真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと
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イタリアの画家から「盗作」したということで、いっとき話題になった和田義彦画伯と、いまネット上で大変人気のあるIT作家わらし仙人とを比べるのは、何とも申し訳ないのだが、両者に共通しているキーワードがある。
「パクリ」である。和田氏は自分の絵が「盗作」であることを否定しているが、二人の画家の作品にあれほど似た構図があって、後で描いたのが和田氏だということからすれば、和田氏の絵が「パクリ」であることには違いないであろう。
一方、わらし仙人のほうは、「パクリ方講座」なるものを書いていて、他者の文章からいかにパクリ、自分の文章として完成するかということを事細かに教えている。
パクリとは「盗む」ことではなくて「借りる」ことだと仙人は言う。それも、単なる借用ではなくて、他者の文章のスタイルやパターンを真似しつつ、そこに自分独自の経験を加えた、いわば「創造的借用」なのだと言う。
こういう文章術こそまさにIT時代のものであり、正当化されるものだというのが、仙人の主張である。
私は、こういうことをズバリ言ってのけるわらし仙人に、IT時代の将来を見通した先駆者的な姿、ヒーロー的なイメージを見るのだが、このことについては、稿を改めて述べることにしよう。
さて、こういうわらし仙人の発想が、和田義彦氏の制作方法と完全に一致していることは明らかなのだが、ただ一つ決定的な違いがある。
それは、両者の姿勢だ。わらし仙人は、他人の文章をそのまま書けば「盗作」になることを認め、さまざまなアレンジの方法を用いて、自分の新しい作品に昇華させることを説く。
これに対して、和田氏のほうは、他人の絵のパターンをそっくりそのまま写しながら、それが「盗作」であることは認めない。
つまり、わらし仙人は、「パクリ」のポジティブな意味を認めながら、最後の一線を守ること、完全な模写をしてはならないと言うのであるが、和田氏のほうは、あれほど類似した構図を用いながら、「パクリ」をネガティブに捉え、パクリであることをあくまで否定する。
実は、私は、和田氏のこの固い信念の内に、この画家の芸術創造の意味を解く鍵があると思っているのだが、もう一つ、彼の行動の謎を解く鍵になるのではないかと思われる事実にも触れておきたい。
私がいちばん不思議に思うのは、和田氏はなぜ、元の絵のパターンをほとんど変えることなく、そっくりそのまま描き出したのかということである。
意図的に盗作する者なら、むしろパターンを変えて描いたはずである。和田氏の画家としての才能をもってすれば、そんなことは朝飯前だったであろう。複写することしかできないという無能な画家ならいざ知らず、和田氏ほどの力量のある画家なら、適当にアレンジすることは容易であっただろう。
それを敢えてせず、あの「盗作」と言われた20数枚の絵を堂々と公表した和田氏の心の内に、この事件の意味を解く鍵があるのではないかと思うのである。
世間は、奇矯な芸術家の、常識はずれな言動ぐらいにしか思わなかったのであろうが、その常識はずれに見える言動のうちにこそ、何か真実が隠されているようにも思えるのである。
和田氏にとっては、元のイタリア人の絵に変更や修正を施して、あたかも自分の創作であるかのように仕上げることこそ、正真正銘の贋作であり、パクリであったのではないだろうか。
いずれにせよ、和田氏の生きるイメージの世界では、模倣にせよ、パクリにせよ、目につきやすいことは確かである。ところが、言葉の世界では、文章をそっくりそのまま写し取らないかぎり、盗作もパクリもほとんど気づかれずに通用していることが多い。
わらし仙人は、他人の思考に頼らないで本を書ける人間は1%にも満たないのが今の時代だと言っているが、実は、そういう現象は、もうかなり前から始まっていると言ってよい。
とりわけ、私が関わっている哲学系・思想系の学界では、実験に基づいて実証的に新しい知識を見つけていく自然科学系とは異なって、言葉だけで内容を組み立てていくので、どれが本物でどれが偽物なのか判らない、一種の無政府状態に陥っている。
