真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

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 確か、昨年の8月12日、ロサンジェルスから放映された桂三枝の「新婚さんいらっしゃい」だったと思う。「夫は、私の前ではオナラをしない。この人は本当に思いやりがある」と語った妻がいた。

 妻の前でオナラをしないことが、「思いやり」に結びつくなどとは今まで思ってもみなかったが、所変われば品変わるということで、日本人もアメリカで暮らしているとそんな考え方になるのかなというのが、その時の感想だった。

 だが待てよ、と私は思ったのである。子供の頃、伯父から聞かされた話があった。伯父は、太平洋戦争が始まった頃、日本の郵船会社で船乗りをしていた。戦前のシアトルなどへもよく行っていて、私の周辺でアメリカのことを知っている唯一の人物だった。

 その伯父の話によると、アメリカでは女たちが平気でオナラをする。街なかを歩いていてもプップッとやりながら、ゴメンナサイとも言わない。男も女もそんなことには無関心なんだ、と。

 私は、伯父に貰ったシアトルの街の写真を、長い間オナラの写真だと思っていた。そこには、街なかを歩く、大きなお尻をした女たちの後ろ姿が写っていて、私はなぜか伯父の話と重ね合わせてそれを見ていた。

 オナラをするのは、人間の自然的な行為であり、恥ずべきことでも何でもない。それは、人間の自由なのだというのが、伯父の言いたかったことなのであろうか。

 伯父には、お腹の色々な所を押すと、それぞれ違った音のオナラを出す特技があって、幼かった私をよく笑わせてくれたものだ。

 軍国少年を育て上げる当時の社会の雰囲気のなかで、伯父の存在は一風変わったものだった。そう言えば、「今の時代、屁をするぐらいの自由がないと」と伯父が言っていたことも思い出す。

 そういう幼年期の思い出とは別に、今度「新婚さんいらっしゃい」を見て知ったことは、アメリカで生活していても、オナラはハタ迷惑だという意識はあるらしいということだった。

 自由だがハタ迷惑だ。人前でそれを隠すのは「思いやり」や「優しさ」に結びつく。アメリカ的な感じ方のうちにも、ゴメンナサイという意識は残っているに違いないということだ。

 実のところ、こういう人々の意識や感情を知るのは非常に難しい。私は、フランスで七年半ほど暮らしたが、誰かがオナラをするのは一度も聞いたことがないし、そのことを話題にしたこともなかった。

 人々の私的な生活にまで立ち入ることができなかったせいかも知れないし、それが語学力の限界だったのかも知れないが、こういった微妙な身体現象を人々がどう感じているのか、どう受け取っているのか知ることができないままに帰国した。

 ところが、日本に帰ってみて、こちらでは人々の意識が新しい方向に進んでいることに気が付いたのである。

 主としてテレビ番組の中でだが、視聴者の立場にあって普通は受け身の人たちが、非常によく喋るようになったことである。しかも、いわゆる下ネタに関することでさえ、臆することもなくペラペラと口にするのだ。

 性的な行為や欲求を露骨に表現するばかりでなく、それとともに、ウンコとかオナラとか、普段は隠しておきたいようなことまで、何の恥じらいもなく平気で口にする人が増えたのだ。

 そういうことを自由に話題にすることに、現代的なユーモアを感じている人も多いようで、この傾向は番組の制作者の側にもあるのだが、あまりテレビに出る機会のない人たちの方に、むしろ大胆な、思い切った発言が見られるのだ。

 その代表的な番組の一つに「新婚さんいらっしゃい」があると言えよう。そう言えば、最近のアメリカ映画やテレビドラマを見ても、人間の身体現象、例えば口臭や体臭、オナラやオクビなどについてのセリフがいやに目立つのである。「名探偵モンク」や「アグリー・ベティ」にその過剰な意識を見ることができよう。

 こういうことがユーモアと感じられているうちは良いのだが、社会全体があまり神経質になりすぎると、ユーモア転じて病的な現象にもなりかねないから注意が必要である。

 そんな折りも折り、毎日テレビの「ドリームプレス社」という番組を見ていたら、プロレスラーの夫妻が自分たちの新婚生活について語り、話がやはりオナラにまで発展するのに出会った。

