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「別の視点から見る。」

西田哲学に対して、ちょっと拒絶感を感じてしまった私。

今月の修行「肯定的態」が試される。

肯定的に見よう見ようと思っているはずなのに、自分の力で肯定的に見る事ができずにいる。素直に、校長に思いをぶつけてみる。と言うか、ざっくばらんに話をする。校長も難しさや難解さについては共感をするが、視点が違った。

「西田幾多郎の生い立ちだとか、そういう点から見てみるというのも大事なんじゃないか。」

と。もっと現代語に訳されているものもあり、もっと分かりやすい事も大事だと思うが、分かりやすくすることで伝わらないニュアンスもあるような気がするとも言っていた。

その点については同感である。

内容に関して、一つ一つを取り上げて細かく検証していくというようなやり方をしていっても駄目なのかもしれないし、分からないだろうし、そんな事をしている余裕はないと言う。

言葉一つ一つをあまりにどうこう言っても仕方がないが、自分はそこにとらわれすぎていたようにも思う。また、それは比較的自分の傾向でもある。

細かいところにとらわれてしまって先に進めなくなってしまったり、全体が見えなかったりするのだ。

校長から、新しい視点をいただいたことで、少し、肯定的な気分が自分の中に生まれた。まだ、実際共感できるかどうかは分からないが、そう言った判断抜きに何を掴む事ができるのか、難解なテキストの背景にある、人間の生き方。それは、現象の裏側にある高次の意図を思わせる。

また、ちょっと別の視点で西田幾多郎とその哲学を見る事ができるのかもしれない。

のみならず、肯定的な態度、自分自身で作り出す事が出来ない時に、他人の力を借りる事でも可能であり、そのような経験の蓄積が、自然と自分自身の力で肯定的な態度になる素地となるのかもしれないと思った。

同じように、子ども達の道徳的態度も、はじめから子ども自身の中から自然に生じるだろうと期待することなく、物事に対する。判断や感じ方を一旦表面に出させた上で、ある、別の価値観を投げかけてみると言う事が大事なのではないかと考える。

西田哲学のテキストをいただいた。

 西田哲学は、かかわるのが始めてであるが、どのくらいの人々が評価をしているのだろうか?

シュタイナーもマイナーであると言われればそうかもしれないが、論調には引き込まれるものがある。分からない部分も多いことは確かだが、説得力とさまざまな分野との関連や共通認識が出来、論調は比喩表現によって理解がうながされたり、例示によって納得できる部分が多い。

 京都学派は、人智学の影響を受けているらしいが、なんとなくそのような気もするが、影響を受けるならばもっと伝えるための苦労までも影響を受けていれば・・・と感じる。

シュタイナーの主著「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか。」 

第五版のまえがき

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』のこの新版を機会に、十年以上も前の旧稿に徹底した推敲を加えた。本書が試みているような仕方で、魂の体験と魂の道とを記述しようとすれば、当然のことながら、いくらでも手を加えたい要求に駆られる。ここに述べられている事柄の中で、著者の魂と深く結びついていないような部分はどこにもないし、著者自身の魂の内部の耐えざる作業から発していないような部分もない。何年も前に書いた文章にもっと明確な表情を与えようとする努力は著者の魂の内部にこのような作業がなければ不可能であろう。・・・・誤解が生じそうな箇所に注意を向け稿を改めるたびにその誤解が解消されるように努力した。・・・・師の人格との関係よりも、客観的な霊界との直接的な関係の方がはるかに大切であるという観点を、細部における表現の仕方を変えることによって、これまでよりも明確に協調することができたと私は考えている。

第八版のまえがき

 今回の新版に際して、改めて全体を検討した結果、若干の箇所意外変更の必要を認めなかった。その代わり、このはんのために私は「あとがき」をつけ加え、それによって誤解されることなく、本書が扱う魂の基本的諸問題が以前よりもいっそう明瞭になるように努めた。

    (「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」ルドルフ・シュタイナー著・高橋巌訳 ちくま学芸文庫 p15〜19)

  難解な部分も多くあるが、それでも魅了してやまないのはこのようなシュタイナーの基本的な姿勢にあるのではないかと、改めて感じた。

  

 西田哲学の信望者の方もいらっしゃると思うし、そこから人生の解を見出している方々もいらっしゃると思うので、もしかしたら、その方々は、人智学に直接触れてみると、さらにその認識の世界が明確になるのではないのかと感じる。

