真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

       ☆       ☆       ☆

 BSで放送されている清潔マニアの名探偵モンクは、ヌーディストが嫌いである。4月15日に放映された「恐怖のヌーディスト」では、若い女性が深夜の海岸で殺されたため、モンクも助手のナタリーを連れて捜査を助けにやって来る。

 その海岸はヌーディストたちの溜まり場になっていた。モンクは、ジープに乗って海岸へやって来た上半身裸の男を見るなり、シャツを着てくれという注文を出す。男が言われた通りにシャツを着て、ジープから降りてきたのを見ると、下半身は丸出しだった。

 これは、嫌いなものを避けようとして、もっと嫌いなものに出会ってしまうという、よくあるお笑いのパターンだ。モンクが何よりも避けたかったのは、むき出しの肉体を見ることだったということがよく分かる。

 上半身裸の男を見ることだったら、モンクだってそれほどムキにはならなかったであろう。海岸へ行けば、そんな男はいくらでもいるだろうし、日常生活でも、人々の裸の姿や画像はいくらでも目に入ってくる。

 モンクがいちいちそんなことを気にしていたら、この現代社会で暮らすことなどできないだろうし、また、これまでのシリーズを私が見たかぎりでは、そんな場面に出会ったことは一度もなかったように思う。

 モンクがヌーディストの男にシャツを着るようにと言ったのは、その男の裸が主義主張を含んでいて、単に上半身裸だというだけでは納まらないからであろう。上半身の裸は、下半身の裸を予想させるからである。

 そして、モンクの清潔好きとヌーディスト嫌いとが結びつくのは、まさにこの点なのである。

 下半身を丸出しにすることは、昔から不潔と考えられてきた。旧約聖書で、アダムとイブの創造神話が象徴的に語っているところでは、禁断の果実を食べた後でこの二人が初めて示した行為は、自分たちの前を隠すことであった。

 私は、この行為のうちに、人類が持つ恥じらいの感情ばかりでなく、それとともに清潔・不潔の観念の起原を見るということを、以前にも書いたことがある(ブログ「ハエを叩いて三千里」)。

 この解釈に基づいて言えば、人類の歴史は、清潔と感じられるものを見せ、不潔と感じられるものを隠すことから始まったと言える。

 何が清潔で何が不潔か、どこまでが清潔でどこまでが不潔か、この感覚には微妙なところがあって、個人差や状況の違いによっても左右されるし、科学的には説明できない謎の部分を含んでいると言える。無菌状態にあるものが必ずしも清潔と感じられるわけではないであろう。

 アダムとイブも、彼らの裸身すべてを隠そうとしたわけではなかった。裸にはむしろ清潔感もあれば美しさもある。女性のヌードには魅力があるし、スポーツ選手の鍛え抜かれた肉体にも美しさや清潔感がある。

 しかし、例えば、プールサイドに居並んだ水泳選手たちがみなヌーディストに変身してしまったら、私たちはいったいどう反応するだろう? 普通の感覚ならば、私たちは本能的に目を逸らすか閉じるかして、自分の目からその光景を隠そうとするに違いない。

 その本能の根源にあると考えられるのが、清潔・不潔の観念に他ならないのである。従って、清潔好きのモンクがヌーディストを嫌うのは、人間の本性に従ったごく自然な感情だと言ってよいであろう。

 NHKの解説を見ると、モンクのそのような傾向を「ヌーディストへの偏見」と呼び、かなり手厳しい見方をしているが、これは単なる好き嫌いの問題であって、決して病的な偏った精神と考えてはならないであろう。むしろ、人間の自然的な傾向としては、モンクのような感じ方のほうが一般的だと言えるのである。

 ヌーディストたちは、人間が本来持っているはずの純粋な自然に還ることを主張するが、そこではむしろ、人間にとって最も反自然的な行為が必要になるとも言えるのである。

 というのも、人間や人間が造り出した物には、見せてもよい部分と、見せてはならない部分、あるいは見せたくはない部分とがあり、その全ての部分をさらけ出すことは自然とは言えないからである。