 夫は、新婚の妻の前でも平気でゲップをしたり、オナラをする。──私自身は何とも思わないのだが、人前でやった時が心配だ──と妻は言う。ちょっとは失礼を詫びるぐらいの習慣を付けておいてほしい、というのが彼女の注文だった。

 私は、この言葉にやや複雑なものを感じた。この夫妻にそんなことがあるとは思わないが、以前、離婚の理由の一つに、夫のオナラを挙げた女性がいたからだ。

 ──結婚生活はいつまでもロマンチックな気分でいたいの。人の前で平気でオナラをする夫にはウンザリよ──と彼女は言った。坊主憎けりゃオナラまでということかも知れないが。

 完全な箱入り娘だった彼女は、男の自然体を知らなかったということもある。しかし、人前でオナラをすることを不潔と感じる度合いは、女のほうが強いのではないだろうか。

 夫の前ではできるだけ隠そうとする女性が多いように思うのである。私の義弟などは、妻が先天的に放屁しない体質だと思い込み、俺のワイフは絶対にオナラをしないんだと威張りまくっていた。

 それが、結婚生活もだいぶ経って、彼女が常人並みに、いやそれ以上に派手にやるようになった時は、大変なショックだったようだ。落ちた偶像とはまさにこのことを言うのだろう。

 私は、人間が身体現象もしくは自然現象のどこまでを見せると不潔なのか、どこまでを隠せば清潔なのか、もっとよく考えてみる必要があると思う。不潔と清潔の境界線は、いったいどこにあるのだろう。

 こういうことを自由に話題にできるようになった今の時代がチャンスだとも言える。ネット上の対話でも、かなり赤裸々なことを話題にすることができるし、そこでは同時に、言葉そのものの吟味や反省も可能であろう。

 どこまでがユーモアで、どこから神経症的ないやらしさに転化するかということは、言葉の清潔を考える上でも重要である。

 私は、「自己制御」ということを一つのキーワードと考えたいのだが、言葉の清潔とどう関係するかということについては、改めて別の機会に述べることにしよう。

 ここでは、一つだけ身体現象としての例を挙げておくことにする。私の伯父が、腹の色んな部分を押しては違った音のオナラをして、子供だった私を笑わせたことは先ほども話した。その姿はただユーモラスなだけで、決して不潔を感じさせるものではなかった。

 その理由はおそらく、伯父の自由意志が身体をコントロールしていたからだと思う。伯父は出したい時に出し、止めたい時に止めることができたのだ。ところが、そういう自己制御が利かなくなった時、身体現象は別の面を見せ始める。

 中年を過ぎると、抑えようとしても抑えられなくなるという現象が現れ始める。さらに年を取って身体状況が悪化すると、放屁によって便を洩らすことさえ起こり得る。こうなると、もはや笑い事ではないであろう。

 私は、以前、列車の中で右往左往している中年過ぎの男を見た。彼は、屁を放ちながら後部車両のほうへ走っていった。しかし、後部車両にトイレは見つからなかったのであろう。彼は、必死の形相で戻ってきて、列車の前方へ向かったのだが、その時はもうかなりの悪臭を漂わせていた。

 私は、この男に同情する気持ちはあったが、それよりも、なぜかヒロイックな行動でも見るような気がしたことを今でも覚えている。彼は必死に戦っていたのだ。人前で見せてはならないものを、最後まで守り通そうとする孤独な戦いと言ったらよいだろうか。

 自分の意志でコントロールできない不随意な行為は隠さねばならない。と、これが私たちの行動原則になっていると言えよう。たとえ夫婦の間でも見せてはならないものがある。

 人前では悪いが、夫婦の間では許されるという行為にも限界がある。放屁はそのどの辺りに位置づけられるのであろう。

 私の義母は九十四歳で亡くなったが、誰ひとり、彼女がオナラはおろかゲップをするのさえ聞いたことが無かった。最後の数年はアルツハイマーの状態になっていたのだが、それでもこのことは変わらなかった。

 私は、義母の世話をしている間にその秘密を知った。ごく単純なことなのだが、彼女はすべてをトイレで処理していたのだ。それを終生怠りなく続けたのである。

 武士の家に生まれ、厳しい躾を受けた彼女は、最初から自己制御の方法を教えられ、それを習慣というよりは、ほとんど習性に近いものにまでしていたのだ。

 こういう厳格な自己コントロールの在り方が必ずしも正しいとは言えないかも知れないが、これも一つの生き方であることは確かであろう。

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