真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと
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私の義母、通称ママは、生涯人前ではオナラをしなかった。前回そういうことを書いたのだが、このことについては、娘である妻にもまったく異論は無かった。
妻は、幼い頃から身近に母親と接してきたので、私の知らないこと、例えば、鼻をほじったことも無いとか、爪楊枝を使ったことも無いなどといったことまで、詳しくコメントを入れてくれた。
ところが、前回私が書いたことのうちに一つだけ、妻とはまったく異なる観察結果があったのだ。私は、七年半のパリ生活で、人がオナラをするのを一度も聞いたことがないと書いたのだが、妻によれば、街の色々なところで、何度もその発射音を耳にしたという。
それも、発射していくのはすべて女だそうで、彼女らは何の悪びれた様子もなく、当たり前のような顔をして通り過ぎていくということだった。
パリで生活している間、私と妻は行動を共にしていることが多かった。街なかを歩く時はたいてい二人一緒だった。それが、一人はまったくそれらしい音を聞いた覚えが無く、一人はいつも聞いていたということになる。
この違いはいったいどこから来ているのだろう。オナラなどというハシタないことについて書くのは一回限りにしておこうと思っていたのだが、このことはどうしても訂正しておかなければならないと思い、やむなく二発目ということになった。
妻の意見では、街を歩く時の緊張度が違うのではないかということだった。妻のほうは守られている側なので、ノンビリ安心して身近なものに気を配っている。守る側にいる私のほうは、それより一回り広い範囲に注意を払っているので、ごく身近なことには気が付かないのではないかというのだ。
そのほかに、私と妻との身長差は15センチあるので、私には低い位置での音は聞き取れないのではないかとか、私も男性だから、すれ違うパリジェンヌたちは遠慮して、私の傍ではやらないのではないかなどと色々な推理が成されたのだが、いずれも説得力のある答とは言えなかった。
結局、最初に妻が言ったように、緊張の有無と、その方向の違いによる結果だということに落ち着いたのであるが、それにしても、経験の結果にこれほどの差があるというのは驚きであった。私と妻は、同じ街なかを歩いていても、別の世界を見、別の空間に生き、別の現象を感じているのであろうか。
確かに、パリの街での緊張度は、日本の都市での比ではない。私たちも、怪しげな男に何度か付けられたり狙われたりしたことがあるし、一度は銀行の現金引出機の前でカードを盗まれたこともあった。
これでも、私などは被害の少ないほうなので、自分ではノンビリしているつもりでいたのだが、やはり周囲の動きにはかなり神経を使っていたのであろう。
高級一眼レフを持って歩くのは危険だということで、外出する時には、小型カメラしか持たないという悪いクセも付いてしまった。おかげで、パリの街の良い写真はほとんど撮れなかったのである。
現金はなるべく持ち歩かず、カードで支払うことも心がけていた。地下鉄に乗るのは避け、バスやタクシーを使ったのも、用心深くなっていたことの現れであろう。もっとも、地方へ行くと、タクシー運転手にボラれるという危険もあるが。
とにかく、こういうことなので、欧米では道行く女性が平気でオナラをするという事実は認めてもよいように思われる。妻がパリで経験したことと、その昔私の伯父がシアトルで見聞したことが一致したからである。
ただ、いずれの場合も、対象になっているのは女性であって、男性がどんな態度を取るのかということは報告されていない。伯父は、アメリカの女はこんなふうだといった調子で、面白おかしく話していたので、その点については曖昧だ。
日本では、女性であろうが男性であろうが、街なかでこんな態度を取ることは普通はあり得ないので、欧米とはかなり意識の差があると言うことができる。
それを自由の意識などという紋切り型の言葉で説明してしまうのは問題であろう。羞恥心の無さと自由の意識は必ずしも一致しないからだ。
それに、欧米の女性たちも、そんな態度を取るのは不特定多数の人々に混じった時ぐらいで、まさか自分の知ってる人や上の人の前でも遠慮なしに自由に行動しているわけではないであろう。
欧米でも、原則として、その行為はハタ迷惑であり、それを抑えることは「思いやり」や「優しさ」に通ずるものと考えられているらしいことは、すでに前回のブログでも述べておいた。
人間の自然な行為であるから許されるとは言っても、その行為自体が認められたということにはならない。
欧米では、食卓でゲップをすることは厳禁だが、鼻をかむことは許されると言われている。しかし、これもあまり派手にやると、眉を顰める人のいることを忘れてはならない。
日本では、人前でオナラをしないことが常識になっている。しかし、家族とりわけ夫婦の間では、あまり厳格にこのルールを守ると、かえって水クサイということになってしまう。
上司やお客の前では自己制御をし、自然現象を抑えている夫でも、職場から家に帰れば、そういうコントロールから解放され、自由にくつろぎたいと思う。
それを可能にするのが、夫婦間の愛情なのだ。オナラクサイほうが水クサイよりはましだと感じる愛情が妻にも夫にも無ければ、家庭での真の団欒は成立しないということになる。
この場合、重要なのは、自分の身体現象を自由にコントロールできるという意志の存在なのだ。これが失われると、自由も失われる。
職場で行動を抑えることも、家庭で解放することも、すべて自由意志にかかっている。これが失われると、職場での自己制御は美徳ではなくなり、家庭での自己解放も真に自由なくつろぎの時間にはならないであろう。
人間は老化し、いずれは身体的な制約に身を委ねねばならない時がやってくる。その時こそ、真に問われるのが夫婦間の愛情であろう。それまでの段階は、いわばその訓練期間だったと言える。
その境界をどこに認めるか、夫婦はそこへ来るまでどうやって愛情を高め合い、身体的な移行を自然なものにできるかということが重要な課題になるであろう。
昔の武家社会は、女性に対しては最初から厳格な自己制御の道を教えた。私の義母、つまりママは、まるでその見本のような存在だった。彼女は、人前では、ハシタないと言われるようなことは一切しなかった。
こういう生き方が良いのか悪いのか簡単には断定できないが、これまでに述べてきたことを考える上で、一つの良い教訓にはなるであろう。
彼女が九十歳を過ぎてアルツハイマーの症状になったため、私と妻は交替でトイレへ付いていき、彼女の面倒を見るようになった。彼女を便器に座らせ、ドアを開けたまま用を足すのを見張っているのである。
或る日、そんなママが私に対して突然叫び始めたのである。
「あんたは何ということをするんですか! わたしは人妻ですよ!」
ママの叫びがやまないので、私は慌ててトイレのドアを閉めた。彼女は静まり、一発大きなオナラをしてトイレから出てきたのである。
彼女は終生、人前ではオナラをしなかった。その秘密を私はこの時初めて知ったのだ。大小便の現場は見られても、これだけは見せられない。私は、彼女の自由意志の譲られない一線を見たような気がしたのである。
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清潔クラブ─清潔について語ろう
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