 BS海外ドラマの一つ「気分はぐるぐる」(4月21日放映)では、母親の裸体彫刻が展示会に出されるのを娘が嫌って、さまざまな妨害工作をする話が面白おかしく描かれていたが、通常のドラマでは、なぜイヤなのかという感情の深層までは問題にしない。

 娘は単純に母親の裸体が不潔だとか醜いと思ったわけではないだろうが、とにかく恥ずかしいから隠したいという否定的な感情を持ったことは確かである。

 何が恥ずかしくて何が隠したかったのか、何がそのような否定的な感情を引き起こしたのか、問題は複雑だが、今はそのような詮索はやめておいて、人間は本能的に何かを見せようとする一方で何かを隠そうとする感情を備えているという事実だけに注目しよう。

 何を見せ何を隠したいか区別する感覚の基礎に、「清潔」と「不潔」の観念があると言える。ここでいう清潔と不潔は、私たちが通常使っている意味よりももっと広く、キレイ・キタナイからイイ・イヤダ、時にはヨイ・ワルイといった意味にもなる識別の観念だと思ってほしい。

 そのような意味で、人間の肉体のみならず人間の精神にも、見せてもよい清潔な部分と、見せてはならない、あるいは見せたくない不潔な部分とがあると言うことができる。歴史や社会についても同様である。

 清潔を愛し、マニアックに不潔なものを拒もうとするモンクが、探偵業に情熱を燃やし、社会の清潔と不潔の葛藤に身を置こうとする衝動をここに見ることができよう。

 清潔マニアの探偵を主役に立てたドラマ制作者の狙いも、おそらくこの辺にあるのに違いない。ドラマの冒頭に使われているシーンで、崩れ落ちたゴミ袋に埋もれてもがいているモンクの姿は、社会の不潔と戦う人間を象徴しており、ドラマ制作者の意図を示しているものと思われる。

 モンクが最初に戦いを挑むのは、真実と虚偽、本当と嘘の判定である。虚偽や嘘の背後に隠された真実を明るみに出し、社会の不潔な部分を清潔な部分へと塗り替えていく。犯人たちは、嘘をつくことがどんなに不潔な行為か思い知らされるであろう。

 しかし、ここで問題になるのが、そのような追求の限界である。それ以上は進めない、それ以上は見せてはならないという究極の不潔さにいずれは到達するであろう。その隠さねばならない最終的な部分を人間の根源悪、すなわち「原罪」と認めるのが、ユダヤ・キリスト教的な発想にほかならない。

 原罪の事実は見せてはならないものである。人間の本性に根ざした殺しの衝動、犯罪への意志は、周囲を清潔な壁で固め、罪の意識と信仰の力によって密閉し、人間からは隠しておかなければならない。

 しかし、この場合、人間の行為のどこまでが清潔で、どこからが不潔かということは、簡単には決められない困難な問題を含んでいると言える。人間の思考は限られており、どれが最終的な認識かということさえ判らないからだ。

 それを知るための最も手っ取り早い方法として、モンクのようなヌーディスト嫌いという性向は、それを課題として自覚するかぎり、分かりやすい目印になるであろう。人間がどこまでを見せ、どこから隠さねばならないかということを考えるきっかけになるからだ。

 中世のキリスト教会に基礎を持つ貴族主義や騎士道精神が、肌の露出を徹底的に抑える方向を目指してきたのに対して、異教的なギリシャ精神は、裸体の自由な解放を目指してきた。

 一方は、隠すことに清潔を求め、一方は、見せることに清潔を求める。この両極端の間に立って、私たちはもう一度、清潔・不潔の意味を考え直してみる必要があろう。

-------------------------------------------------------------------
清潔クラブ─清潔について語ろう
発行システム:『まぐまぐ!』 http://www.mag2.com/
配信中止はこちら http://www.mag2.com/m/0000216973.html
-------------------------------------------------------------------