  西田哲学選集 第四巻 現象学 論文集 「働くもの」

 早とちりな私は何か関連しそうなものはないかと「職業のカルマと未来」を購入して読み始めた。

 しかし「働くもの」というのは、例えば 「赤」という色を見たときに内面に「働くもの」というような意味であった。

 読んでいるうちに、ゲーテの「色彩論」ではなんと言っているだろうか?と説明を求めたくなった。

 さらに、主語と述語に関する定義が分からないこと、さまざまな判断の種類が出てくるが、それらの概念もまた分かりにくい事。一番困っている事は、1ページ当たり5,6個くらいは出てくる「〜ねばならぬ。」「〜と考えねばならぬ。」「〜でなければならぬ。」という「ねばならぬ。」事の多さである。「〜ねばならぬ。」とくれば、「なぜなら、〜であるからである。」といった解説や証明がされねばならぬ。

 比喩的表現や例示がほとんど見られないと言う部分も理解を困難にしている。

 超感覚的世界の認識として、思考の対象を思考とするという高度な段階まで意識が高まっていれば読む人によってはその思考の流れを捉え読み解く事ができるのかもしれないが、これを一般教材として読み合わせ講座に持っていくには非常にハードルが高いものがある。

 中に多く出てくる「判断」とそれに関わる経験や感覚等についての論考も「ゲーテ的世界観の認識論要綱」の「経験」「思考」の項などを見ると、より具体的な身近な例からはじめて展開されていく。それらのステップを踏んだ上で、純粋思考としての流れを掴もうとするのであればもしかしたら理解できるのかもしれない。

 「一般と特殊」「主語と述語」「一般概念、積極的概念、矛盾概念、類概念」

これらに、どのようなイメージを西田は描いていたのか。

例えば以下のような文章

 実在判断に於いては、その結合が偶然的であり、無限の可能を許すと考えられるが、数理的判断のごときにおいては、必然的であって他の可能性を許さないと考えられる、したがって主語と述語とは分かちがたきものと考えられるのである。(「現象学」論文集4・179) 

 我々の経験的知識の根底には、主語となって述語とならないものの述語的一般者がなければならぬ。(「現象学」論文集4・197)

 物理科出身の私は、これは、もしかしたらいきなり量子力学の回答を見せられているかも知れず、この理解、証明には並々ならぬ時間をかけなければならぬのではないかとたじろいでいる。もしそうであるならば、私はそこから逃げ出して「ゲーテ的世界観の認識論要綱」や「色彩論」を学ぶ方へと走り出したい要求に駆られている。

 読みながら、納得できそうな部分、共感できそうな部分、解釈できそうな部分を探しつつ、この取り組みは、かえって人智学を学ぶ事をさらに楽しくさせてくれるのではないかとも感じている。 

「感性を大事にする」

 

 新しい職場。始めに校長の話の中に子ども一人ひとりを見る事の大切さ。本当にその子どもが見えているのかどうかと言う事を問い直す必要があるという事が出てきた。

 昨日は日々出される学級通信の中の一節を紹介された。何気ない日常で見落としがちな事に目を向ける事の大切さを伝える文章を書いている先生がいた。根本的に考えている事は同じだなあと思った。表現はその先生の方がとても美しい比喩を使っていた。びっしりと書かれた学級経営案の中にも子ども達に対するたくさんの思いがあふれていた。

 いろいろな問題があちこちで生じているが、まだまだ、公立学校も捨てたものじゃないぞと感じた。

 今年は人権教育の担当なので、人権旬間に絡んで、日々の私達の態度が子ども達の見本となるようにしていきましょうと言う事を重点目標にすえた。

 夜、有志の学習会。自分の授業中の癖と弱さを指摘してもらえた。リーダーは私よりも10歳も若い先生である。自分で振り返っているだけではなかなか気付けない事だ。そういう仲間がいる事は非常にありがたい。

 子どもを見る感性を磨いていく事。

 子どもに対応している実際の自分自身の姿を客観的に見てもらう事。

 

 受け止め方、表現の仕方。

 

 日々、磨いていく方法や機会を大切にし

 

教師は、枯れていてもいけないし、酸っぱくなっていてもいけない。

 

 枯れる事ないさわやかな魂の気分を持ち続けるためには、日々の修行しかない。

 

 そして、自己を磨きあう仲間を強烈に引き付ける位にまで自分を高めていきたいと願う。

心身の調和を築く五つの方法 その4

「肯定的態度」

 

引越し、新たな職場での生活の忙しさで、4月は十分に日々の修行に取り組む事が出来なかったので、予定より一月遅れですが、心身の調和を築く五つの方法 その4に5月は取り組みたいと思います。

 