独創的な研究になればなるほど、それが判る人が少なくなるので、他人の思想をパクリまくって、巧妙につなぎ合わせた研究と区別できなくなる。他人の文章をアレンジして、自分の作品にしてしまう才能に長けている人は多いので、「盗作」とは見えない盗作が氾濫している世界なのだ。
こういう世界でも、時とすると他人の著書をそっくりそのまま写した本が見つかることがある。ちょうど、作家や記者が他人の文書を剽窃したとしてニュース種になるのと同じだ。なんでこんなバカなことを、と人は思うかも知れない。もっとうまくやれたはずなのに、と。
しかし、これしかできないこともあるのだ。文体にも、論理にも、筋の運び方にも独創性があって、どうしてもうまく書き換えることができない。結局、あるがままにパクってしまう他はないということになる。
私は、或る本に、「野球は筋書きのないドラマだとよく言われるが、筋書きはある。あまりにも単純な筋書きなので見落とされてしまうかもしれないが、自分の技術を磨くために努力した者は勝つ、という筋書きである」という文章を書いた。
しばらくして、この文章が一言一句違わず、或る野球解説者の口から出てくるのをテレビで見聞したのである。見事に全文パクラれたことになるが、私はそんなふうには感じなかった。
実は、うれしかったのである。私の本の読者が一人ここにいた。彼がその一節を、タイミングの良い文脈で語ってくれたことに、感謝の気持ちでいっぱいになった。私と彼の、そして彼を通して視聴者全体との、人間的なコミュニケーションが、いっきに成立したような気分だった。
そして、考えたのである。著作権とは何だろうと。それが、商品の製作権や販売権として法的規制に用いられるのはやむを得ないが、言葉やイメージの独占的な所有権のように見られることには問題がある、と。
誰ひとり自分の書いた文章に、自分の発言した言葉に所有権を持つことはない。それは、他者に向かって発せられ、他者が読み取り、聞き終わった瞬間に消失するものであって、単なるコミュニケーションの記号にすぎない。
他者がその記号をどう使おうが自由なのである。わらし仙人は、他人の文章をそのまま書き写すのは「盗作」だと言ったが、それさえも盗作でもなければパクリでもないという視点が開けてくるのではないだろうか。
和田義彦画伯が、他人のイメージを模写しながら、それを「盗作」とは認めなかった視点とも重なってくるように思えるのである。
私がこういう問題に初めて直面したのは、大学に勤め始めた頃だった。学生が提出した哲学のレポートに、本人の文章がなく、何人かの哲学者の書いたものを取り混ぜて、書き写してあった。
その学生は私の部屋へ来て、これはコラージュの手法を用いた正当なレポートだと言い張った。そういえば、この学生は絵画部に属していた。
彼とはそのあと喫茶店へ行って、長々と議論し合ったことを覚えている。結論はどうなったのか忘れてしまったが、不合格にはしなかった。
当時、広告写真家のマッド・アマノが、山岳写真家の白川義員と裁判で争っていた。アマノは、白川の写した雪山の写真に自動車のタイヤの絵を重ねて合成写真を作ったのである。これも創作か盗作かが問題であった。
しかし、いったん公にされたイメージに所有権の概念を持ち込むと、自由な創造性が阻害されることは確かである。特に、言葉の場合、真に独創的な言葉などというものはあり得ない。すべての言葉が、結局は貰い物である。
私の言葉は、父母の言葉、先生の言葉、友人の言葉、メディアの言葉をパクったものであり、父母の言葉は祖父母の言葉、先人の言葉をパクったものである。
日本製CDの海賊版を出したことでなじられた中国人が、お前ら日本人は、中国人が発明した漢字を盗んだではないかと言ったそうだが、確かにパクリ合うことによって文化は発展してきた。
そして、今、IT時代に入って、盗むとか、借りるとか、パクルといった制約のない、自由な言葉の世界が始まろうとしているのではないだろうか。
これにちょっと遅れて、イメージの世界も加わろうとしている。グーグルのユーチューブ買収がそれを象徴しているように。
この問題についての結論と分析は、いま執筆中の『和田義彦画伯の芸術』(ビワコ・エディション出版予定)で示すつもりだ。
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