しゃべらず歌わず、ただ黙々とアメを捏ねている、いわば芸術家肌のオジサンなのだ。

 細い竹筒の先にアメのかたまりを付け、それを手で引っ張ったり丸めたりして、色々な形に練り上げるのだ。最後に、竹筒のもう一方の端をくわえて、フーフーと息を吹き込むと、動物や鳥や流行のマンガキャラクターなどの形になって、アメが膨れあがる。それに絵の具で、目や鼻や口を入れて完成だ。

 子供も大人も、アメ細工屋の周りに黒山になって眺めているのだが、そのわりには、肝心のアメ細工のほうはあまり売れないようだった。一つ造るのにけっこう時間がかかるので、もともと大量に売ろうという気持ちは無かったのであろう。

 私の仲間たちも、このアメ細工を見ているのは好きだったが、誰ひとり買った者はいなかったように思う。
 「あんなキタナイもの食えるか」と誰かが言ったのを覚えている。

 当時のテキ屋のオジサンたちは、「寅さん」のように小綺麗な身なりもしていなければ、栄養も良さそうではなかった。そんなオジサンの、見るからに汚い指がアメのかたまりをこね回している。屋台だから、手を洗う機会などほとんど無いだろう。子供たちの目にも、その不潔さははっきり読み取れたのである。

 私自身、清潔・不潔などということを気にしだしたのは、大学を卒業してからのことだった。それまでは、そんなことにはとんと無頓着な世界にいたのだが、さすがに、このアメ細工だけはキタナイと感じたものだ。

 それも、私が嫌だと思ったのは、手でアメを捏ねること以上に、竹筒をくわえて息を吹き込むことであって、オジサンのツバが付き、息で膨らんだアメ細工など、とうてい「食べ物」などとは思えなかったのだ。

 そして、今、私の見たところ、このようなアメ細工屋は商売としては立ちゆかず、町から姿を消してしまった。綿アメ屋は今でも人気があるし、包んだアメや菓子を盛りつけた売店も残っている。しかし、アメ細工屋が自然に消滅したということは、やはりその清潔感に問題があったからなのであろう。

 お客は見ていないようで見ている。特に食べ物商売に少しでも不潔なところがあれば、お客は決して見落とさないであろう。そして、自然に支出を控えるようになってしまう。不潔な商売は、自然に淘汰されてしまうのである。

 「商売は、清潔で勝って不潔で負ける」というブログを前回書いたが、その一つの例と言えるのではないだろうか。

 そう言えば、パリに住んでいた時、近所のモロッコ人の経営する食料品店へよく行ったのだが、この店では、ヘビやサソリの形をしたアメ細工を売っていた。

 これは、すでに出来上がったもので、製造現場を見せる縁日のアメ細工とは異なるが、「食べ物」かオモチャか分からないところは同じで、みんなが指でじかに触れるため、あまり清潔な感じはしなかった。

 若者が仲間とふざけ合うために買うぐらいで、ほとんどは棚に積まれたままだった。店主は、結局、買い物客へのオマケとして配ってしまった。

 私もこのアメ細工をたくさん貰ったのだが、それをどうしても「食べ物」と感じることはできなかった。それでも、すぐに捨ててしまうのは悪いので、しばらく置物として棚に飾っておいたのである。

 アメ細工屋の商売としての誤りは、「食べ物」とただの「物」とを混同したことにある。アメは何といっても口に入れるものである。それが工作の材料にされ、テキ屋のオジサンの息が吹き込まれた。
 アメ細工の中には、町の芸術家の精神が吹き込まれ、縁日の風物詩になっていたことは確かであるが、「食べ物」としては失格であった。

 これは、最近問題を起こしている食品会社にも典型的に見られる誤りだと言ってよい。不二家、ミートホープ、赤福などが犯した誤りは、自分たちの扱っている商品が「食べ物」であることを忘れ、単なる「物品」としての「食品」と見てしまったことにある。「食品」が「食べ物」であることを思い出すべきだったのである。

 アメ細工屋は、アメが単なる工作の材料ではなく、人々が口にする「食べ物」であることを考慮すれば、汚い指で捏ねたり、竹筒に口を付けたり、アメを息で膨らませたりはしなかったであろう。

 このアメは、あくまで「食品」には違いないが、もはや我々にとっての「食べ物」ではなくなってしまった。(「食品」と「食べ物」の違いについては、以前に書いたブログ「不二家よ、お前もか!」で詳しく述べた)

 商品としての「食品」と、消費者にとっての「食べ物」とが分離している状況を見るにつけ、私が思い出すのは、数年前に「朝日新聞」で読んだ小さい記事である。

 それは、中国で日本人の業者が、大量のネズミの肉を仕入れているという話だった。それを読んだ時は、ネズミの肉は人間の「食べ物」ではないから、おそらくペットの餌か肥料ぐらいにするのだろうと思い、あまり気にはかけなかった。

 しかし、最近の事件を見ると、ネズミの肉を「食品」扱いすることは可能だと言えるのである。人間にとって「食べ物」ではないものを「食品」扱いすることによって「食べ物」にしてしまう。そういう隠れた操作が可能なのだ。

 アメ細工のように、人々の見ている前ですべてを行えば、人々はそれを買って食べようなどとは思わない。しかし、隠してやれば、それは充分「食品」として成立するであろう。

 ネズミの肉を大量に仕入れている業者がいるかぎり、組織的にネズミを捕獲し販売するルートがすでに出来上がっているはずである。私は、その肉が「食品」化され、人間の「食べ物」にされてはいないかと、心から怖れている。

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清潔クラブ─清潔について語ろう
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