 「肯定的態度」

・・・あらゆる経験、存在、事物に対して、それらの良いところ、優れたとこr、美しいところを探し出す練習です。

・・・秘教の学徒はあらゆる現象、あらゆる存在のなかに肯定的なものを探そうと努めなくてはなりません。そうすると、醜い覆いの下に美しいものが隠されていたり、罪悪の覆いの下に善が隠されていたり、狂気の多いの下に神秘的な心魂が隠されているのを、求めるようになるでしょう。この練習は「批判の放棄」といくらか関連しています。
 しかし、白いものを黒と言い、黒いものを白というかのように理解してはなりません。単に自分個人から発する判断は、個人的な共感と反感の色を帯びています。そのような判断ではなく、愛情を持って、見知らん現象、あるいは見知らぬ存在の中に自己移入してみます。そして、「この人は、どのようにしてこうなったのか。どのようにして、こうするにいたったのか」と思ってみます。このような見方をすると、不完全なものを単に非難したり批判したりするよりも、その人を助けようと努めるようになります。

 生活状況に対して異議を唱えたり、人々を非難して裁く事を、この練習中はやめます。・・・修行を不可能にする生活状態がたくさんあります。ですから、そのような生活状態にありながら、心魂―精神の進歩を性急に要求すべきではありません。進歩は一定の条件化にのみ可能なのです。
 一ヶ月間、あらゆる経験に際して、肯定的な側面に意識的に目を向けるようにします。そうすると、自分の表皮が透明になって、以前は全く注意しなかった、秘密の精妙な経過に心魂がひらかれるような感情が生じてきます。精妙な事柄に対する不注意を克服する事が大事なのです。そのような感情が「浄福」のごとく心魂のなかで作用するのに気付いたら、思考のなかで、この感情を心臓に導きます。そして、そこから両目に流れさせ、されに自分の前および周囲の空間に流そうと試みます。そうすることによって、空間と内密な関係が得られます。自分が自分を超えて、成長するかのようです。自分の周囲の一部を、自分自身に属するもののように考察できます。

 この練習には高度の集中力が必要です。何よりも、荒れ狂ったもの、情念、激情が、先に述べた気分を破壊するという事実を、承認する必要があります。ここでも、一ヶ月目からの訓練を繰り返す事によって、先に示唆した成果が得られます。

    (「人間の四つの気質」ルドルフシュタイナー著 西川隆範訳 p145,146)

 

 以前の自分を振り返ってみると、非常に物事に対して批判的であったと感じます。例えば、子どもが、廊下を走ってはいけないよ。と注意されると、異常なほどに廊下を走っている人を批判したり、姿勢が悪いと注意されると、とたんに他の友達の姿勢の悪さが気になって仕方がなくなったりするように、ちょっと、何か、「こうする事が良い」的な事を知ると、そうしない人を非常に批判的な目で見たりしていたように感じます。自分が何かを頑張っていると思えば思うほど、他の人たちが頑張っていないように思えたり・・・。

 今、私は朝食を抜く生活をしています。以前は朝食信仰というくらいでした。学生時代でさえ、飲み会のあとでも朝食を作って食べていて、泊まっていた友達にまで出すほどでしたが、仕事が始まって朝しっかり食べていくと、食べたその時には体が熱くなって目覚めるような感じがするのですが、学校につく頃になるとどうも疲れと言うか、眠気が出てきたり調子があまり良くないということと、しょっちゅう風邪もひいていたり、とても健康とはいえなかったということもあり、本当に朝食は健康に良いのかと疑問に思っていました。両親は、朝食をちゃんと食べているかと言う事ばかり気にしていたものですから、実際の私の健康状態というよりも、朝食を食べていれば安心と言うところにしか目が向いていなかったようです。朝食を抜く健康法の本を読んで非常に納得して、朝食抜きを始めたのですが、風邪をあまりひかなくなり、さらに、朝の時間を仕事の時間に当てるようにできたり、ちょっとした修行の時間に当てたり出来て快適になりました。それを、実家に戻った時にすると、両親は犯罪者のごとく、批判、心配をするので、実家にいるときには朝食を食べます(旅行で旅館に泊まった時なども。)が、自分の体は、朝食抜きの方が確実に体調のよさを感じているのです。だからといって、すべての人が朝食抜きが合っているとは思いません。

 

これまでそうだった。昔からそうなっている。なんとなくそういわれている。それが当たり前だと思っている。その中には当然正しいものもあると思うのですが、さまざまな環境、経験の影響を受けて人の行動は決まってくるので、自分の感覚がすべてだと思う事ほど自分を狭くしてしまうものは無いと思うのです。

 

また、前回書いたように、「自分の周囲の一部を、自分自身に属するように感じる」事は、自我を正しく理解していく上でとても大事なものになっていくと思います。

 

私自身は、この毎月の取り組みは意識できていたりできていなかったりしつつ繰り返して取り組んで今年で4回目位になると思います。新しい職場に異動してきて、ふと、周りの職員とのつながりがとてもスムーズにいっていて、風通しが良いのを感じます。以前はもっと否定的な見方をして、さらにそこにとらわれて壁を作ってしまっていたように感じます。今は、比較的すぐに打ち解けて楽しく話をしつつ、だからといって相手に迎合するとか流されるとかではなく、自分は自分で良いのだし自分の考え自分の感じ方で自分の行為を決定する事は邪魔される事はないと感じています。

 

 偏った見方をしない事は、教室の子ども達にとっても大事な事です。「今、感じている事をすべて錯覚だと思いなさい。」「教室では、たくさん間違えたほうがいい。」と話をしています。

 出来ないと思っている事も錯覚です。やり方次第であったり、もう少し努力を続ければ出来る事もたくさんありますし、出来ると思っていても、世の中にはもっとすごい人はたくさんいます。出来る出来ないは比較の問題ですと。「間違い」を認める雰囲気は絶対に教室には必要です。自分の感じ方を素直に表現する事で、自分自身を知り、友達を知る手がかりになります。それが、求められているような正解とずれていればいるほど、その子らしさを知る情報が満載です。

 

 特別支援学校の子ども達と以前は生活をしていたので、必ずしも表面的に出てきているものがすべてではないという事は実感しています。聴覚障害の子ども達の歌は、心で歌います。音程が外れていたり、友達と上手く合わせられない部分があっても、意識の中では、音程を作り出し、友達に合わせようとしています。

 

 心の中にある意識の方向さえ正しければ良いのです。それを表現する時に、私達や子ども達は上手く伝わるような言葉や表現方法を十分に身につけていないことが多いので、それを身につけていくことが勉強であり、日々の生活を改善していくポイントであり、他人を理解する時に気をつけなくてはいけないことだと思っています。

 

 4月当初、間違える事を恐れて発言をする事が出来なかった子ども達。せっかく友達が良いことを言っているのに、聴いていなかったり反応の少ない子ども達。男女の間の溝が会った子ども達。不登校、いじめ、等の問題をはらんでいる子ども達。

 

 間違えを恐れず、積極的に発言をするようになってきた子ども達。男女仲良く談笑する姿が多く見られるようになってきた子ども達。友達を思いやる姿が見られ、昨年まで全く教室に入れなかった子ども達が安心して教室に入ってこれるようになってきた教室。

 

 もっと、もっと子ども達の肯定的な部分に目をむけ。隠れている善さを引き出していきたい。

 

 最近エネルギーがちょっと切れてきたように感じていたので、この連休で新たに充電をして1学期を公私共に充実させていきたい。

「後悔も悪くない」

輪廻転生を考えた時、前世での望んだことが来世に影響すると考えた時。

後悔する事があっても悪くないのではないかと思う。まずいのは、後悔すべきところを後悔せず、よしとしてしまう事ではないか?

後悔するからこそ、次へのアイデアが生まれる。今頃気付いたって遅いということは無い。

その一瞬しか生きられないと考えるのならば、その一瞬のミスが後を引く事もある。

ちょっとした、日常的なこと。例えば、異動してきたばかりで挨拶などを言う機会が多くある。上手い話をする人達がたくさんいる。自分の番。ああ。もっと上手い事言えばよかったのに。後になって、ああいえばよかったな。こう言ったらよかったな。という後悔がある。

以前は、それで、損をしたような気持ちになったり、だから自分はだめだなあと否定的になったりすることが多かったが、最近は、その挽回のチャンスが比較的すぐに訪れる。今度、こんな事があったらこうやって対応しよう。とか、こう話そう。と思っていたシチュエーションが現れる事が多くなってきた気がする。

今更、過ぎてしまった事を考えたってしょうがないと言うのは、マイナスの感情に触れたくないからで、そのマイナスの感情をプラスにするように今度同じ機会があれば、こうしよう。と考える事はマイナスには働かないと思う。

さらに言えば、修行が進んでいくと、エーテル体として?過去のさまざまな状況にいつでも帰ることが出来るらしい。そして、その時の影響を変える事ができるらしい。

それは、あの時こうしていればよかったのに、という失敗の経験を、もしこうしていたらどうなっただろうという違った対応の仕方を考える事、そして、それを意識の中で経験する事によって、新たな影響を自分の中に及ぼす事が出来るということではないかと思う。

人生は偶然の出来事がたくさんあり、その一瞬の判断や対応によってその後の生活が全く変わる事がある、すべてを予想して、予定通りにこなしていく事は不可能である。

もっと、あの時ああしていれば。そんな経験をたくさんすればいい。

はじめから、かっこいい人生なんか無い。

そのたびに生まれるこんな対応が出来た。という考え方をたくさんもてるためには、後悔や失敗をたくさんする以外に無いのではないかと思う。

失敗こそ学びの宝庫と考えたい。

 

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